クラーク(読み)くらーく(英語表記)Alvan Clark

日本大百科全書(ニッポニカ) 「クラーク」の意味・わかりやすい解説

クラーク(T. J. Clark)
くらーく
T. J. Clark
(1943― )

イギリスで生まれアメリカで活動する美術史家。専門は西洋近現代美術史。美術作品を当時の社会との関連において検討する独自の研究方法で知られる。ブリストル生まれ。ケンブリッジ大学とロンドン大学コートールド・インスティテュートに学ぶ。1966年から1年間パリに留学し、その後いくつかの大学で教鞭をとったあと、80年ハーバード大学美術学部の美術史の教授に就任。さらに87年以降はカリフォルニア大学バークリー校教授。

 後のクラークの業績を考えれば、アカデミックなキャリアもよりも60年代に彼が参画していた社会運動のほうが注目される。当時クラークはシチュアショニスト・アンテルナシオナル(SI=Situationniste International)のイギリス支部員だった。ギイ・ドゥボールGuy Debord(1931―94)主導のもと57年にパリで結成されたこの社会・芸術運動集団は、消費社会を徹底的に批判するとともに、その消費社会にどっぷり浸かった都市の日常生活=「状況」の再構築を目指した。「芸術の社会史」という構想を早くから抱いていたというクラークはこのとき、ドゥボールやSIのいう「都市」や「スペクタクル」の問題に鋭く対峙したのである。

 その最初期の著作『民衆のイメージ』Image of the People(1973)で、クラークは、ギュスターブ・クールベがどれだけ都市パリの「市民」と故郷オルナンの「民衆」、それぞれの政治的な立場を同時に相手にし、またその両者との駆け引きから活力を得ながら、大作『オルナンの埋葬』(1849~50)をはじめとする作品を描き上げたかを明らかにした。また84年の著書『近代生活の絵画』The Painting of Modern Lifeでは、エドゥアール・マネをはじめとする画家たちが、当時のパリに氾濫していた、「スペクタクル」としての都市あるいは女性にどのように応じつつ作品を描いたかを論じている。ドゥボールのいう「スペクタクル」とは、そこに具体的に存在する社会的な問題や矛盾を抽象化し、またその状態があたかも自然なものであるかのように見せる偽装工作、またその結果としての、見栄えのいい、あるいはそれゆえにすんなりと理解できるイメージのことである。それに対してたとえばマネは、『オランピア』(1863)や『1867年パリ万博の光景』(1867)で、当時の観客にとってマネがなにをいいたいのかよくわからない、不自然な女性像や都市の姿を描いている。それらを通じて、逆になじみのある「自然な」女性や都市のイメージこそが「スペクタクル」、つまり偽装された自然にすぎないことを気づかせるために描かれたとクラークは論じる。

 こうしたクラークの立場を要約するなら、次のようになるだろう。あらゆる美術作品は、芸術家とそれを取り囲む社会との意識的あるいは無意識的な「取引」の産物である。つまりそれはたえず両者の緊張関係のなかで、「創造」ではなく「生産」され、「鑑賞」ではなく「消費」される。クラークは作品を、そして同時に作品や同時代の社会に関わるあらゆる資料を微視的に分析し、また記号論や精神分析などの手法も取り入れてゆくことで、そうした相互的な「取引」の状況を明らかにする。もちろん「生産」や「消費」といった語の選択は、彼のマルクス主義への傾倒からくるものである。だが従来のマルクス主義的な美術史学の多くが、ある美術作品はそれを生んだ社会状況を(一方的に)「反映」している、と見なすに留まるのに対し、クラークはあくまで個々の作品の成り立ちに則しつつ、その相互作用的な「生産」と「消費」の状況を執拗に記述する。彼のこの姿勢は、アメリカの第二次世界大戦後の美術などを対象としたその後の研究でも一貫している。

 同時にこのクラークの立場は、芸術は社会から独立した自律的なものであると主張する、モダニズム/フォーマリズム(形式主義)のそれとも真っ向から対立するものでもある。モダニズム/フォーマリズムの陣営を代表するクレメント・グリーンバーグを批判的に読解した彼の一文「クレメント・グリンバーグの芸術理論」Clement Greenberg's Theory of Art(1982)は、グリーンバーグ直系の批評家、美術史家マイケル・フリードとの論争を引き起こした。この論争は近代芸術をめぐるもっとも重要な論争の一つとなっている。

[林 卓行]

