日本大百科全書(ニッポニカ) 「ギニア・ビサウ」の意味・わかりやすい解説
ギニア・ビサウ
ぎにあびさう
Guiné-Bissão
西アフリカの西端近く、大西洋に面する国。正称はギニア・ビサウ共和国Republicano de Guiné-Bissão。北はセネガルと接し、東と南をギニアに囲まれる。西の海域に18のおもな島からなる群島を有する。旧称ポルトガル領ギニアPortuguese Guinea。面積3万6125平方キロメートル、人口112万(2000推計)、149万7859(2009センサス)。首都はビサオ。
[大林 稔]
自然
東部のギニア国境近くに標高約300メートルの台地がみられるほかは国土の大半が平坦(へいたん)な低地である。海岸部はゲバ川、カチェ川などのデルタが広がり、湿地、沼地に覆われている。広い入り江が内陸深くまで入り込んでおり、河川、入り江を利用した水路によって大半の人口集中地が結ばれている。気候は熱帯モンスーン気候で、雨期(6~11月)と乾期(12~5月)がある。雨期には大西洋から南西の風が吹き、乾期にはサハラから乾燥した熱風ハルマッタンが吹く。海岸部は雨量が年間1500~3000ミリメートル、マングローブが繁茂しており、内陸は年降水量1250~2000ミリメートルの森林の混じったサバナである。
[大林 稔]
歴史
この地方はかつてマンディンゴ(マリンケ)人の緩やかな支配下にあったが、マンディンゴ人の覇権は1860年に始まるプール(フラニ、フルベ)人の攻撃により崩壊した。他方1440年代にポルトガル人がヨーロッパ人として初めて到来、1580年ごろ最初の商業拠点をつくった。しかし、ポルトガル人の関心はもっぱら、併行して植民地化が進められた沖合いのカーボベルデ諸島にあった。貿易の中心は奴隷であったが、ほかに象牙(ぞうげ)、染料、皮革の輸出も行われた。19世紀に列強のアフリカ分割が進むと、ポルトガルはイギリス、フランスとこの地を争い、1870~1905年の交渉で現在のギニア・ビサウの版図を確定した。ギニア・ビサウがカーボベルデから分離し、独立した行政単位となったのは1879年である。しかし諸民族の反乱が絶えず、1912~1915年の軍事作戦でようやく全土を平定した。
1950年代に入って反ポルトガル運動が活発化、1956年アミルカル・カブラルらがギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)を創立した。1959年スト労働者虐殺事件以後非合法化されたPAIGCは本部をギニアのコナクリに移し、1961年農村を基盤にした武装闘争を開始した。カブラルは1973年コナクリで暗殺されたが、同年9月24日PAIGCは解放区で全国人民会議を開催、国土の75%を解放したとして、共和国の独立を宣言した。1974年ポルトガルのカエターノ独裁政権はクーデターで倒れ、ポルトガル新政権は9月10日独立を承認した。国家元首にはアミルカルの弟ルイス・カブラルLuís de Almeida Cabral(1931―2009)が就任。1980年11月10日に採択された新憲法はカーボベルデとの合邦推進を定めた。しかし、同月14日、カーボベルデ系に握られていたPAIGC指導部に対する本土出身の首相ビエイラJoão Bernardo Vieira(1939―2009)らのクーデターが成功した。この背景には、教育水準が高く植民地機構の末端を独占してきたカーボベルデ出身者への本土出身者の反発があったといわれる。これによりカーボベルデとの合邦の可能性は失われた。
[大林 稔]
政治
ビエイラは1981年にギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)の単一政党制を敷いた。1983年5月には憲法を改定して国家元首となり、独裁的な権力を握った。その後の政治抗争はクーデター未遂や「陰謀」への弾圧の形をとるようになった。
