精選版 日本国語大辞典 「ルネサンス」の意味・読み・例文・類語
ルネサンス
- 〘 名詞 〙 ( [フランス語] renaissance 再生の意 ) 一四~一六世紀にかけて、イタリアを中心に興った文化運動。古典文化を範として人間性の肯定を主張。封建制を打倒した商工都市の上層市民がその保護者、推進者。美術・文芸などに新分野を開いたが、その保守化とともに装飾的傾向が強まる。一六世紀にはアルプス以北に波及、宗教改革とも結びついた。文芸復興。
翻訳|Renaissance
中世から近代への生活と思考のスタイルの変化のようすをひと口にくくったことば遣いとして従来扱われてきた概念。しかし、これがその意味で適切なことばであるかどうか、いまでは疑念が提起されている。
[堀越孝一]
17世紀から18世紀への世紀の変わり目に、アントワーヌ・フュルチエールの『普遍的辞典』第二版(1701)とピエール・ベイルの『歴史的批判的辞典』(1697)が「ルネサンス」という項目をたてた。前者は「美術のルネサンス」ということばを登録し、後者によって「文芸のルネサンス」ということば遣いが定着した。両者の定義は16世紀の人文主義者の見解を確認したものであった。16世紀中ごろイタリア人画家ジョルジョ・バザーリがその著『チマブーエの時代から現代に至るまでのイタリアの優れた建築家・画家・彫刻家の伝記』(1550)において「美術のリナシタ(再生)」のことを指摘した。14世紀から16世紀にかけてのイタリアの画家たちの古代美術様式の学習と自然描写の訓練の成果のことを述べている。同じころフランスの人文主義者ジャック・アミヨが、プルタルコスの『対比列伝』の仏訳本(1559)のアンリ2世あて献呈文において「文芸が再生した(ルネートルした)」と言及した。この場合アミヨは、フランソア1世による「コレージュ・ド・フランス」創建のことを念頭に置いていた。すなわち「文芸のルネサンス」の当時の理解は古典語と古代の著述の学習に的を絞っていた。
古代の美術と学芸の復興、これが15世紀以降のイタリアの、16世紀以降の北ヨーロッパの人文主義者の考える「ルネサンス」であった。それが18世紀の啓蒙(けいもう)主義は、「ルネサンス」を一つの時代区分として考える見方をしだいに形づくっていく。ことは中世・近代問題にかかわっていて、「ルネサンス」をもって啓蒙的近代の開始の時期とみなすのである。ボルテールは『風俗論』ほかの著述に、基本的には前代来の理解を踏まえて「ルネサンス」を古代の学芸の復興をさすことば遣いととらえながら、「中世」からの脱出をそこにみ、「啓蒙」と「政治的社会的な生活の向上」をそこに想定している。もう一つボルテールの卓見は、その動向における15世紀後半から16世紀にかけてのイタリア社会の卓越を指摘したことである。
やがて市民革命を達成した19世紀の「ブルジョアジー(市民階級)」は、近代市民社会成立期としての「ルネサンス」を構想する。古代学芸の学習という限定された概念としての「ルネサンス」が、一つの時代概念に展開する可能性がそこに開けた。
[堀越孝一]
「ルネサンス」を一つの時代概念として全体的に展望したのは、スイス人歴史家ヤーコプ・ブルクハルトである。その著『イタリアにおけるルネサンスの文化』は1860年に出た。この書物は、14、15、16世紀のイタリアに一つの独特なタイプの社会と文化をみようとする試論である。ブルクハルトは時間と空間の限定に意を用いていて、「イタリアで初めて」とか、「ルネサンス期のイタリア社会では」「イタリアをおいて、どこに」といった言い回しが随所にみえる。あくまでも「イタリアにおけるルネサンスの文化」が彼の考察の対象として特定されていたのである。だから、「古代の復活」(第3章の章題)を論じて、「14世紀の初頭以降、何世代にもわたる優れた詩人、文献学者がイタリアと世界を古代崇拝で満たしてからというもの」と書くとき、彼は彼自身を裏切っていることになる。「イタリアと世界を」の「と世界」は、この著述本来の趣旨に照らせば不必要な、また不用意な発言であった。
この関連で、同時代のフランス人歴史家ジュール・ミシュレの立場は興味深い。1855年『フランス史』第7巻(1881年の決定版の巻立てでは第9巻)「ルネサンス」を刊行したミシュレは、一方で「イタリアのルネサンス」という観点を否認し、他方において「人間と世界の発見」を広く16世紀ヨーロッパ社会の手柄と称揚して、これを「ルネサンス」と名づけたのである。ミシュレにとって「ルネサンス」は、人文主義的伝統のいう古代の学芸の復興というだけのものではなく、ブルクハルトの賢明な限定の対象となった14世紀から16世紀にかけてのイタリア社会だけにかかわる文化運動でもなかった。ヨーロッパ社会近代化の気運、これがミシュレのいう「ルネサンス」だったのである。
このミシュレ的視点はボルテール以来の啓蒙主義的思考の系譜にたつものであった。人文主義者からみれば、いわば問題のすり替えがまかり通ったのである。「人間と世界の発見」はブルクハルトの著書の章題の一つでもある。ブルクハルトにしても、人間と世界、個人と国家といった近代好みのキーワードを操って、当該時期のイタリア社会を考察したのであって、そこにはおのずから考察者自身の視点が据えられている。そうしてその視点はミシュレのそれ、ひいては19世紀市民社会のそれでもあったということである。