『上田高弘訳「クレメント・グリーンバーグの芸術理論」(『批評空間』臨時増刊号『モダニズムのハードコア』所収・1995・太田出版)』『Image of the People; Gustave Courbet and the 1848 Revolution (1999, University of California Press, Berkeley)』『The Paintings of Modern Life; Paris in the Art of Manet and his followers (1999, Princeton University Press, Princeton)』


クラーク(Sonny Clark)
くらーく
Sonny Clark
(1931―1963)

アメリカのジャズ・ピアニスト。ペンシルベニア州に生まれ、4歳でピアノを習い始める。ブギ・ウギ・ピアノのピート・ジョンソンPete Johnson(1904―1967)が好きで、6歳のときにラジオのアマチュア参加番組でブギ・ウギ・ピアノを演奏。14歳のころラジオで放送されるデューク・エリントン楽団、カウント・ベイシー楽団の演奏を聴いて本格的にジャズに興味をもち、ジャズ・ピアノの巨匠アート・テータムの演奏をレコードで聴く。高校時代はビブラホーン、ベースも演奏し、少年バンドに所属する。母子家庭に育ったため、1951年に母親が亡くなると、ピアニストの兄とともにロサンゼルスの叔母のもとに身を寄せる。ちょうどこの時期、ジャズ・シーンの中心はイースト・コーストから軍需産業、映画産業で好況を迎えた西海岸へと移りつつあり、ウェスト・コースト・ジャズが活況を呈し始めていた。ロサンゼルス滞在中、テナー・サックス奏者のワーデル・グレイWardell Gray(1921―1955)、ドラム奏者のシェリー・マンShelly Manne(1920―1984)、ギター奏者バーニー・ケッセルBarney Kessel(1923―2004)、アルト・サックス奏者アート・ペッパーといった一流ミュージシャンたちと共演する。

 1953年ベース奏者オスカー・ペティフォードOscar Pettiford(1922―1960)のトリオに加わり、バンドの移動に伴ってサンフランシスコに赴(おもむ)く。ここでクラリネット奏者のバディ・デフランコBuddy DeFranco(1923―2014)に出会い、彼のカルテットのメンバーとなりレコーディングに参加する。1954年にはジャズ評論家レナード・フェザーLeonard Feather (1914―1994)率いる「ジャズU. S. A.」の一員としてヨーロッパに公演旅行を行う。1956年ふたたびロサンゼルスに戻り、白人ベース奏者ハワード・ラムゼーHoward Rumsey(1917―2015)のバンド、ライトハウス・オールスターズのピアニストとなるが、これは典型的な白人ジャズマンによるウェスト・コースト・ジャズで、黒人のクラークの感覚にはあわなかった。

 そこで1957年ニューヨークに移り、ベース奏者サム・ジョーンズSam Jones(1924―1981)、ドラム奏者アート・テーラーArt Taylor(1929―1995)とピアノ・トリオを組み、ジャズ・クラブ「バードランド」に出演。テナー・サックス奏者ソニー・ロリンズのアルバム『サウンド・オブ・ソニー』吹き込みに参加する。続いて彼にとって大きな意味をもつジャズ・レーベル、ブルーノートとの契約を果たす。ブルーノートでは彼の代表作である『ソニー・クラーク・トリオ』(1957)、『クール・ストラッティン』(1958)といったアルバムを出している。ほかにもいわゆるブルーノート・ハード・バップの名盤とよばれる多くの作品にサイドマンとして名を連ねており、彼の評価はこのレーベルの存在を抜きにしては考えられない。

 1962年、脚気(かっけ)と心臓病のため入院、1963年退院したものの、麻薬の過剰摂取のため心臓発作を起こし死去。ブルーノート以外の代表作に、タイム・レーベルの『ソニー・クラーク・トリオ』(1960)がある。彼のピアノ・スタイルはバド・パウエルの影響を強く受けたもので、比較的地味な印象を与えるためか、アメリカではさほど一般的人気はなかった。だが、ミュージシャンの間での評価は高く、彼の死後セロニアス・モンク、ホレス・シルバー、ケニー・ドーハムKenny Dorham(1924―1972、トランペット)らによってメモリアル・コンサートが催された。また、その哀調を帯びたタッチから、日本のジャズ・ファンの人気は非常に高い。

[後藤雅洋]


クラーク(Larry Clark)
くらーく
Larry Clark
(1943― )

