改訂新版 世界大百科事典 「アクション映画」の意味・わかりやすい解説
アクション映画 (アクションえいが)
action film
アクション映画の元祖は,西部劇の元祖でもありアメリカ劇映画の出発点でもあるトマス・エジソン製作,エドウィン・S.ポーター監督の《大列車強盗》(1903)というのが通説である。疾走中の列車,強盗,殺人,馬による追跡など,犯罪と死,暴力性とスピード感というアクション映画のもっとも基本的な要素をすべて内包しており(フランスから起こったいわゆる〈連続活劇〉,例えばルイ・フィヤードの《ファントマ》などにも同じことがいえる),その世界的なヒットが映画の原点はアクションそのものであることを証明し,その後の映画の方向の一つを決定し,とくにアメリカ映画の主流を形成することになる。〈アクションアドベンチャーフィルム(冒険活劇映画)〉として総括されることもある。西部劇や戦争映画は独立した別個のジャンルとみなされる場合が多いが,一般に〈アクション映画〉と呼ばれるジャンルとしては,危険に挑む個人,または少数のグループとしての人間の行動を描く娯楽映画のジャンル,例えば,連続活劇,チャンバラ活劇,海賊映画,騎士道映画,冒険映画,スポーツ映画,スパイ活劇,犯罪映画,武術映画,航空映画,それにスリラー映画でも追いつ追われつのスリルを主眼とする〈巻きこまれ型〉から追跡に至るもの,暴動や脱獄をテーマにした〈監獄映画〉,あるいは〈B級戦争映画〉とか〈戦場もの〉と呼ばれている〈特攻作戦もの〉や〈局地戦もの〉などが含まれる。こうしたジャンル以外にも場所,時間,人間関係などを極限状況に設定して,心理的,あるいは物理的アクションを生み出すという一つの典型的なパターンをふまえる映画は数多い。
アクション映画の前史
《大列車強盗》以前にエジソンは,〈ピープショー〉と呼ばれたのぞき式の〈キネトスコープ〉で,アクロバット,レスリング,芸をする犬や猫や熊,闘鶏,ベリー・ダンス,空中ブランコ,拳銃の曲射ち,バッファロー・ビルの率いる〈ワイルド・ウェスト・ショー〉といった寄席やサーカスや珍しいスポーツの妙技(スタントstuntと総称され,ここからスタントマンの名が生まれる)を撮影して見せていた。1896年に演芸場でのスクリーン映写(バイタスコープvitascopeと呼ばれた)が始まると,同じショーを生の舞台で見慣れてきた観客は,当然これらの白黒で無声の60秒程度の映像に〈複製〉された出し物にあきたらず,むしろ舞台では見られないもの,すなわち一方ではナイアガラ瀑布(ばくふ)や突進している機関車といった自然や機械の驚異,他方では鍛冶屋や歯医者や床屋や中国人の洗濯屋といった近所の日常的光景,そしてもちろん時事的な話題(大統領の選挙演説など)をスクリーンで見たがった。こうした大衆の好みを反映した要素をすべてとり入れ,さらに映画のために演じられるスタント,すなわち危険なアクションを加味し,当時もっとも大衆の興味をひく事件だった西部の連続列車強盗を主題に作られたのが《大列車強盗》であった。
サイレント初期のアメリカの〈連続活劇〉(このジャンルの起源はフランスの1908年の《ニック・カーター》である)の最初のスターたち,例えばメリー・フラー,カスリン・ウィリアムズ,ヘレン・オルムズ,パール・ホワイト,グレース・キュナードらは皆ボードビルやサーカスの芸人出身で,危険なアクションをほとんど吹替えなしでみずから演ずることのできる女優たちであった。ローズ・ギブソン(フート・ギブソン夫人)は,その後2代目ヘレンとして名まえもヘレン・ギブソンと改め同シリーズのヒロインになった。スタントウーマン第1号であり,スタントウーマンからアクションスターになった第1号でもある。当時,フランスの詩人ルイ・アラゴンはその処女小説《アニセまたはパノラマ》(1921)でパール・ホワイトの映画にふれながら,〈あるのは単なる身ぶりしぐさの空間だけだ。単なる力比べとしてのアクションがわれわれを熱中させるだけだ。アクションとは何かなどと論じようとする者はいないだろう。そんな暇もない。まさに今世紀にふさわしいショーがここにある〉と熱狂的に語っている。
アクションスターの系譜