ブルクハルト以後、「イタリアにおけるルネサンス」を論じた本としては、まずジョン・A・シモンズの『イタリアにおけるルネサンス』全7巻(1875~86)をあげなければならない。第1巻を「専制君主たちの時代」と名づけている。これはブルクハルトの本の第1章「芸術作品としての国家」に対応していて、そこにも端的にうかがえるように、シモンズの著述はブルクハルトの本のていねいな反復である。しかし論調はむしろミシュレあるいはヘーゲル(『歴史哲学』や『哲学史』にみえる所論)に通じる。「ルネサンスは近代世界の存立すべき理由の解き放ちであった」といった一節にそれは明らかである。ブルクハルトからシモンズ以後、ルネサンス論議の奏でる音色は同じであった。個別的歴史空間「ルネサンスのイタリア」に普遍的価値体系を読み取る作法である。「中心の思想」とこれをいいかえてもよい。「イタリアにおけるルネサンス」がヨーロッパの近代を解放し、近代的価値の体系はすべて淵源(えんげん)をイタリアに発するという思想である。
[堀越孝一]
当然のことに「辺境の思想」がこれに対抗するわけで、それが「北方ルネサンス」議論である。あるいは「北方ルネサンス」議論の一側面である。というのは、一方では、文学史のほうでギュスターブ・ランソンの『フランス文学史』(1894)に代表されているように、フランスのルネサンスはイタリアのそれの継承であるとみる観点があり、他方ではまた、これに並行して辺境の立場の強調も「北方ルネサンス」という言い回しに含めて理解されているからである。後者の主張は美術史の分野において著しく、ルイ・クーラジョとその祖述者イポリト・フィーレンス・ヘフェールトの名をあげなければならない。
クーラジョの『エコール・デュ・ルーブル講義録(1887~96)』(没後1899~1903出版)は、個人主義と自然主義に特徴づけられる14世紀の北フランスの美術が15世紀にブルゴーニュ文化圏に摂取されてネーデルラント画派を育て、同世紀後半、イタリアの画家たちに影響波を及ぼした経緯を論じている。ベルギーのフィーレンス・ヘフェールトの『北方ルネサンスと初期フランドル画派』(1905)はクーラジョの所論のていねいな反復であって、この著述のタイトルが美術史において「北方ルネサンス」という言い回しを定着させたと思われる。
文学史と思想史の分野においても、「北方ルネサンス」の理解は二重性をみせている。この分野では「ルネサンス」は「人文主義」や「宗教改革」と仲がいいが、フランスのアンリ・オゼにとって人文主義はペトラルカに始まるイタリア現象にほかならず、フランスはそれを輸入した(「フランスにおけるユマニスムと宗教改革について」『ルビュ・イストリク』誌、1897所収)。ドイツのルートウィヒ・ガイガーにとって「ルネサンス」はブルクハルトの定義に従うものであり、「未開のドイツ」がその後継者にたった(『イタリアとドイツにおけるルネサンスと人文主義』1882)。
しかし他方パウル・ヨアヒムゼンは、ルネサンス人文主義をもって原イタリア的な気運と判定し、ドイツの人文主義をそれ独自の民族的基盤において理解することを求めた。復興すべき古代はドイツにおいてはほかに求められる(『人文主義の影響下のドイツにおける歴史理解と歴史叙述』1910)。コンラート・ブルダハによれば、「ルネサンス」の自覚はなによりもまず宗教的なものであって、13世紀のフランチェスコ会派の神秘主義に触発された。イタリアにおいては、コラ・ディ・リエンツィの共和制ローマへの回帰を目ざす復古運動を生み、その後世俗化の方向をたどったが、すでにこの時点で、ボヘミア王家の宮廷を介してドイツに枝分れした「ルネサンス」の自覚は、宗教的性格を強めて「宗教改革」に至る。「ドイツ・ルネサンス」はおのずから「イタリア・ルネサンス」と発現の基盤を異にしていたのである(『ドイツ・ルネサンス』1916)。
イギリスはこの点、奇妙なまでに単純であった。「自前のルネサンス」という発想が欠落していたのである。だいたいが「ルネサンス」という発想それ自体に冷淡であった。外から入ってきた多様な刺激の一つを受け止めているだけである。全世界が「ルネサンス」議論に明け暮れていたわけではなかった。
[堀越孝一]
ブルクハルトの「ルネサンス」ということばはイタリアという空間の限定から解かれて、ヨーロッパ社会全体にかかわる気運を表すものとして使われるようになった。他方、時間的にもまた自由化は進行し、中世世界の奥深くにまで「ルネサンス」の淵源が際限なく探し求められる。これを「ルネサンス根掘り論」という。
