パキスタン北西部のペシャーワル県にほぼ相当する古代の国ガンダーラGandhāraを中心に,東のタキシラ地方,北のスワート地方,西のアフガニスタンの一部をも含む地域で1~5世紀に展開した仏教中心の美術。クシャーナ朝時代に初めて仏陀の姿を表現してその図像を定型化したことは特筆に値し,インド,中央アジア,中国の仏教美術に多大の影響を及ぼした。石彫を主体とし,塑造彫刻や金工品も多く,象牙彫刻も一部におこなわれたが,絵画遺品は乏しい。遺構や出土品はおびただしい数にのぼるものの,年代の確実にわかるものはなく,当地方の歴史の不明なこととも関連して,個々の年代や様式展開をめぐって異論が多い。
建造物はほとんどが基礎のみのこり,完存例は皆無である。タキシラとチャールサダ(ガンダーラの古都プシュカラーバティーPuṣkarāvatīにあたる)とでは,前6世紀以来相次いで建設された都市跡が発掘され,バクトリアのギリシア人,サカ・パルティア族,クシャーナ族の支配期がある程度確かめられた。当地方に仏教が伝えられたのはマウリヤ朝時代で,タキシラのダルマラージカー大塔やスワートのブトカラ大塔はアショーカ王の創建とされるが,造寺造塔が本格化するのはクシャーナ時代になってからである。伽藍は塔を中心として周囲に仏堂を配する塔院と,僧侶の居住する僧院とからなる。塔の基壇を方形にするものが出現し,それを幾層にも積み重ねるようになり,欄楯(らんじゆん)や塔門は姿を消した。また僧院では中庭の四面に房室を整然と並べるプランが成立した。寺院の多くは街道沿いの山腹の人目につかない位置に造営された。しかし徒歩で参拝するのに難儀するほどの高地ではない。それらの山岳寺院の代表例として,タフティバーヒー,ジャマールガリー,タレリー,メハサンダがある。新都プルシャプラ(現在のペシャーワル市)にカニシカ王が造営した大伽藍の跡とされるシャー・ジー・キー・デリーは数少ない平地の寺院である。またタキシラのジャンディアール神殿跡(1世紀)は,ギリシア・ローマの神殿に似た構造をもつ。なお建築用材は石を主体とし,煉瓦も用いた。
当地方の石彫は,1世紀中期のパルティア族支配期に仏塔を荘厳するために西方の表現技法によって発生したと考えられる。しかしまだ仏教的な主題を扱わず,次のクシャーナ時代に本格的な展開を見た。すなわち1世紀末期に仏像が仏伝図の主人公として出現し,2世紀前期に単独の仏像が成立した。やや遅れて大乗仏教に関する彫像も現れるが,仏像出現に大乗仏教が関与した証拠はない。説話図浮彫の大半を占める仏伝図では,一部の図像をインドの先例にならうものの,多数の新しい図像を生み,主題の数は100以上にも及び,それらは以後の仏伝図像の基本形となった。単独の礼拝像としての仏や菩薩,その他の守護神などの尊像は,いずれも高浮彫で完全な丸彫は少ない。これらの彫像の容貌や衣褶はいずれも西方風で,現実的・具体的な表現を好んだ。そのほか金属や石製の舎利容器,金銀の装身具なども興味深く,歴代の王の発行した貨幣はローマ世界との交流を如実に物語っている。この美術を〈ギリシア式仏教美術〉と呼ぶ説があるが,ガンダーラ美術の発生はギリシア人支配期以後であり,ローマ世界でおこなわれたヘレニズム美術の影響下に展開したことが明らかであるゆえに承認できない。一方これを〈ローマ式仏教美術〉と呼ぶのも,帝政ローマ時代の美術の直接の影響下に成立したかのように誤解されるおそれがある。要するにこの美術は,小アジアから西アジア一帯のヘレニズム美術の系統を汲みつつ,インド文化の影響下に一部はスキタイの要素も取り入れて,ガンダーラの土壌において展開したものである。
この美術は2世紀中期から後期に最盛期を迎え,3世紀中期以後しだいに衰退した。しかし4世紀末期以後のキダーラ・クシャーナ時代に,ヘレニズム様式の顕著な塑造彫刻がタキシラやハッダにおいて盛んとなった。ストゥッコと粘土を用い,仏菩薩などの尊像が中心である。量産するために型抜きしたものもあり,形式化した作品が多いが,中には生気ある洗練された造形を見ることもできる。5世紀中期に侵入したエフタル族は,多くの建造物や彫刻を破壊し,当地方の造形活動は終末を迎えた。
執筆者:肥塚 隆
