エウボイア島(読み)エウボイアトウ(その他表記)Euboia

デジタル大辞泉 「エウボイア島」の意味・読み・例文・類語

エウボイア‐とう〔‐タウ〕【エウボイア島】

EuboiaΕύβοιαエビア島の古代名。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「エウボイア島」の意味・わかりやすい解説

エウボイア島
えうぼいあとう
Euboia

ギリシア中部、エーゲ海西部にある同国で2番目に大きい島。ラテン語ではEuboeaと綴(つづ)り、現代ギリシア語ではエビア島Évviaとよぶ。別称(英語)ネグロポント島Negropont。ギリシア本土東岸沿いに北西から南東に延びる。長さ約145キロメートル、幅6.5~48キロメートル、面積3655平方キロメートル。島の半分は山がちで、最高峰は中央部にそびえるディルフィス山(1745メートル)。周辺のスキロス島などをあわせてエウボイア県をなし、県の面積は4167平方キロメートル、人口22万0500(2003推計)。県都はカルキス。幅40メートルのエブリポス海峡上を、カルキスからの橋が島と本土とを結ぶ。褐炭マグネシウム大理石などを産する。本土に面する西岸良港沃野(よくや)に恵まれ、ブドウ、オリーブ、柑橘(かんきつ)類、小麦の栽培が盛ん。島名は「牛に優れた地」の意味をもち、古くから畜産も盛んである。

[真下とも子]

歴史

紀元前三千年紀中ごろ以来の遺跡レフカンディがあるが、前二千年紀初め以降はイオニア人の居住地となった。前8世紀ごろからカルキス、エレトリア以下のポリスが生まれ、活発な植民活動を行った。前490年、カリストスとエレトリアはペルシア軍に破壊されたが、サラミス海戦、プラタイアイの戦いには、エウボイア人もペルシア軍と戦った。デロス同盟に加盟し、前5世紀末にエウボイア同盟を結成したが、カイロネイアの戦いののちマケドニア支配され、前146年以降はローマ属州に組み込まれた。以後ベネチア、オスマン・トルコ帝国の支配を受け、1832年よりギリシア領。

[清永昭次]

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改訂新版 世界大百科事典 「エウボイア島」の意味・わかりやすい解説

エウボイア[島]
Euboia

エーゲ海西部に位置し,ギリシアでクレタ島に次ぐ大きな島。面積約3600km2。人口21万5000(2001)。エボイアÉvvoia,ネグロポンテNegroponteともいう。ギリシア本土とほぼ平行に北西から南東に延び,前5世紀以来,島の西岸中央部でボイオティアと橋で結ばれている。東部沿岸は険峻であるが,西部沿岸は良港に恵まれる。肥沃な平野部はトウモロコシ,ブドウ,イチジク,オリーブを産する。主要都市カルキスChalkis(Khalkís)では,冶金・セメント・繊維工業が行われている。古代に島はおのおの独立の7ポリスに分かれ,カルキスとエレトリアがその中でも最強であった。両ポリスは他のギリシアのポリスに先がけて海上に進出し,前800年ころにはシリアのアル・ミナに通商基地を創設した。ペルシア戦争後全エウボイアはアテナイに従属,前446年離反を企てるがペリクレスにより再征服され,以後一時独立するが,前378年アテナイ第二海上同盟の,前371年テーバイの傘下に入り,カイロネイア戦争後はマケドニアの支配下に属し,前196年名目上の独立を回復するが,前146年ローマの属州マケドニアの一部となった。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「エウボイア島」の解説

エウボイア島(エウボイアとう)

エヴィア島

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「エウボイア島」の意味・わかりやすい解説

エウボイア島
エウボイアとう

「エビア島」のページをご覧ください。

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