改訂新版 世界大百科事典 「ギャング映画」の意味・わかりやすい解説
ギャング映画 (ギャングえいが)
gangster film
ハリウッドが生み出した映画ジャンルの一つで,狭義には1930年代初頭に大流行した,禁酒法下のアメリカの暗黒街(アンダーワールド)を舞台にした,一連のスリラー,メロドラマ,暴力映画をいう。
全盛期の1930年代
禁酒法施行以後の数々の社会的不安が広がる1920年代アメリカ社会の暗黒面を描いた映画で,ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督のサイレントの名作《暗黒街》(1927)が本格的なギャング映画の最初の作品とされる。やがてトーキーによって拳銃の発砲やマシンガンの掃射や自動車の疾走などが〈音〉を獲得するや,その暴力とアクションの魅力で大衆を熱狂させ,30年代初頭にギャング映画は黄金時代を迎えることになる。その口火を切ったのが,ギャング映画の古典として知られる次の3作,マービン・ルロイ監督,エドワード・G.ロビンソン主演《犯罪王リコ》(1930),ウィリアム・A.ウェルマン監督,ジェームズ・キャグニー主演《民衆の敵》(1931),ハワード・ホークス監督,ポール・ムニ主演《暗黒街の顔役》(製作は1930年,公開は32年)で,いずれもシカゴのギャングのボスとして鳴らし,当時まだ獄中にあったアル・カポネをモデルにして主人公の無法の人生と末路を描いた。主役を演じたロビンソン,キャグニー,ムニはいずれも一躍スターにのし上がり,また《暗黒街の顔役》でムニの弟分を演じたジョージ・ラフトとともに,4大ギャングスターとなった。さらに《化石の森》(1936)や《デッド・エンド》(1937)でギャングを演じた(戦前はギャング専門の俳優だった)ハンフリー・ボガートを加えて5大ギャング俳優とする場合もある。
デビッド・パイリーによれば,1929年から34年までに300本ものギャング映画がつくられた。クラーク・ゲーブル,ゲーリー・クーパー,スペンサー・トレーシーといった各社のスターが競ってギャングを演じたことからも,そのブームの一端をうかがうことができるが,その火つけ役となったのが1929年から32年までワーナー・ブラザースの製作責任者の地位にあった(1931年に製作部長)若き日のダリル・F.ザナックで,ベン・ヘクト,チャールズ・マッカーサー,W.R.バーネット,ロバート・リスキン,ジョン・ブライト,ナナリー・ジョンソン,ダドリー・ニコルズといった当時もっとも先鋭的な新聞のレポーターたちをシナリオライターとして起用し,29年2月14日のアル・カポネによる〈聖バレンタイン・デーの大虐殺〉の衝撃にヒントを得て,現実の犯罪事件に基づく暗黒街ものを次々に製作し,独自のワーナーカラーをつくった。のちに《怒りの葡萄》やユダヤ人問題をテーマにしたエリア・カザン監督の《紳士協定》(1947)などの問題作を製作する〈社会派〉のプロデューサー,ザナックらしく,《仮面の米国》(1932),《家なき少年群》《飢ゆるアメリカ》(ともに1933)といったアメリカ社会の裏面をえぐった一連の〈暴露映画〉もワーナー・ブラザースの実録ものの特色であったが,これは,反面,ギャングを英雄化し,暴力に陶酔するギャング映画に批判的な世論に対する懐柔策でもあった。そのもっとも端的なあらわれが,法を守るGメンを主人公としてギャング撲滅の活劇を主題にした勧善懲悪劇にギャング映画を転化させたことである。実際,ギャング俳優No.1のジェームズ・キャグニーが初代のGメンを演じ(ウィリアム・キーリー監督《Gメン》1935),エドワード・G.ロビンソンも《弾丸か投票か!》(1936)や《俺が法律だ》(1938)では警察の人間を演じることになる。
変質と衰退
禁酒法時代を背景にした正統派ギャング映画は1939年のラオール・ウォルシュ監督,ジェームズ・キャグニー主演《彼奴は顔役だ!》を〈最後の傑作〉として消滅していき,第2次世界大戦の勃発とともにフィルム・ノワールと呼ばれる,屈折した欲望に生きる人間や悪女を主人公にした新しい時代の犯罪映画の流行にとってかわられることになる。すでにエドワード・G.ロビンソンは《暗黒王マルコ》(1938)では遅れてきたギャングを演じ,《ニューヨークの顔役》(1940)ではギャングのボスが修道僧になってしまうという喜劇的な役を演じている。
