翻訳|Wall Street
ニューヨーク市マンハッタンの南端にある街路(ブロードウェーからイースト・リバーに至る約6キロメートル)の名称。ウォール街の名称は、1653年に当時の総督スタイベサントPeter Stuyvesant(1592―1672)が、植民者オランダ人を先住民(アメリカ・インディアン)や外敵から守るために築いた防壁に由来するといわれている。この付近には、ニューヨーク証券取引所がありアメリカの金融中心地として有名であることから、「ウォール街」はしばしばアメリカ金融・証券市場の代名詞として使用される。
[伊東政吉・前田拓生]
ウォール街は当初ヨーロッパ商品の取引市場として出発したが、独立後の1783年に公債や銀行株を中心に証券取引が始まり、市場の中心はしだいに金融・証券取引へ移行していった。とくに1817年にニューヨーク証券取引会所(ニューヨーク証券取引所の前身)が設立され、その後鉄道建設に伴い鉄道株取引を中心にモルガン、クーンローブなどの投資銀行の事業が活発となり、ウォール街は証券取引の中心地としてその名を高めた。第一次世界大戦後は株式ブームとなってウォール街は活況を呈したが、1929年10月の株価暴落に始まる大恐慌により暗黒時代を迎えた。金融・証券市場の再建整備はニューディール期に達成され、第二次世界大戦後は、アメリカの国際的地位の向上とともに、ウォール街も国際金融市場の中心地として、重要性をいっそう高めていった。
[伊東政吉]
アメリカ経済の国際的なプレゼンス(存在)が高まるなか、アメリカの大統領レーガンやイギリスの首相サッチャーなどの新自由主義的な政策運営に加え、経済の先行きに対する楽観的な見方から、1980年なかば以降、各国ともに株価の上昇が続いていた。しかしこのような楽観的な経済がいつまでも続くわけがなく、1987年10月にウォール街発の株価暴落が起こった。いわゆる「ブラック・マンデー」である。ウォール街発のこの株価暴落はまたたくまに世界中に波及し、各国の主要な株価指数は軒並み大幅に下落した。しかし、1929年の経験を生かし、各国ともに大規模な金融緩和政策を行ったことで、実体経済に対する影響はそれほど深刻なものにはならなかった。
[前田拓生]
その後も株価は幾度かの乱高下を続けたものの、アメリカの「強いドル政策」を背景にして、世界の経常収支の黒字がアメリカの巨額な赤字をファイナンス(資金調達)する形でアメリカに多額の資金が流入するようになった。流入した資金はアメリカ内の住宅投資を支え、2002~2005年の住宅投資は前年比5~10%という高い伸びとなった。また旺盛(おうせい)な住宅投資によって住宅価格が上昇するとともに、住宅の純資産価値を担保としたホーム・エクイティローンなどの仕組みを通じて国内の資金循環が活発化し、消費など国内需要が拡大したことから、アメリカ経済をさらに押し上げることになった。また、アメリカの代表的な株価指数であるニューヨーク・ダウ工業株価やNASDAQ(ナスダック)なども上昇を続け、ウォール街は国際金融市場の中心地としての存在感を強めていった。
このような住宅ブームは、住宅価格の上昇に対する過度な期待や証券化等の金融技術の発展を背景にして、本来ならば住宅ローンを組むことのできないような層への貸出スキーム(仕組み)としてサブプライムローンなどが考案されたことから急激に普及した。また同時に、サブプライムローンを担保とする住宅ローン担保証券やそれを担保に再証券化した債務担保証券Collateralized Debt Obligation(CDO)も高利回りを求める銀行やヘッジファンドを中心に広く投資されるようになった。
住宅価格はその後も、S&Pケースシラー住宅価格指数(アメリカの住宅価格指数)でも明らかなように、1987年から2006年第2四半期まではほぼ一貫して上昇していた。しかし2006年後半以降、徐々に低下するようになるにしたがい、CDO等のレバレッジ(少ない資金で何倍もの効果を追求すること)の高い金融商品の価格が急落するようになった。そして2007年に入り、この動きが顕著になってくるなか、アメリカの大手証券会社ベアー・スターンズ傘下のヘッジファンドの破綻(はたん)やフランス大手銀行のビー・エヌ・ピー・パリバ(BNPパリバ)が同行傘下のミューチュアルファンド(小口資金を分散投資する投資信託の一つ)を解約凍結したことなどを受け、ニューヨーク市場を含む世界中の株価が大きく下落した。これは一般に「サブプライムローン問題」とよばれている。