アメリカの写真家、映画監督。オクラホマ州タルサ生まれ。乳幼児専門の写真家であった母親の仕事を手伝うことで写真に興味を抱く。1963年、オクラホマ・シティのレイトン美術学校を卒業後にタルサに戻り、幼なじみの不良仲間を撮影し始める。ドキュメンタリー映画のように「セックスとドラッグとロックン・ロールの日々」をストレートなドキュメントとして綴(つづ)った写真は、1971年に写真集『タルサ』Tulsaにまとめられ、同時代の写真表現に決定的といえるような衝撃を与えた。互いに薬を打ち合う男女、警察の密告者への暴行など、たしかに暴力的でセンセーショナルなイメージが多いが、全体としては抑制され、静まりかえった印象を受ける。とりわけ、自然光を巧みに生かしたライティングにより、むしろ古典的といえるような味わいさえ生じている。

 クラークは、『タルサ』によって一躍アメリカ写真界の寵児となるが、その後ドラッグと酒に溺(おぼ)れ、1975年から暴力事件とピストル不法所持によって5年間の刑務所暮らしをおくる。1983年に刊行された『ティーンエイジ・ラスト』Teenage Lustは、彼の再起を期した写真集であり、より自伝的な要素が強まっている。巻末の長文インタビューを含めて、子供のころの家族写真、傷害事件の新聞記事、裁判の調書などがアトランダムに挿入されたコラージュ的な構成のなかでとくに目だつのは、10代の男女のポルノグラフィーすれすれの性行為の描写である。しかし、そこには覗(のぞ)き見趣味的ないやらしさはなく、むしろ写真家自身もその状況のなかに巻き込まれていくことで、彼らの生命力の発露が肯定的な眼差しでとらえられている。

 『ティーンエイジ・ラスト』で試みられたコラージュ的な構成は次の写真集『1992』Larry Clark;1992(1992)では、より徹底的に突き詰められている。『1992』は断ち落としの写真が300ページ以上も続く写真集で、自殺ごっこをしている少年のさまざまなポーズを執拗(しつよう)に追い続けている。このようなティーンエイジャーの性と死と暴力に対する強いこだわりは、1993年の写真集『完璧な少年時代』The Perfect Childhoodでも、さらに追求されることになる。ここでは、成熟が遅く、性的に正常ではないというコンプレックスに悩んでいた彼自身の少年期の記憶が、殺人や強姦(ごうかん)の罪を犯した少年たちの犯罪記事やテレビの映像から二重映しに浮かび上がってくるような構造をとっている。それはある意味で、写真やコラージュによる自己回復の試みとみなすこともできるだろう。

 1995年には、彼の映画監督第一作である『キッズ』が公開された。スケートボーダーたちの日常を、エイズの影を絡ませて淡々と描いた『キッズ』は、1996年(平成8)に日本でも上映され、カルト的な人気を集めた。1998年には映画監督第二作の『アナザー・デイ・イン・パラダイス』が公開されるなど、プライベート・ドキュメンタリーの手法を生かした映画の作り手としても注目を集めるようになってきている。

[飯沢耕太郎]

資料 監督作品一覧

KIDS キッズ Kids(1995)
アナザー・デイ・イン・パラダイス Another Day in Paradise(1998)
BULLY ブリー Bully(2002)
獣人繁殖 Teenage Caveman(2002)
Ken Park ケン パーク Ken Park(2002)
ワサップ! Wassup Rockers(2005)

『「特集ラリー・クラーク」(『デジャ=ヴュ』No.13・1993・フォト・プラネット)』『「特集ラリー・クラーク」(『美術手帖』1996年8月号・美術出版社)』『飯沢耕太郎著『フォトグラファーズ』(1996・作品社)』『Tulsa (1971, Lustrum Press, New York)』『Teenage Lust (1983, Millerton, New York)』『Larry Clark;1992 (1992, Thea Westreich, New York/Gisela Capitain, Cologne)』『The Perfect Childhood (1993, Scalo Verlag, Zürich)』


クラーク(Colin Grant Clark)
くらーく
Colin Grant Clark
(1905―1989)

イギリスの経済学者、統計学者。オックスフォード大学で化学を学んだが、のちに経済学や統計学の研究に転じた。ハーバード大学助手、ケンブリッジ大学講師などを経て、1937年オーストラリアに渡り、メルボルン、シドニーなどの大学の客員講師を歴任し、またオーストラリア労働産業省の次官などの官職についたこともある。その後53年にイギリスに帰り、オックスフォード大学農業経済学研究所所長になった。彼は、主著『経済進歩の諸条件』The Conditions of Economic Progress(1940)において、各国の統計を利用して国際単位という統計学的操作によって国民所得の国際比較を行ったが、そのなかで産業を第一次、第二次、第三次の三つに分け、経済発展に伴って産業構造が第一次から第二次へ、さらに第二次から第三次産業へと比重を移していくことを実証的に明らかにし、ペティの法則と名づけた。