ところどころに「先駆け」がみてとれるというほどの発言ではない。ハインリヒ・トーデの『アッシジのフランチェスコとイタリアにおけるルネサンスの文化の始まり』(1885)は表現的である。本のタイトルにそれは明らかである。「人は、中世をさかのぼっては、すでにルネサンスの刻印を押されているかのようにみえる形態や動きをみつけようとした」と、ヨーハン・ホイジンガは『中世の秋』に述べている。この本は1919年に出たが、その直前、1913年度のソルボンヌでの講義で、アンリ・シャマールは「フランスのルネサンス」の起源を「ゴール精神」と「宮廷風礼節の心」に求めた。『ばら物語』と「大修辞家」が中世を「ルネサンス」に橋渡しした(『ルネサンスのフランス詩歌の諸起源』1932)。あるいはクンノ・フランケの『ルター以前のドイツ文学におけるパーソナリティー』(1916)は、12、13世紀の「ミンネゼンガー」に「ルネサンスのパーソナリティー」の最初の発現をみている。
シャマールやフランケは中世文化と「ルネサンス」との接続を問題にしていると読むことは無理のようである。中世文化そのものに「ルネサンス」をみている。ブルクハルトの「ルネサンス」の呪縛(じゅばく)は依然強い。だからとホイジンガはことばを継ぐ。「ルネサンスの概念はすっかり伸び広がって、まったく伸び縮みがきかなくなるという結果になってしまった」。中世のものは中世に返すべきであろう。
人文主義者以降の「ルネサンス」議論を展望した『歴史的思考におけるルネサンス』(1948)の著者、アメリカのウォーレス・K・ファーガソンは、最終章の章題を「中世主義者の反逆。中世の持続として説明されたルネサンス」と置き、要するに中世文化のことがあまりにも知られなさすぎたのが問題だったのだと感想を述べている。20世紀に入るころから中世に関する知見が急速に拡大され、深められた。中世文化における「ルネサンス」的なる動向についても、これを適切に評価するにあたって必要なだけの十分な材料が整い、チャールズ・H・ハスキンズをして『十二世紀ルネサンス』(1927)を書かしめるまでに至ったのである。
美術史における視点の移動が印象的である。ドイツのウィルヘルム・ウォリンガー『抽象と感情移入』(1908)とハインリヒ・ウェルフリン『美術史の基礎概念』(1915)は、様式の観点において中世美術の独自性を明らかにし、「イタリア・ルネサンス美術」の尺度を無造作に中世に、またどの時代にでも適用することの無意味さを指摘した。他方、フランスのエミール・マールは、『フランス13世紀の宗教美術』(1898)に始まる一連の著述において、中世美術における自然主義の伝統への展望を切り開いた。この中世美術における自然主義の問題は、オーストリアのマックス・ドボルザークによって、中世の精神的状況との関連において解明された(「ゴシック彫刻と絵画における理想主義と自然主義」『ヒストリシェ・ツァイトシュリフト』誌、1918所収)。
[堀越孝一]
「フランスとネーデルラントにおける14、15世紀の生活と思考の諸形態についての研究」と副題を付した『中世の秋』(1919)の結語に、ホイジンガは「生活の調子が変わるとき、初めてルネサンスはくる」と述べている。彼は、14、15世紀のフランスとネーデルラントは、まだ「ルネサンス」ではなく、「中世の秋」の季節にあったと述べているのであって、これがこの書物の第一の要点である。また、かりにこのあと「生活の調子」が変わったということであったならば、「ルネサンス」がきたと批評してもよいと述べているとも読めるわけで、これが第二の要点である。すなわちホイジンガは従来の「ルネサンス」理解になんら異を唱えていたわけでもなかった。ただ、時間と空間を設定して、「フランスとネーデルラントにおける14、15世紀」という歴史空間はいまだ中世であったと、観察の結果得た感触を報告しただけのことである。肝心なことは、ここにブルクハルトに還(かえ)ろうとする態度が確実にみてとれるということであって、「ルネサンス」議論に対するホイジンガの批判の要諦(ようてい)はここにある。
ホイジンガは『中世の秋』出版後、「ルネサンスの問題」(1920)、「ルネサンスとリアリズム」(1929)などの論考において、「ルネサンス」概念の適正化の必要をいい、積極的な提言も行っている。しかし、ホイジンガの「ルネサンス」問題への寄与の最大のものは、まさに『中世の秋』そのものにあったのであって、すなわち、中世から近代への移行のようすを、生活の実相において、思考と感性のありようにおいて、時間と空間を限って観察する。これがこの書物のねらいとしたところであったのである。たとえば、16世紀のネーデルラントとフランスについて、あるいはまた空間をずらして14、15世紀の、たとえばドイツについて、そのほか多様な個別的空間について、ブルクハルトとホイジンガのひそみに倣う研究が期待される。この作業の積み重ねのうえに、あるいは「ルネサンス」の全体像が描き出されるということがあるかもしれない。その「ルネサンス」はもはや人文主義者のノスタルジーではありえまい。19世紀の市民社会が己を映した鏡像ではありえまい。近代的諸価値を装わされた偶像ではありえまい。それは中世から近代への持続と変化の多彩な局面の描き出す確かな図柄の絵模様であるだろう。
[堀越孝一]