このサブプライムローン問題はその後も各国に波及したことから、欧米の金融機関を中心に損失が拡大し、2008年9月に長い歴史をもつアメリカ大手証券会社リーマン・ブラザーズが突如破綻した(いわゆる「リーマン・ショック」)。これによりアメリカ株価は暴落し、世界中に伝播(でんぱ)するとともに、その後の世界的な同時不況をもたらした。また、このリーマン・ショックによって、アメリカ大手保険会社AIGが一時国有化されるとともにアメリカの銀行も吸収合併等が進み、加えて、ゴールドマン・サックス等の大手証券会社も流動性確保のためアメリカ連邦準備制度理事会(FRB)からの支援と管理が受けやすい銀行持株会社に急遽(きゅうきょ)移行するなど、ウォール街の勢力図も大きく変化した。
[前田拓生]
『M・ナドラー、S・ヘラー、S・シップマン著、吉野俊彦・津坂明訳『ニューヨーク金融市場』(1962・至誠堂)』▽『内閣府編『経済財政白書 平成21年版――危機の克服と持続的回復への展望』(2009・日経印刷)』▽『チャールズ・R・ガイスト著、菅下清廣監修、中山良雄訳『ウォール街の歴史』(2010・フォレスト出版)』▽『小椋広勝著『ウォール街』(青木文庫)』
ニューヨーク市の南端マンハッタン地区にあり,ブロードウェーのトリニティ教会の正面からイースト川までの通り。ニューヨーク株式取引所,アメリカン株式取引所,モーガン・ギャランティ・トラスト社その他の国際的な金融機関や商品取引所が集まっており,アメリカのみならず世界の金融・資本市場の中心。ニューヨーク証券市場ないし金融市場の同義語として,ひいてはアメリカ資本主義の中枢部の意味に使われる。ウォール街かいわいは,ニューヨーク発祥の地でもある。1623年,オランダ人がマンハッタン島をニューアムステルダムと名づけて植民を始め,53年,オランダ人総督ストイベサントPeter Stuyvesantが,豚やヤギが町の北側に迷い込むのを防ぐために丸木の塀wallを建てた。これが〈ウォール・ストリート〉の名前の由来とされている。64年にはイギリスの植民地になり,ニューアムステルダムはニューヨークと改称された。17世紀後半には〈ウォール・ストリート〉は海賊の根城であった。18世紀初頭になると商人がこの街に移り住んできたが,この時期には市役所,奴隷市場,牢獄などがあった。その後,官庁・住宅街に変わり,18世紀後半,とくに1776年のアメリカ独立以後,証券取引がしだいに活発になった。92年に取引規約が定められ,翌年ウォール街に取引所の建物が造られた。1840年代には,金融・資本市場として本格的な活動が始まった。第1次大戦のブームによってその名は世界的になり,1929年10月24日の〈暗黒の木曜日〉に始まる大恐慌を経験して,第2次大戦後は,19世紀のイギリスのロンバード街に代わって,世界最大で影響力の最も大きい金融市場となった。
→ニューヨーク株式取引所 →ニューヨーク金融市場
執筆者:戸田 周作
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アメリカのニューヨーク市マンハッタンの南端にある街路。ニューヨーク証券取引所をはじめ大証券会社や大銀行が集中し,金融中心地としてアメリカの金融・証券市場の代名詞ともなっている。建国後公債など証券取引が増大し,1817年証券取引所が開設,ニューヨーク市の発展とともに金融市場としての地位が向上,19世紀末にはアメリカ資本主義の牙城とみなされた。1929年の大恐慌で威信は低下したが,第二次世界大戦後国際金融市場の中心としての重要性は増している。2001年9月11日にテロ攻撃を受けた世界貿易センター(WTC)はそのシンボル的な存在でもあった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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