イフシード朝(読み)イフシードちょう(英語表記)Ikhshīd

改訂新版 世界大百科事典 「イフシード朝」の意味・わかりやすい解説

イフシード朝 (イフシードちょう)
Ikhshīd

アッバース朝から半独立したエジプトのトルコ系イスラム王朝。935-969年。初代のムハンマドMuḥammad b.Ṭughj(在位935-946)が,アッバース朝カリフ,ラーディー(在位934-940)から,イスラム以前の東北イランにおいて地方君主を意味したイフシードを称号として与えられたことから,この王朝の名称が起こった。ムハンマドはエジプトの政治的混乱を収拾するとともに,シリアの支配権も得て,モースルに根拠を置くハムダーン朝と対立した。彼の没後は2人の息子が続いて後継者となったが,実権はムハンマドの黒人宦官で将軍でもあったヌビア出身のカーフールKāfūr(968没)が掌握し,一時はみずからが君主の地位を占めた(在位966-968)。その間彼はハムダーン朝やファーティマ朝の侵略をよく防いだ。しかしカーフールの没後はムハンマドの孫のアフマドAbū al-Fawāris Aḥmadが即位したものの,北アフリカから侵入して来たファーティマ朝の将軍ジャウハルJawharの軍隊に敗れ,て滅んだ。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「イフシード朝」の意味・わかりやすい解説

イフシード朝
いふしーどちょう
Ikhshīdids

935年にムハンマド・ブン・トゥグジュがアッバース朝から実質的に独立して建てたエジプトの王朝。939年にムハンマドはアッバース朝からイフシードという称号を与えられた。王朝名はそれにちなんでいる。このムハンマドは中央アジア出身のトルコ人マムルークの孫で、父もアッバース朝に仕える軍人であった。ムハンマドは933年にアッバース朝によりエジプト知事に任命されたが、2年後には実質的に独立し、のちにはシリアやヒジャーズ地方をも版図に加えた。彼の没(946)後は、息子のアヌージュールとアリーが後を継いだが、実際の権力はアビシニア人宦官(かんがん)のカーフールが握った。カーフールは、北アフリカのファーティマ朝やジャジーラ(ティグリス、ユーフラテス川に囲まれたステップ地帯)、シリア北部のカルマト派やハムダーン朝の勢力からイフシード朝の領域を守り、同朝の繁栄期を築いた。きわめて高品位金貨の発行がこの繁栄をよく示している。またこの時代には学芸が奨励され、有名な詩人ムタナッビーもカーフールをパトロンとしていた。カーフールの死(968)後アリーの子アフマッドが後を継いだが、その翌年にはジャウハルの率いるファーティマ朝遠征軍が侵入し、滅亡した。

湯川 武]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イフシード朝」の意味・わかりやすい解説

イフシード朝
イフシードちょう
Ikhshīd

フェルガーナ出身のトルコ人ムハンマド (在位 935~946) が建設したイスラム王朝 (935~969) 。版図はエジプト,シリア,パレスチナ,ヘジャズに及ぶ。首都はフスタート。ムハンマドはアッバース朝のエジプト総督となり,カリフ,ラーディーからイフシード (支配者の意) の称号を受けて,トゥールーン朝滅亡後の混乱を収拾した。彼の死後はヌビア人奴隷のカーフールが事実上の支配者となって,エジプト,シリアの防衛にあたったが,969年ファーティマ朝の将軍ジャウハルによって滅ぼされた。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android