「イタリアにおけるルネサンス」はその絵模様の一部分であって、しかもかなり重要な部分であったことは間違いあるまい。たいせつなことはその図柄の観察であって、「中世主義者の反逆」から半世紀、1975年に出た『イタリアのイティネラリウム』という論集は、その地道な作業の報告書である。これは、イタリア人文主義の研究で知られた碩学(せきがく)ポール・O・クリステラーに献呈された論文集であって、副題を「ヨーロッパの変容という鏡に映るイタリアのルネサンスのプロフィール」と置いている。ここにいう「ヨーロッパの変容」を広義の「ルネサンス」ととらえることができる。すなわち中世から近代への持続と変化の様相の織り成す図柄である。そこに「イタリアのイティネラリウム」がみてとれる。すなわち「イタリアのルネサンス」の足跡である(「イティネラリウム」とは「道中」「道案内」を意味するラテン語であって、この含意において書名を『イタリアの道』と訳すことも可能である)。
ここにいう「ヨーロッパの変容」を広義に「ルネサンス」と理解する従来の慣行は尊重されなければならない。しかし、この論集の寄稿者の1人、オランダのセム・ドレスデンが指摘するように、16世紀ヨーロッパの精神的状況に関して、最近「マニエリスム」という概念が提起されていることに注意する必要がある。この論集に寄せたドレスデンの論考は「イタリアのルネサンスのフランスへの受容のプロフィール」といい、そこでは主としてフランスの16世紀の人文学者や文学者について発言しているのだが、ラブレー、ロンサールあるいはモンテーニュといった、従来「ルネサンス文学」の枠内で紹介されることの多かった著述家たちの精神を解き明かすのに、「ナトゥーラ(自然)」「アルス(技芸)」「イミタティオ(模倣)」、あるいはモンテーニュがその著述のタイトルにとった「エッセー(試行あるいは訓練)」、とりわけ「マニエラ」といったことばが有効であると彼は議論していて、総じて「マニエリスム」なる概念のほうが16世紀の精神のありようを解き明かすキーワードとして適切ではないか。たとえばセルバンテスもその概念で照射するにふさわしい対象であるという。「マニエリスム」はもともと美術史の用語であって、イタリアのルネサンス美術がバロック美術に移行していく、その過渡期の様式として用いられてきた。その限りでは「マニエラ」とは美的表現の型を意味するが、すでにジョルジオ・バザーリは、このことばを単にその意味でだけではなく、およそ芸術家の表現行為の全体にかかわる、いわば芸術家の生き方のパターンという意味で用いている。したがって16世紀から17世紀にかけての「ヨーロッパの変容」という事態を観察するにあたっては、「ルネサンス」ということばだけではなく、「マニエリスム」という概念にも十分留意する必要がある。これはいわば「ルネサンス」概念をして自ら補正せしめることによってことばの豊饒(ほうじょう)を取り戻せしめようとする企てである。
加えてまた、科学史の立場からする「ルネサンス」批判にも耳を傾ける必要がある。すでにブルクハルトの本の1章題「世界と人間の発見」に含意されて以来、自然科学的認識と知識の展開が「ルネサンス」の大きな獲物として言及されてきた。しかし1929年に科学史家ジョージ・サートンは「科学の観点からみる場合、ルネサンスは一個のルネサンスでさえもなかった」と発言した(「ルネサンスにおける科学」サートン他編『ルネサンスの文明』所収)。また『魔術と経験科学の歴史』全6巻(1923~41)の著者リン・ソーンダイクにとって、15、16世紀は不毛の時代であった。この展望のうちにみえてくるのは「17世紀の科学革命」である。いま「ルネサンス」議論はそこまでも見通す視力を要求されている。
[堀越孝一]
『ヤーコプ・ブルクハルト著、柴田治三郎訳『イタリア・ルネサンスの文化』全2冊(中公文庫)』▽『ヨーハン・ホイジンガ著、堀越孝一訳『中世の秋』全2冊(中公文庫)』▽『ヨーハン・ホイジンガ著、里見元一郎訳『ルネサンスの問題』(『文化史の課題』所収・1965・東海大学出版会)』▽『ポール・フォール著、赤井彰訳『ルネサンス』(白水社・文庫クセジュ)』▽『セム・ドレスデン著、高田勇訳『ルネサンス精神史』(原題『人文主義思想 イタリア・フランス1450~1600』・1970・平凡社)』
14世紀から16世紀にかけて,イタリアをはじめとして,ヨーロッパ各地に生起した,大規模な文化的活動の総称。哲学,文献学,キリスト教学,美術,建築,音楽,演劇,文学,言語学,歴史叙述,政治論,科学,技術などそれぞれの文化領域において,顕著な発展がしるされた。ルネサンスの用語自体は,フランス語で,〈再生〉を表す語に基づく。ここではルネサンスを,次の五つの側面から説き明かす。(1)概念の再検討,(2)歴史的・社会的背景,(3)形式上の枠組み,(4)内質上の志向性,(5)周辺と終息。したがって,ルネサンスを構成する個々のジャンルにおける達成・業績や文化財については,それぞれ該当する項目を参照されたい。