こうしたアクションのためのアクション,危険なアクションをみずから演じうる俳優(スタントマン)の伝統が,その後の,とくにアメリカのアクション映画の歴史を形成していくことになる。ハリウッドに〈スターシステム〉が生まれ,スタントマンとスターがはっきり分離されたのちも,アクション映画の世界では〈アクションヒーロー〉と呼ばれるスターの系譜が続いている。例えばサイレント時代には,本物のカウボーイ出身のカウボーイスター,トム・ミックス,フート・ギブソン,ウィル・ロジャーズがおり,またオリンピックの水泳選手から〈ターザン映画〉のスターになったジョニー・ワイズミュラー,船員,探検家から海洋活劇のスターになったエロール・フリン,オリンピック出場のフェンシング選手出身のコーネル・ワイルド,第2次世界大戦のヒーローで自伝的戦争映画《地獄の戦線》(1955)のヒーローを演じたオーディ・マーフィ,さらにサーカスのアクロバット出身のバート・ランカスター等々。そのほか,スタントマン出身のゲーリー・クーパーやジョン・ウェイン,水泳の選手から水中レビュー映画のスターとなったエスター・ウィリアムズらもいる。また,アクションスターとして,スタントマンを使わずにみずから危険なアクションをこなすことを信条とするスターに,サイレント時代の活劇スター〈アメリカの快男児〉ダグラス・フェアバンクスをはじめ,近年のクリント・イーストウッドやスティーブ・マックィーン,フランスのジャン・ポール・ベルモンドがいる。
チャンバラ活劇
しかし,スタントマンとスターが分離し,スターの超人的アクションを肩代りするスタントマンの陰の支えによって,スターの美貌プラス力のイメージが作られ,それがハリウッドならではの活劇のおもしろさを飛躍的に高めたことはまちがいない。その最初の分野が,主として西洋中世に題材をとったチャンバラ活劇で,サイレントからトーキーまで,次々と多彩なスターが血わき肉躍る活劇を演じた。さらにこれから発展したスペクタクルとして,エロール・フリン(《海賊ブラッド》1935,など)やタイロン・パワー(《海の征服者》1942)らが活躍する海賊映画が一つのジャンルを形成するが,1950年代には騎士道映画が全盛を迎えることになる。
騎士道映画とテクニカラー
騎士道映画の隆盛はテクニカラー(カラー映画)とシネマスコープの普及に深く結びついている。その口火を切ったのがMGMのR.ソープ監督,ロバート・テーラー主演の三部作で,ウォルター・スコットの騎士道小説《アイバンホー》を原作にした《黒騎士》(1952),アーサー王伝説に基づく《円卓の騎士》(1953),これもスコット原作の《クェンティン・ダーワード》による《古城の剣豪》(1956)であった。とくにイギリスとフランスにロケーションを敢行し,初めてテクニカラーによって本物の中世の城をスクリーンに映し出した《黒騎士》の反響は大きく,それに加えてMGM初のシネマスコープ作品《円卓の騎士》の成功が刺激剤となって,1954年には,MGMに対抗して各社が競い合ってイギリス・ロケ,シネマスコープによる中世騎士道ものを次々に製作,コロムビアでは,シネマスコープではないがアラン・ラッド主演《男の城》,フォックスではロバート・ワーグナー主演《炎と剣》,ユニバーサルでは同社の第1回シネマスコープ作品としてトニー・カーチス主演《フォルウォスの黒楯》,ワーナー・ブラザースではレックス・ハリソン主演《獅子王リチャード》といった作品群が作られ,未曾有(みぞう)の騎士道映画ブームを巻き起こした。また,活劇には決まって美女が彩りを添えるが,とくにこの騎士道映画には,〈テクニカラー女優〉と呼ばれた燃える赤毛のモーリン・オハラをはじめ,エバ・ガードナー,エリザベス・テーラー,エリナ・パーカー,ケイ・ケンドール,ジャネット・リーらの,カラーワイドスクリーンに照り映える美女群が多く起用された。
追跡,極限状況,アクション映画のパターン
アクション映画の基本的なパターンの一つは〈追跡〉であり,主人公が徹底的に追いかける場合(《リオの男》1963,《ダーティハリー》1971)と,逆に追いかけられる場合(《ハイ・シェラ》1941,《北北西に進路を取れ》1959)がある。近年のカー・チェイスもの(《ブリット》1968,など)は当然ながらすべてこのパターンである。また,アクションを盛り上げるため,場所,時間,人間関係などの極限状況が設定される。以下,そのいくつかのパターンと作品を列挙する。(1)麻薬ルートなどのいかがわしい港町を舞台とする。《イスタンブール》(1956),《リスボン》(1956)。(2)難攻不落の要塞に挑む。《ナバロンの要塞》(1961)。(3)荒波にもまれる船上や海底での格闘。《海の狼》(1941),《海底の黄金》(1955)。(4)抗争の渦中にある鉱山,危機をはらんだ油田,障害の多い工事現場を舞台とする。《アラスカ魂》(1960),《恐怖の報酬》(1952,75)。(5)秘境の奥地で蛮族に襲われる。〈ターザン〉シリーズ。(6)戦場にとり残された少数の兵士たちの敵中突破。《戦塵》(1956),《恐怖の砂》(1958),《隠し砦の三悪人》(1958)。(7)少数のプロフェッショナルによる〈不可能な任務〉の遂行。《七人の侍》(1954),《特攻大作戦》(1967)。(8)囚人たちの反逆,あるいは脱獄。《真昼の暴動》(1947),《暴力脱獄》(1967)。(9)男どうしの友情とそれを妨げる美女(〈暗い過去をもった女〉である場合が多い)との三角関係。《港々に女あり》(1928),《妖花》(1940)。(10)けんかのためのけんかと男どうしの友情。《ドノバン珊瑚礁》(1963)。
