日本大百科全書(ニッポニカ) 「志田林三郎」の意味・わかりやすい解説
志田林三郎
しだりんざぶろう
(1855―1892)
電気工学者。肥前国(佐賀県)の生まれ。佐賀藩英学校に学び、1872年(明治5)工部省工学寮(のち工部大学校と改称)に入学、1879年工部大学校第1回卒業生として電信科をただ1人卒業。この間お雇い外国人教授でイギリス人のエアトンに学び、1880~1883年にはグラスゴー大学に留学してケルビンらに師事した。帰国後、工部権小技長兼工部大学校教授となり、その後、東京大学工科大学教授、東京電信学校校長、逓信(ていしん)省工部局長などを歴任。「電灯線施設法」「電話交換規則」の制定など創草期の電信・電気事業や行政面で活躍した。1886年、通信線を用いない伝導式あるいは誘導式といわれる電気通信(無線電信)試験を隅田(すみだ)川の両岸約100メートルで行ったことは有名。37歳の若さで病没した。
[井原 聰]