〈再生〉とは,ひとたび死滅した古代文化がその時代に蘇生したことを意味しており,その限りでは,イタリアを主要な舞台とする。古代の西ローマ帝国の崩壊とともに,それによって支えられていた古典文化は急速に失われていき,1000年に近い長い中世の間に人々によって忘却されていった。しかし,帝国の故地であるイタリアには,廃墟化した建造物をはじめとして,古典籍など古代ローマを想起させるものが多く残存しており,これらを素材とヒントとし,さらに,古代ギリシア・ローマの文献の読解をとおして,古代文化の再現が図られた。その文化は,人間的価値に強く固執し,現世的・世俗的ともいえる明澄さと人間理性の明証性への信頼とを基調としている。これは先行する時代である中世が,キリスト教の神を中枢においた信仰と従順を特質とするのと,著しく対照的である。ルネサンスによって再発見された,このような人間性と理性の尊重と,その成果としての学問・芸術は,ヨーロッパ近代精神の出発点をなしたものと解されている。〈ルネサンス〉の語そのものは,19世紀フランスの歴史家J.ミシュレが歴史学用語として使用して広まり,これに次いでスイスの歴史家J.ブルクハルトが,《イタリア・ルネサンスの文化》(1860)において豊かに意味づけを行ったものである。歴史用語として,日本では〈文芸復興〉と訳されたこともある。しかし,すでに15,16世紀の当時にあっても,〈再生〉を指すイタリア語rinascitaなどは古代の復興の意味で用いられており,再生は当事者の意識のなかにも,とらえられていた。
以上のようなルネサンスの定義と理解は,20世紀においても,おおむね受け継がれ,人類史上でも,最も幸福な文運の時代の一つとして,多くの評価・研究の対象とされてきている。しかしながら,その間に従来のルネサンス観に対する異議や再検討の要請も行われた。おもな視点の第1は,次のようなものである。西ローマ帝国の消滅後,古代文化は1000年間沈黙していたというのは事実に反する。イタリアなどの旧帝国中心地では,言語・慣習のなかに持続して保たれていた。あるいはまた,古代文化は中世の間に繰り返し注目されていた。ことに12,13世紀にはヨーロッパ各地で古代精神の復興による学問・芸術の隆盛がみられた。ルネサンスの独創とみられたものの多くは,すでに中世の間に出現していた。このようなとらえ方の一例は,〈12世紀ルネサンス〉を提唱したアメリカの歴史家C.ハスキンズにみられる。さらに8,9世紀のカロリング・ルネサンスも提唱され,結果として,ルネサンスは中世の間に生起した複数の大小の復興運動の最終局面である,とも主張されるにいたった。
第2の視点は,ルネサンスの精神史的新しさ,近代性を消極的に評価するものである。17世紀以降に達成される哲学,科学の近代化に対比して,ルネサンス時代のそれは散発的,偶然的で,少数の巨匠に限定されており,むしろ中世以来の閉鎖性,非合理性が目だつという。かつて想定されていた先進性よりも,後進性がより強調される。ルネサンスの歴史的位置をめぐる議論の構図は,ほぼ以上のようである。
イタリアは,ヨーロッパ封建社会のなかでは,いち早く,都市社会と商業活動の形成・発展をみていた。11,12世紀からレバント貿易に従事し,ことに13世紀後半からは,先進の東方諸国・都市と対等の勢力となっていった。都市の商人は,利幅の大きい東方との交易で巨富を蓄える一方,なかでも指導的商人は,金融業にも進出し,また織物,ガラスなどの初期工業をも支配下に置いた。都市は封建領主から自立して,政治的共同体(コムーネ)を形成し,中核となる市民は,社会的にも文化的にも自信にあふれていた。ルネサンスは,この市民と大商人貴族をリーダーとして,イタリア都市に生まれたものである。ことに都市貴族たちは,学者・芸術家を後見し,作品・出版物を購入するなど,すすんで文化運動を援助した。フィレンツェのメディチ家,ミラノのビスコンティ家,スフォルツァ家,フェラーラのエステ家,マントバのゴンザーガ家など,都市指導者である大パトロンの名が知られる。イタリアの都市は,遠距離商業(遠隔地商人)に従事することが多く,そのためにヨーロッパ外からの珍奇な文物が導入されたのも,ルネサンスに有利に作用した。とくに1453年,オスマン帝国によってコンスタンティノープルが陥落した際,その前後に同地の古典学者がイタリアに亡命し,ギリシア語学習熱をかきたてたという事実もこの脈絡にふくまれる。
しかし,これらに加えて,いくつかの要件がある。14世紀中葉に突発したペストの大流行はその一つである。ペストはその後も断続的にイタリアとヨーロッパ全土を襲い,さしあたりは,社会と文化に壊滅的な打撃をあたえた。だが,ペストに直面した人々は,世界と人間の観照に独特の屈折と強靱さを発揮することになる。また,14世紀初頭から約1世紀間続いたキリスト教会の大分裂,ことに教皇庁のアビニョン移転は,イタリアに刺激をあたえた。教皇庁のローマ帰還を求める声は,イタリア人のナショナリズム感情をあおり,文化の特異性に対する意識をかきたてた。この傾向はペトラルカやボッカッチョといった初期ルネサンスの詩人に,ことに強くみられる。さらに,より大きな視野からみれば,ルネサンスは14世紀から15世紀初めに全ヨーロッパを覆った全面的危機からの回復という側面をもっている。ペスト,不作,人口激減,階級・階層対立の激化,内乱などの悪条件はようやく15世紀中葉ころに終りを告げ,生産力の回復から,〈繁栄の16世紀〉へと展開しつつあった。新航路の発見(大航海時代)といった条件も加わって,ヨーロッパは経済的な成長と政治的な統合へと向かっていった。ルネサンスはこうした社会的好状況に支えられて,精神的生産力を倍加させたものである。ヨーロッパの活力の〈回復〉こそ,〈再生〉に必要な背景であった。