[志田 明]

『大川一司他訳篇『経済進歩の諸条件』上下(1968・勁草書房)』『杉崎真一訳、馬場啓之助監修『人口増加と土地利用』(1973・農政調査委員会)』


クラーク(William Smith Clark)
くらーく
William Smith Clark
(1826―1886)

札幌(さっぽろ)農学校(北海道大学の前身)の創設者。アメリカのマサチューセッツ州に生まれる。アマースト大学およびドイツのゲッティンゲン大学に学び、鉱物学、化学を専攻。帰国後母校のアマースト大学の化学教授に就任し、南北戦争では義勇軍に入隊し大佐に昇進した。1867~1879年アマーストのマサチューセッツ農科大学学長となる。北海道開拓事業をつかさどる政府機関である開拓使の懇望により同大学長のまま、1876年(明治9)6月来日し、8月開校の札幌農学校初代教頭に就任。事実上の創設者となった。

 彼は細かな学則を否定して「予がこの学校に臨む規則は、Be gentleman!只(ただ)この一言に尽くる」といい、故意に規律を守らない者に対しては、「只退学あるのみ」といった。また厳格なピューリタンとしてキリスト教精神に基づく人間教育を行い、内村鑑三(うちむらかんぞう)はじめ多くの人材を出した。在職1年、1877年4月帰国にあたり、“Boys, be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.”(青年よ、人間の本分をなすべく大望を抱け)の名言を残したことは有名である。1886年3月9日アマーストで61歳の生涯を閉じた。

[梅溪 昇 2018年8月21日]

『原田一典著『お雇い外国人13 開拓』(1975・鹿島出版会)』



クラーク(John Maurice Clark)
くらーく
John Maurice Clark
(1884―1963)

アメリカの経済学者。父は著名な経済学者J・B・クラーク。マサチューセッツ州ノーサンプトンに生まれる。1905年アマースト大学を卒業し、コロンビア大学で修士号と博士号を取得した。コロラド、アマースト、シカゴの各大学を経て、26年コロンビア大学の経済学の教授となる。アメリカ経済学会第37代会長。

 クラークは、父の経済学の衣鉢を継ぎ、新古典派の完全競争理論を手掛りに、それを現実の経済に近づけるうえで制度学派的接近方法を採用し、重要な貢献も少なくない。とりわけ、完全競争にかわる有効競争workable competitionの概念を提出し産業組織論の分野を開拓したこと、加速度原理と景気循環に関する先駆的研究、社会的費用と私的費用の区別、会計上の費用と経済学者の費用概念の区別などの貢献はよく知られている。主著に『地方の運賃差別に関する合理的基準』Standards of Reasonableness in Local Freight Discriminations(1910)、『間接費の経済学の研究』Studies in the Economics of Overhead Costs(1923)、『景気循環の諸要因』Strategic Factors in Business Cycles(1934)、『動態的過程としての競争』Competition as a Dynamic Process(1961)などがある。

[佐藤隆三]


クラーク(Arthur C. Clarke)
くらーく
Arthur C. Clarke
(1917―2008)

イギリスのSF作家。キングズ・カレッジで物理学と数学を専攻。1946年、短編『太陽系最後の日』を発表してデビューした。初期の作風の特徴は、豊富な科学技術の知識を駆使して現代科学の発達を可能な限り正確に予測した近未来を描くことにあり、『火星の砂』(1952)、『海底牧場』(1957)などがそれにあたるが、20世紀末、突如出現した外宇宙からの宇宙船団によって地球が支配され、人類の文明が新たな進化に向かう過程を描いた『地球幼年期の終わり』(1953)は単にクラークの代表作にとどまらず、1950年代のSFを代表する名編。

 1979年『楽園の泉』の発表を最後に隠退を声明したが、おもな作品には、ほかに『銀河帝国の崩壊』(1953)、同名の映画化とタイアップして書かれた『2001年宇宙の旅』(1968)、自伝的エッセイ集『スリランカから世界を眺めて』(1978)など多数ある。

[厚木 淳]


クラーク(Alvan Clark)
くらーく
Alvan Clark
(1804―1887)

