ウィーゼンタール(読み)うぃーぜんたーる(英語表記)Simon Wiesenthal

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウィーゼンタール」の意味・わかりやすい解説

ウィーゼンタール
うぃーぜんたーる
Simon Wiesenthal
(1908―2005)

ユダヤ人虐殺にかかわったナチス戦犯の追求を続けたユダヤ人活動家。オーストリア・ハンガリー帝国のブチャチ(のちポーランド、ソ連領などを経て現在はウクライナ領)で生まれた。第二次世界大戦中の1941~1945年、ナチス・ドイツのユダヤ人狩りによって捕らえられ、いくつかの強制収容所を経てマウトハウゼン(オーストリア)で終戦を迎えた。1947年、ユダヤ人虐殺の責任者アイヒマンKarl Adolf Eichmann(1906―1962)の出身地で、当時アイヒマンの兄弟が住んでいたリンツ(オーストリア)に「ユダヤ人虐殺に関する資料センター」を設立し、ナチスの犯罪告発に乗り出した。1960年、ついにアイヒマンがアルゼンチンのブエノス・アイレスに潜伏中であることをつきとめ、イスラエル秘密警察が極秘裏に逮捕、イスラエルに連行、裁判にかけ死刑に持ち込んだ。1962年ウィーンに資料センターを移し、世界各地のユダヤ人からの資金援助を得て、ナチス戦犯2万2000名余のリストを作成、1000人以上のドイツ、オーストリア、フランスにおけるナチス戦犯裁判立件に寄与した。これらの経緯を1967年『殺人者はそこにいる』The Murderers Among Usとして公刊したほか、1988年には回顧録復讐(ふくしゅう)でなく、正義を』Recht, nicht Rache.(邦訳名『ナチ犯罪人を追う』)を刊行した。なお、ロサンゼルスには彼の名を記念してつけたサイモン・ウィーゼンタール・センターがある。

[藤村瞬一]

『中島博訳『殺人者はそこにいる』(1968・朝日新聞社)』『徳永恂・宮田敦子訳『希望の帆――コロンブスの夢ユダヤ人の夢』(1992・新曜社)』『下村由一・山本達夫訳『ナチ犯罪人を追う――S. ヴィーゼンタール回顧録』(1998・時事通信社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ウィーゼンタール」の意味・わかりやすい解説

ウィーゼンタール
Wiesenthal, Simon

[生]1908.12.31. オーストリア=ハンガリー帝国(現ウクライナ共和国),ブチャチ
[没]2005.9.20. オーストリア,ウィーン
ウィーンのユダヤ人資料センターの設立者。 1961年から 2003年まで同センターの所長を務めた。イスラエル,ドイツ連邦共和国 (西ドイツ) など各国政府の協力を得て長年にわたり「ナチスハンター」として活動し,1000人をこえる戦争犯罪人を裁判所に送った。 1932年にプラハ工科大学を卒業したのち,ポーランド領のルウフ (現ウクライナ,リボフ) に居を定める。 1939年ルウフがソビエト連邦に占領された際にはソ連の秘密警察 NKVD賄賂を渡してシベリアの収容所送りを免れたが,1941年にルウフがドイツに占領されたあとは強制収容所を転々とし,1945年オーストリアのマウトハウゼン収容所から解放された。戦後まもなくアメリカ軍に協力してナチス戦犯の起訴に必要な証拠集めに取り組み,1960年のアドルフ・アイヒマン逮捕などに貢献した。 1961年ウィーンにユダヤ人資料センターを設立。 1967年には「絶滅収容所」として知られるトレブリンカ収容所,ソビブル収容所の所長を務めたフランツ・シュタングルの逮捕に大きく貢献した。 1977年,ホロコーストの記憶を風化させないこと,そして人種差別反ユダヤ主義,大量虐殺などと闘うことを目的にサイモン・ウィーゼンタール・センターが発足。アメリカ合衆国ロサンゼルスに本部を置き,世界各地に支部が開設されている。

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