しかし,単なる回復や繁栄ばかりではなく,ルネサンスの盛期には,人々の生活環境・生活様式の大きな転換があった。ことにイタリアの都市社会では,都市的な洗練された生活スタイルが生まれ,おりからの商業の発展もあって,消費文化の独特な様相が現れてきた。以上のようなマクロとミクロにおける時代状況の変転のなかで,ルネサンスの発生と展開が説明される。
すでにみたところから推論されるように,ルネサンスは,次の主要な三つの形式上の特徴のもとに考えられてきた。すなわち,いったん消失した古典文化の復興であること,知的体系として,合理性と専門性を備えていること,近代的価値に接続するものとして,恒久的に制度化された体系を獲得していること。これらの形式的特徴に基づいて,人文主義(人間的理想主義),現世主義,合理性と普遍性,個人主義などをルネサンスの指標とみなしてきた。しかし,これらの一般的理解には大幅な修正が必要と考えられる。その修正は,次の(1)(2)二つのレベルで行われる。
(1)復興,合理性,近代性の意味の再検討。〈復興〉とは,通常,古代の古典文化がいったん死滅したことを前提としているが,この認識には疑問がある。というのは,ギリシア古典文化は中世の長い年月の間,ヨーロッパ世界では縁遠かったものの,ビザンティン帝国とイスラム諸国においては,十分に保存され活発な発展をみていた。古代文化はこの二つの文明によって正統的に継承されていたのであって,死滅とはほど遠い状況にあった。ルネサンス期,もしくはその直前にあって,ヨーロッパはようやく,これらの継承者との接触によって古代文化の存在に気づき,本格的な摂取を開始した。当初はアラビア語を経由して,のちにはギリシア語を介して,古典文化に接近した。したがって,ルネサンスとは実質上は〈再生〉ではなく,ヨーロッパが,地中海文明の広大な遺産の価値を認識し,先進の東方文明から古代を継承する過程で起こったものである。ヨーロッパにとっては,古代は外来の文化価値であった。むろん,古代文明の体得のしかたは,東方とヨーロッパとでは異なるが,いずれが正統的で,いずれが邪道のものであるか,というような区別は成り立たない。
第2の合理性についても,修正が必要である。ルネサンスにあっては,たしかに均衡のとれた冷静な理性原理,知解しうるもののみに立脚した主知的な客観性が尊重されてはいる。しかし,近年研究者の間で注目されているのは,主知的合理性とは区別される魔術的な世界観である。ルネサンス期には占星術や錬金術が盛行をきわめ,著名な科学者・哲学者でも,これらの魔術的知識に関与したことは,かねてから知られていた。これらのものは,古代ヘルメス主義(ヘルメス思想)や自然学,もしくはユダヤ教カバラ理論などの真正なテキストに関連を求められて,ルネサンス思想家の中心的な関心の一つとなっており,それはルネサンスの〈遅れた暗黒面〉としてではなく,むしろ積極的な主軸として機能していたとみるべきものである。ただし注意すべきことは,これらの魔術的思考は,現在でこそ合理的(理性的)思考の対極とされるものの,ルネサンス人にとっては相互に協同しうるものであって,相反的なものとして扱われているわけではない。むしろ,当時の最先端の学知として,実証的科学や文献学とともに,ルネサンス文化の枢軸を占めていたのである。
第3に,ルネサンスが近代思想・科学の定礎であるとする見方に対しては,その当否が争われているが,それとは別個に,そうした系譜論的議論の方法ではなく,文化全般を同時代の社会の構造の内部において分析しようとする構造論的理解法が提起される。すなわち,とりわけ,後にみるように,15,16世紀には,ルネサンスと並行して宗教改革,大航海などの諸活動が進行しており,これらの時代的全要素のなかにルネサンスも定置すべきである,また先にみた社会的背景をも考慮にいれて,文化運動全体の論理的構造を,同時代性(サンクロニーsynchronie)のなかで完結してとらえることが先決だ,とするものである。以上の3点が,旧来のルネサンス観への修正として唱えられる。
(2)以上の修正をもふくめて旧来の理解法の対極が提唱される。まず,復活したにせよ外来にせよ,その古代文化とは異なる,ヨーロッパ土着の価値の開花が着目される。ゲルマン,ケルトなどの古来の土着文化は,中世をとおして展開され,ルネサンス期に独特の表現をとるにいたった。妖精,魔女,アニミズムの表象,さらに庭園における洞窟,迷路などには,明白に土着性を帯びた表現や観念が強調されている。第2には,学問・芸術のような専門性をもつ営みに対して,民間的で口承・民俗的な文化の高揚がある。これらは通常は文字化されないために,歴史の表面から失われていくが,ルネサンス文化の成熟のなかで強い影響力をもつにいたった。祝祭や演劇の場に現れる道化,愚者,あるいは祭儀における喧騒や役割逆転,漂泊,隠遁,法保護外者(アウトロー)などの周縁的存在などが,民俗的観念を体現している。第3に近代社会に直結するか否かはともあれ,制度化され,歴史の展開を画した諸達成とは別に,ルネサンスがごく日常的な生活場面にもたらした変容が問題にされる。たとえば,時計の普及が人々の生活時間を一変させたこと,騎士的宮廷儀礼が都市生活のなかに導入され,市民的スタイルに姿を変えて,マナーやエチケットを生み出したこと,食品や衣服が,生活水準の向上をうけて,文化的な価値として認識され,料理術やモード,ファッションに結晶していったこと,などを例としてあげることができる。以上の,土着・民俗文化,生活のあり方は,相互に分かちがたく結合しており,ルネサンス文化の基底を力強く支えているというべきである。