ギャング映画の変質と衰退の原因としては,まず第1に,禁酒法撤廃(1933年12月)とともにギャング映画の現実感が急速に薄まったことがあり,それと同時に,現実のGメン(FBI)が映画以上に大活躍して,ギャングを圧倒したということもあった。大恐慌のあと,1933年から34年にかけて,禁酒法撤廃に伴って,アメリカ中西部を中心に,マ・バーカーとその息子たち,ベビーフェース・ネルソン,マシンガン・ケリー,ボニーとクライドといった〈地方ギャング〉が大衆の興味をひき,なかでも16件の銀行強盗と4回の脱獄をはでにくりかえして〈民衆の敵No.1〉とみなされるに至ったジョン・デリンジャーは,ギャング映画のヒーローなみの喝采を浴びていた。しかしFBIは34年の前半までに,これらの群小ギャングのほとんどを射殺し,デリンジャーも34年9月22日にシカゴの映画館でクラーク・ゲーブル主演のギャング映画《男の世界》を見て出てきたところを待ち構えていたFBIに撃ち殺された。FBIによる熾烈(しれつ)なギャング狩りが絶頂に達していた1933年,アメリカ映画製作倫理規程(いわゆるプロダクション・コード)の執行部であるヘイズ・オフィスは,FBIのフーバー長官の要請に応じてデリンジャーおよびその他の〈地方ギャング〉を描く(あるいは名前を出したりほのめかしたりする)映画をいっさいつくってはならないことを厳命した。その後マックス・ノセック監督,ローレンス・ティアニー主演の《犯罪王デリンジャー》(1945),ドン・シーゲル監督,ミッキー・ルーニー主演の《殺し屋ネルソン》(1957),ロジャー・コーマン監督,チャールズ・ブロンソン主演の《機関銃ケリー》(1958)などがつくられるが,いずれも低予算のB級映画であった。〈ギャングたちの伝説〉が真にスクリーンによみがえるためには,ボニー&クライドの物語を映画化した1967年のアーサー・ペン監督《俺たちに明日はない》まで待たねばならない(1967年はアル・カポネの〈聖バレンタイン・デーの大虐殺〉を描いたロジャー・コーマン監督《マシンガン・シティ》もつくられ,ギャング映画のルネサンスになった)。ギャング映画衰退のもう一つの原因としては,5大ギャング俳優がそれぞれスターに昇格することによってイメージチェンジし,ギャング役から脱却していったこともある。
映画史的には,ギャング映画の流れは犯罪組織(シンジケート)ものと集団強盗(ビッグ・ケイパー)ものに分かれていく。前者はラッセル・ラウズ監督《紐育秘密結社》(1955)からフランシス・コッポラ監督《ゴッドファーザー》(1971)に至る〈マフィア映画〉に,後者はジョン・ヒューストン監督《アスファルト・ジャングル》(1950)やジュールス・ダッシン監督《男の争い》(1955)からマイク・ホッジス監督《狙撃者》(1971)やピーター・イェーツ監督《ホット・ロック》(1971)などに至る〈泥棒映画〉に,その流れを見ることができる。
日本のギャング映画
日本映画史にギャング映画が現れるのは,山本喜久男《日本映画における外国映画の影響》によれば,1932-33年ころからで,《暗黒街の英雄》《カポネ再現》《非常線の女》《警戒線の女》《摩天楼の顔役》《ギャング討伐》といった作品が次々につくられたが,いずれも題名からして明らかなように,スタンバーグ監督《暗黒街》《非常線》,ハワード・ホークス監督《暗黒街の顔役》などの影響と模倣によって生まれたものであり,以来,日本のギャング映画は〈無国籍アクション〉映画としての宿命を背負い続けていくことになる。特に題名にギャングが付されて公開されたものに《花と嵐とギャング》(1961)にはじまり《ギャングの帝王》(1967)まで計11本に及ぶギャングシリーズ(暗黒街もの)がある。しかしこれも60年代前半までの人気で,以降,東映の仁俠ものにその道をゆずることになる。
→アクション映画 →活劇映画
執筆者:広岡 勉
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