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ガンダーラとはインド亜大陸の北西部、いまのパキスタンの北部にあった古い地名で、同国ペシャワル県がその地域にあたり、三方を山に囲まれ三角形の盆地をなす。その名は古く『リグ・ベーダ』や『アタルバ・ベーダ』にも出てくるが、紀元前6世紀にこの地方を支配したペルシアのアケメネス朝の碑文に、属州となった国々の一つとしてガンダーラの名が記されている。前4世紀末、アレクサンドロス大王の東方遠征のとき、大王の軍の侵入を受け、前3世紀にはインド、マウリヤ朝のアショカ王の支配するところとなったが、のち北方遊牧民の一つであるサカ人の南下にあい、やがてアフガニスタン北部に興った中央アジア土着のクシャン人がこの地に勢力を伸ばし、クシャン朝を樹立、文化繁栄の基礎を築き、カニシカ王のとき最盛期を迎えた。カニシカ王の在位年代については諸説あり一定しないが、2世紀中ごろとする説が有力である。
カニシカ王はプルシャプラ(いまのペシャワル)を都とし、アフガニスタン北部からインドのマトゥラ、中国の西域(せいいき)の一部に至る広大な領土を支配した。仏教もこの時代に全域に広まり、寺院の建立、仏像の制作は空前絶後の盛況を呈した。とくにガンダーラ地方で初めて仏像がつくられ、その時期は1世紀末から2世紀初めと考えられている。ペシャワルには古代の遺跡はほとんど残っていないが、カニシカ王のストゥーパといわれる遺跡から20世紀初めに青銅製の舎利容器が発掘され、その側面には、カニシカ王の寄進を証明するカローシュティー文字の銘文が彫られていた。
ペシャワルを中心に興った仏教美術はその周囲にも波及し、北はスワット渓谷、東はタキシラにもその遺跡が発見されるが、この時代にこの地方一帯に栄えた仏教美術をガンダーラ美術と称する。クシャン朝時代のガンダーラは、文字どおり文明の十字路にあり、東はインド、中国、北は北方遊牧民族の国々、西はペルシアからギリシア、ローマへと通じ、東西文化の影響を受けた。仏像にもギリシア、ローマの自然主義的な傾向と、土着的な要素の入り混じったものがみられ、インド亜大陸の一部でありながら、インドの伝統的な作風の希薄な、むしろ西方的な特色の強い美術が生み出された。彫刻では、もっとも芸術性の高い時期は3世紀ころを頂点とし、4、5世紀になるとやや衰退の様相がみられる。しかし中国へ仏教が初めて伝播(でんぱ)したのはこの時期であり、北魏(ほくぎ)時代の仏教美術に大きな影響を及ぼしたことは、さまざまな遺品が物語っている。ガンダーラ美術の遺品は、材料が青黒色の角閃(かくせん)片岩によるものが大部分で、末期になるとストゥッコ(漆食(しっくい))の像が多くなり、その表面に彩色を施している。
[永井信一]
『栗田功編著『ガンダーラ美術』全2巻(1989・ニ玄社)』
1~5世紀,ヘレニズム美術の系統をくみつつ,インド文化の影響下で,パキスタン西北部のガンダーラ地方を中心に展開した仏教美術。石彫では1世紀末に仏像が仏伝図として出現し,2世紀前半には単独の仏像が成立していた。仏教美術史上,ブッダの図像を初めて作成,定型化したという点で画期的である。インド,中央アジア,中国の仏教美術に多大な影響を与えた。これらの仏像は,彫りの深い容貌や衣のひだの線など西方風であり,明らかにヘレニズム美術の影響が強い。クシャーン朝の2世紀半ばから同末期にかけてが最盛期であり,3世紀半ば以降しだいに衰退した。5世紀半ばに中央アジアより侵入したエフタルによって都市が破壊されたが,以後はスコッタ(漆喰)彫刻が主となり,7世紀まで続いた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…このことは涅槃(〈完全なる消滅〉の意)に入った仏陀の姿は見ることができないとする,仏身に関する観念と密接な関係があると思われるものの,仏陀のみならず仏弟子の姿もまた表現されない理由は,いまだ十分に解明されていない。 仏陀不表現の伝統を破って初めて仏像を制作したのはガンダーラ(ガンダーラ美術)とマトゥラーとにおいてであり,1世紀末ごろのことであった。パキスタンの北部,今のペシャーワルを中心とするガンダーラ地方は,古くはアケメネス朝ペルシアの属国であり,前2世紀以後は北西より侵入した異民族の相次ぐ支配をうけ,外来文化の影響が顕著な地域であった。…
※「ガンダーラ美術」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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