ややもするとルネサンスは,単一の特定の思潮傾向をもって規定されがちである。現世的で明証的,理性の進歩への信頼など,互いに整合的な諸要素の組合せとしてとらえられる。しかし先にみたところでも明らかなように,ルネサンスは,むしろ相互に整合的であるよりは,むしろ,相互に対抗的・競合的な要素の衝突と並立とみるほうが事実に近い。たとえば,ルネサンスは生への謳歌とされるが,同時に〈死の勝利〉〈死の舞踏〉という図像モティーフや,ペトラルカ以来の死の詩的モティーフが多用されている。あるいは,現世的な快楽の享受に対しては,禁欲が積極的に提起されることもある。G.サボナローラのような激烈な事例もあるが,一般に新プラトン主義哲学者は,絶対的唯一者の前での人間の卑小と服従を説いている。同様の構図は,都市と田園,進歩と終末,善と悪,理性と狂気,具体と象徴,世俗と神聖,可視と秘匿といった対(つい)の組合せのなかにも表れている。これらの組合せの前者は,一般にルネサンス的価値とみなされてきたものであるが,後者もまたルネサンス文化の随所に出現しているわけである。このようにみてくると,ルネサンスを特定の思想傾向で定義することを断念し,対立する諸要素の衝突の激しさ,あるいはその対立が生み出す波及領域の広大さや,文化・思想的エネルギーの巨大さこそがルネサンスの特質だと考えるべきであろう。ルネサンスは極端に明澄であって,かつ極端に暗黒でもあり,またはなはだしく人間的であり,かつはなはだしく非(超)人間的でもある,という逆説的な規定がかえって有効である。したがってルネサンス文化の諸ジャンルにわたって,個々にはルネサンス的様式というべきものが定義されうるにしても,全体としてルネサンス文化の統合的原理を特定することは,本質的に不可能ということになる。また,そのような事情から,ルネサンスの語を単に15,16世紀に生起した歴史的事件にのみ特定せず,擬似的には,歴史上の文化的諸事件に適用することが,手続上可能になる。12世紀ルネサンスやカロリング・ルネサンスのように,すでに定着した用語法はもちろん,パリ・ルネサンス,アイルランド・ルネサンスなどの用語法もこの意味で不当ではない。
ルネサンスを狭義にとらえるならば,同時代に並行して起こった宗教改革と大航海とは,別個の事件である。ルネサンスは,体制としてのキリスト教会には比較的浅い関連をもつのみであり,大航海と地理上の発見は,直接には経済上の目的と結果にかかわっていた。しかし,宗教改革とルネサンスはいくつかの点で結びついている。ルネサンス人文主義が喚起した批判精神は,教会権威の検証を促し,聖書の原典批判をとおして,新たな宗教感情を生起させた。ルターやカルバンの改革をうけいれた思想家のなかには,人文主義者が多数いたことが明らかである。しかし他方では,ルネサンス思想家は,価値を相対化する感覚をもち,宗教改革のもつ敬虔な理想主義とあいいれず,対立を招いたという側面もある。ルターと人文主義者エラスムスとの相克はこの事例としてあげることができる。さらにルネサンスがイタリア都市の経済力や,ローマ教皇の権威を背景として繁栄したことから,これの支配をうける地方における反イタリア感情を引き起こし,ルネサンスへの否定的態度を生み出した。ルターの改革の緒となった免罪符配布は,ルネサンスの精華ともいえるローマのサン・ピエトロ大聖堂の建設費用にあてられるべきものであったが,このいきさつは象徴的である。
次に大航海との関連についていえば,大航海の推進者は,イベリア半島の国家であったが,ここには,イタリア人も探検・航海者として多く加わっていた。コロンブス,A.ベスプッチ,カボット父子らはイタリア人であり,地中海の航海技術ばかりか,地理・天文学やキリスト教伝道思想をも身につけ,ルネサンス文化の一端を担っていたといえる。また彼らを含む航海者がもち帰った世界情報と文物とは,16世紀初頭以降,ルネサンスに新たな刺激となった。その様相は,すでに文化的創造力の限界に達していたイタリアよりはスペイン,イギリス,フランスのルネサンス文化にとりわけ顕著である。
