イギリスの電気工学者。ロンドンの名家に生まれ、ロンドン・カレッジを卒業後、グラスゴー大学でケルビンに師事。1867年インド政府の通信局に勤務ののち、1873年(明治6)日本政府の招請を受けて工部大学校(現在の東京大学工学部)教授となり、1878年6月までの5年間、物理学、電気工学を教え、日本の電気工学の誕生に寄与した。帰国後、電気工学の技術教育にあたり、1884年サウス・ケンジントン大学の電気工学教授となった。また物理学会会長や電気工学会会長なども務めた。日本滞在中の1878年3月25日、グローブ電池50個を使用してアーク灯を点灯。これが日本最初の点灯で、3月25日は「電気記念日」とされている。また、志田林三郎、中野初子(なかのはつね)、浅野応輔(あさのおうすけ)、藤岡市助らを育てたほか、イギリスへの留学生送り出しにも多く貢献した。
[高橋智子 2018年8月21日]
イギリスの物理学者,電気工学者。御雇外国人教師として日本の工学寮電信科(現,東京大学工学部電気工学科)の初代教授を務めた。弁護士の子としてロンドンに生まれ,ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジで学び,さらにグラスゴーでW.トムソン(ロード・ケルビン)に教えを受けた。インド電信社に勤めたのち,1873年から79年まで在日して工部省工学寮で物理学と電信学を講じた。妻マティルダはイギリスでも草分けの女医の一人で,夫とともに来日し,日本で助産婦養成のための学校を開いて教育している。エアトンの研究への精励ぶりは教え子に強い印象を与えた。工学寮電信科は公開の学校における電気工学関係の学科として世界最初であり,エアトンは世界最初の電気工学教授であった。彼は帰国後79年にロンドン市同業組合学校The City and Guilds of London Instituteの教授となったので,イギリスで最初の電気工学教授でもあった。在日中から帰国後を通じて,彼は同僚のペリーJohn Perry(1850-1920)と共同で電気計測器などの多くの発明をした。エアトンは92年にイギリス電気学会The Institution of Electrical Engineersの会長に選ばれた。在日中の1878年に,中央電信局竣工に際しての祝宴において,エアトンは電信科学生藤岡市助,中野初子,浅野応輔らを指揮してアーク灯照明をつけた。日本における3月25日の電気記念日はこの事績を記念したものである。妻マティルダが83年死亡し,教え子のヘルタ・マークスHertha Marks(1854-1923)と再婚した。ヘルタ夫人はアーク放電の研究者として著名であり,女性として初めて電気関係学会会員となった(1899年にイギリス電気学会に入会を許された)。
執筆者:高橋 雄造
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(三好信浩)
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…電気利用の最初の光源として,1808年イギリスのH.デービーによって炭素アーク灯が発明されて以来,76年ロシアのP.N.ヤブロチコフが実用化してパリの街路を照明した。日本では79年虎ノ門の工部大学校講堂における中央電信局開業式の祝宴で,イギリス人W.E.エアトンの指導のもと,藤岡市助,中野初子,浅野応輔の学生たちが,グローブ電池50個によってフランス製デュボスク式アーク灯の初点灯に成功,この日3月25日を記念して,1928年以後,電気記念日が制定された。なお,一般に出現したのは,1882年11月1日,銀座の大倉組前に2000燭(しよく)のフランスのブラッシ式炭素アーク灯が点灯されたのが最初である。…
…また同じころ,学校における電気の専門教育が始まった。日本では明治6年(1873)イギリスからW.E.エアトンが工部省の工学寮に設けられた工学校の教授に着任し電信科が開校した。明治10年工学寮は工部大学校に改められ,明治17年電信科は電気工学科と改称した。…
※「エアトン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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