このようなパターンが複数組み合わされ,さらにさまざまなバリエーションを生み出すのだが,殴り合いと勝負の世界をより単純なアクションに集約して,それを遊戯性にあふれたものにしたてたジャンルに〈スポーツ映画〉がある。《鉄腕ジム》(1942)から〈ロッキー〉シリーズに至るボクシング,《群衆の喚呼》(1932)をはじめとするスピードレース,あるいはアメリカン・フットボール(《ロンゲスト・ヤード》1974),女子プロレス(《カリフォルニア・ドールズ》1982)など,多様なスポーツが設定されている。アフリカの猛獣狩り映画《ハタリ》(1962)なども〈スポーツ映画〉の一種とみなすことができよう。
その他のアクション映画
1960年代に入って,ハリウッドのすべてのアクション映画が著しい衰微を見せたとき,連続活劇からスポーツ映画に至るあらゆるアクション映画の要素を網羅して,映画の原点である荒唐無稽な活劇性をよみがえらせ,世界の映画市場を席巻したのが63年イギリスで生まれた〈007〉シリーズである。その亜流作品が多数作られる中で,《女王陛下のダイナマイト》(1966)など,フランスのG.ロートネル監督のエスプリにあふれたスパイ活劇が注目された。〈007〉シリーズ以前から,フランスには〈セリ・ノワール〉(1945年にA. デュアメルによって始められた暗黒・犯罪小説叢書)に題材をとったアクション映画の系譜がある。とくにP.チェイニー原作,エディ・コンスタンティーヌ主演の〈レミー・コーション〉シリーズからはB.ボルドリ(《そこを動くな》1953,《左利きのレミー》1961),次いでG.ロートネル(《殺るかくたばるか》1959)といったアクション監督が生まれた。ロートネルは,1961年に痛烈な笑いとアクションによるスパイ映画〈モノクル(片眼鏡)〉シリーズ(《黒眼鏡の男》1961,など)を発表している。フランスのアクションスターとしては,コンスタンティーヌの次に,チャンバラ活劇や60年代にリメークされた連続活劇《ファントマ》シリーズなどのジャン・マレー,次いで,60年代以降にこれも連続活劇の伝統を生かした《カトマンズの男》(1965)などのジャン・ポール・ベルモンドが最大の人気者である。
そのほか日本の日活アクションや香港のカンフー(功夫)映画も,その通俗性と単純性において典型的なアクション映画であるが,詳細は〈活劇〉の項目を参照されたい。
ハリウッドのアクション監督の第一人者ラオール・ウォルシュは,映画とは〈一にアクション,二にアクション,三にアクションだ〉と定義した。またドン・シーゲルは〈アクション映画は何の説明もない。それは起こるのだ。そこにあるのだ〉といっている。アクションを主体としたさまざまなジャンルの映画が大衆娯楽としての映画史の中心をなしてきたことはいうまでもない。しかし,アクション映画は一般に,その単純な説話的構造のゆえに,芸術性の低いB級の作品(たとえA級スターが主演していても)として扱われてきたことも否めない。一方,この大衆的な娯楽性を利用して,活劇じたてのメッセージ映画も作られた。大衆啓蒙的なエイゼンシテイン監督《戦艦ポチョムキン》(1925)をはじめ,近年の第三世界の新しい映画群に至るまで,アクション映画に分類することが可能な構成と内容の映画は数多い。日本でも,レッドパージを経た山本薩夫監督の《忍びの者》(1962),《天狗党》(1969)などがその例である。また,ナチ政権を逃れてアメリカに亡命したフリッツ・ラング監督の《激突》(1936),《外套と短剣》(1946)のように,啓蒙性を信じず,むしろニヒリズムに貫かれた作品,あるいはハリウッドの〈赤狩り〉に対する抵抗や弁明として,アクションを隠れみのとして作られたジョン・ヒューストン監督《勇者の赤いバッヂ》(1950),ジョセフ・ロージー監督《暴力の街》(1950),エリア・カザン監督《暗黒の恐怖》(1950)などもあり,アクション映画の性格はかならずしも一様ではない。
なお,フランスにはA.ガンス(《ナポレオン》1927,など),アメリカにはC.B.デミル(《大平原》1935,など)というアクション映画の極致をいく二大巨匠がいるが,そのスケールの巨大さゆえに,たえずジャンルを乗りこえてしまい,むしろこの2人の作品はスペクタクル映画の領域に入るといえよう。
→ハリウッド
執筆者:宇田川 幸洋+山田 宏一
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