ルネサンスは中部・北部イタリアの都市で起こり,発展した。狭義かつ厳密な意味においては,ルネサンスは14~16世紀イタリアに限定すべきである。上にみてきたルネサンスの諸規定も,さしあたりはイタリアのみに妥当するものと解しておく。しかしイタリアと文化的つながりをもつ諸国にあっては,それぞれの条件に応じて,類似の文化現象を生み出すことになった。一般的には,ルネサンスの定義を広くとり,上述のような規定のもとに考えたうえで,各国のルネサンスの存在を認める方向にある。ドイツにおいては,デューラーやクラーナハらの画家たちのイタリア絵画の影響下における活動が著しい。フランスでは,すでに15世紀から人文主義者が現れ,15世紀末のフランス国王軍のイタリア遠征によって,美術・建築の新風が導入された。また,ラブレー,モンテーニュらの文筆家の自由な発想の文学にも,ルネサンスの形跡が認められる。スペインでは,16世紀後半以降に戯曲や小説の隆盛がみられ,セルバンテスらにルネサンス風の解放感がみなぎっている。イギリスでは,人文主義者T.モアののち,16世紀後半にエリザベス朝演劇の大成果を実現し,文化全般の成熟をみた。これら非イタリア世界の文化的隆盛を,それぞれの国におけるルネサンスとみなしている。
イタリア・ルネサンスは,16世紀の中葉にほぼ終結を迎えた。前世紀末から続いた外国軍隊による戦闘によってイタリアは荒廃し,ローマの略奪(1527)はその没落の象徴的事件であった。さらに宗教改革に対抗すべく,カトリック教会が行った諸改革,ことにトリエント公会議の諸決定は,文化全般にわたる教会の監督・干渉を強化した。国際経済システムの変換によって,繁栄にかげりの出ていたイタリア都市は,この結果,急速にルネサンスの活力を失っていった。同様の過程はフランス,スペインなどのカトリック国でも起こり,またイギリス,ドイツでも,プロテスタント支配や絶対主義国家の成立によって,ルネサンスには終止符が打たれた。しかしながら,イタリアを含めて,それぞれの国では,ルネサンスは,言語・文学・美術表現などをとおして,固有の国民文化の形成に資するところ大きく,いずれの場合においても国民的古典というべきものを生み出していた。したがって,歴史的事件としてのルネサンスは終息したとはいえ,国民文化の形をとって継承されたと考えるべきである。美術様式としてのバロックや,文学上の古典主義,音楽のバロックなど様式上は変換にさらされつつも,これらの遺産は,それぞれの国民の基本財産となっていった。
→人文主義 →バロック劇 →ルネサンス音楽 →ルネサンス美術
執筆者:樺山 紘一
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ルネサンスとは古典文化の復興運動のことであり,イタリアで14世紀に始まり15世紀に最盛期を迎えた。その後16世紀にかけて,ドイツ,フランス,イングランドと北方諸国にも伝播した。まずイタリアでは,ペトラルカをはじめとするユマニスム(言語文献学的研究)の精神にもとづくギリシア,ローマの原典の発掘,研究とそれらを模範とする創作がなされた。しかし文学,思想以上に造型芸術の分野において,華々しい成果が現れた。メディチ家,エステ家,ゴンザーガ家など,各地の君主をパトロンとする芸術家たちが,それぞれの都市を美化しようと業(わざ)を競ったのである。建築のブルネレスキ,アルベルティ,ブラマンテ,絵画のマザッチョ,ボッティチェリ,ピエロ・デッラ・フランチェスカ,彫刻のドナテッロ,ヴェロッキョ,ミケランジェロなど天才たちが活躍した。北方諸国においては,ルネサンスはより文学的になり,また宗教改革の動向ともからんで複雑な様相をみせた。
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… アカデミーには今一つ,学芸の振興を目的とする学術団体という意味があり,今ではこの用法がもっとも普及している。学術団体としてのアカデミーは,古くは前述のカール大帝やアルフレッド大王の事績にさかのぼることもできるが,本格的には中世,とりわけルネサンス期に発展した。中世ヨーロッパを通じてもっとも名高いアカデミーとしては,1323年,南フランスのトゥールーズにトルバドゥールの詩人たちが結成した〈花の競技アカデミーAcadémie des jeux floraux〉が挙げられよう。…
…そして国家が徐々に積極的に関与し始め,19世紀末までに,各国で国家の主導の下に初等教育の義務化ならびに無償化が実現されるに及んで,読み書きそろばんは国民のほとんどすべてに広まるのである。
[中世~ルネサンス]
中世の文字教養は主としてラテン語に基づくものであり,ごく少数の人々に独占されていた。中世初期に出現した修道院学校,大聖堂学校,司祭学校などのキリスト教学校は修道僧と在俗僧の養成を,カロリング・ルネサンス期の宮廷学校は文芸研究の振興を,その後に生まれた中世の大学は神学者,法律家といった専門家の養成を目的とした。…
…65年同大学ブレーズノーズ・カレッジの個人指導教師となり,以後ほとんどここを離れることなく,死ぬまで思索と著作の独身生活を送った。批評家として最初に注目されたのは,1873年発表の《ルネサンス》で,これにより〈芸術のための芸術〉の擁護者,いわゆる〈印象主義批評〉の祖とみなされることとなった。O.ワイルドをはじめ,19世紀末の唯美主義文学者たちに強い感化を及ぼしたが,宗教や道徳を無視するとして非難を受けたこともある。…
※「ルネサンス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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