ビエイラ政権は、経済的困難から1987年に独立以来の指令型経済の自由化に着手した。さらに1990年4月にはビエイラが複数政党制導入を承認し、民主化プロセスが始まった。翌1991年5月に憲法が改定されてPAIGCの一党支配体制が廃止され、自由経済への移行が決定された。民主化プロセスへの参加を求める野党の圧力を受け、1992年7月にPAIGCは国民移行委員会の設立に合意した。1994年7月に議会および大統領選挙が二度の延期ののち実施された。議会選挙ではPAIGCは議席の過半数を獲得した。他方、大統領選挙ではビエイラが辛勝したが、野党は不正があったとして選挙結果の無効を主張した。1998年6月には軍の一部が反乱し、内戦となった。その後、一時停戦したが、1999年2月戦闘は再開され、反乱軍の指導者アンスマネ・マネの部隊が首都を制圧、ビエイラはポルトガルに亡命した。2000年1月に行われた大統領選挙で社会改革党(PRS)党首のクンバ・ヤラKumba Yala(1953―2014)が当選した。同年11月にマネがふたたび反乱をおこしたが、マネは戦闘中に死亡した。その後、首相、閣僚の交替が頻繁に行われ、2003年9月には軍のクーデターが発生、ヤラは拘束され、大統領を辞任した。
1980年代後半の経済危機に加え、急速な政治経済改革は社会的な混乱を招いた。政府の給与支払いは停滞し、1990年代には兵士の反乱や大規模なストライキが相次いだ。民主的選挙後の新政府も経済政策の運営に苦しんだ。
1980年代後半には、隣国セネガルとの関係が悪化した。石油資源開発を背景に領海に関する係争が発生し、1989年8月にギニア・ビサウは国際司法裁判所に提訴した。他方セネガル南部のカザマンスとの国境では、セネガルからの分離運動が原因となって、両国の関係はしばしば緊張した。しかし1993年末には両国首脳の交渉により、関係は改善された。
西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)に属しており、またEU(ヨーロッパ連合)と開発途上国グループ間のロメ協定に参加している。また通貨危機に対処するためにフラン圏加盟を申請し、1996年5月の西アフリカ経済通貨同盟(UEMOA)首脳会議において、その加盟が認められた。
[大林 稔]
経済
1人当り国内総生産(GNP)は世界で16番目に低い(1995)。しかし1985~1995年の1人当りGNPの年平均増加率は2.0%とサハラ以南アフリカの実績(マイナス1.1%)を上回る。近代経済部門は未発達であり、他方経済の中心である農業の生産性は低く、不安定である。
農業国であり、農林水産業は雇用の85%、GDPの46%(1995)を占める。食糧生産の中心は米、根茎類、メイズ、ミレット、ソルガムなどである。輸出向けの商品作物としてはカシューナッツ、落花生、椰子核、木材がおもなものである。牧畜も伝統的に行われている。漁業は近年成長が著しく、水産物輸出と入漁料収入は主要な外貨稼得源となっている。またボーキサイトと燐(りん)鉱石が埋蔵されているが、開発されているのはごく一部である。鉱工業はGDPの17%(1991)を占めるが、雇用面での貢献はわずかである。おもにカシューナッツ、落花生、冷凍魚(エビ、イカ)などを輸出する。主要な貿易相手国は、輸出ではインド、ウルグアイ、イタリア、輸入ではポルトガル、セネガル、オランダ、タイ、中国などである。
独立直後の経済は、戦争による荒廃と1980~1982年の干魃(かんばつ)および主要輸出品目の価格低下、さらに経済運営の失敗により衰退した。政府は経済再建のため、1987年に世界銀行、IMF(国際通貨基金)の協力を得て構造調整プログラムを導入した。財政は外国の援助に大きく依存しており、他方債務総額はGDPの354%(1995)と極度に高い。最貧国グループから脱出するには時間がかかるであろう。
[大林 稔]
社会・文化
内陸にはプール人、マンディンゴ人、沿岸部にはバランテス人、マンジャコ人、ペペル人などが居住する。カーボベルデ人もいるが、1980年のクーデター以降帰島した者が多い。宗教は、伝統宗教とイスラム教が支配的で、キリスト教徒はわずかである。公用語はポルトガル語であるが、ポルトガル語の現地化したクリオウロが広く用いられている。出生時平均余命は43.7年(1993年、サハラ以南アフリカの平均は50.9年)と低い。また成人識字率は52.8%(サハラ以南アフリカの平均は55%)である。また1960~1993年の人口増加率は2.1%と、アフリカでは比較的低い。
[大林 稔]