アメリカの望遠鏡製作者。1824~1844年は肖像画家として働いていたが、1846年光学会社を設立、もっぱら望遠鏡の製作に従事し、大型かつ精密な望遠鏡の提供により、近代天文学の発展に貢献した。彼の製作になるおもな望遠鏡は、プリンストン大学(口径23インチ)、海軍天文台およびバージニア大学(26インチ)、プルコボ天文台(30インチ)などに設置された。

 長子グラハムAlvan Graham Clark(1832―1897)も父の技(わざ)を継ぎ、1862年製作の18インチ望遠鏡は、その試観測の機会にシリウスの伴星(白色矮星(わいせい))を発見、検出した。ついで1888年にリック天文台に36インチ鏡を、さらに1889年にヤーキス天文台に40インチ鏡を設置した。後者は現在でも世界最大の屈折鏡である。

[島村福太郎]


クラーク(John Bates Clark)
くらーく
John Bates Clark
(1847―1938)

アメリカの経済学者。ピューリタン。ロード・アイランド州プロビデンスに生まれる。アマースト大学卒業後、3年にわたりドイツに留学し、K・クニースのもとでドイツ前期歴史学派の影響を受ける。帰国後、カールトン大学で教鞭(きょうべん)をとる。制度学派の創始者T・ベブレンはそのときの学生。その後、スミス、アマースト大学を経て、1895年コロンビア大学の教授となる。アメリカ経済学会第3代会長。

 1870年代の、W・S・ジェボンズ、C・メンガー、L・ワルラスにはやや遅れをとったが、クラークは独自に、86年に限界効用理論を、99年にはさらに限界生産力的分配論を展開し、いわばアメリカにおいて限界革命の一翼を担った。また、クラークは、比較静学的分析の先駆者でもあった。しかし、歴史学派の洗礼を受けたクラークには社会倫理的視点も鮮明であり、効率と同時に公正を重視する点が特徴となっている。主著には『富の哲学』The Philosophy of Wealth(1886)、『富の分配――賃金・利子および利潤の理論』The Distribution of Wealth : A Theory of Wages, Interest and Profits(1899)、『トラストの統制』The Control of Trusts(1901)などがある。

[佐藤隆三]


クラーク(Frank Wigglesworth Clarke)
くらーく
Frank Wigglesworth Clarke
(1847―1931)

アメリカの地球化学者。ボストンに生まれる。ハーバード大学で分析化学を学び、シンシナティ大学教授となる。1883年合衆国地質調査所に移ってから岩石・鉱物の化学組成を研究し、多くの分析を行うとともに資料を集め、1908年に『Data of Geochemistry』(地球化学データ)を著した。また地殻の平均化学組成を試算し、元素の地殻存在度を推定した。クラークの算出した数値はそれぞれの元素のクラーク数とよばれ広く用いられた(現在の存在度はクラーク以後に計算されたもの)。万国原子量協会International Committee on Atomic Weights(ICAW)の議長を長年にわたって務めた。

[橋本光男]


クラーク(Samuel Clarke)
くらーく
Samuel Clarke
(1675―1729)

イギリスの神学者、哲学者、イギリス国教会の司祭。ケンブリッジ大学卒業。独学でニュートン物理学を学び、その信奉者となった。宮廷付きの司祭を20年務め没す。ニュートン物理学の解釈をめぐるライプニッツとの往復書簡(1715~1716)は有名。唯物論や汎神(はんしん)論に対し、正統的キリスト教を擁護する『神の存在と属性』(1704)では、理性の強調と数学的方法による神の存在と属性の論証を試みた。また道徳の客観性を強調し、それを数学規則とアナロジカルな事物・行為そのものの普遍的「適合性」に求めた。ライプニッツとの論争では、ニュートンの絶対空間・時間を神の感覚器官とする説を擁護し、引力の概念をスコラ的にではなく、実証的に解釈すべきことを主張した。

[小池英光 2015年7月21日]


クラーク(ロシアの富裕な農民)
くらーく
кулак/Kulak ロシア語

ロシアの富裕な農民、農村ブルジョアジー。1861年の農奴解放後に成立し、20世紀初めには農家の5分の1を占めた。ロシア政府は、1905年革命後、ストルイピン改革によってクラークを育成強化し、農村における政権の支柱としようとした。17年の十月革命後、国内戦期には反革命の社会的基礎となったが、食糧徴発制によって打撃を受けた。21年以後のネップ(新経済政策)期において、土地国有という条件やソビエト政府の政策によってその力は制限されていたが、27年には農家の4~5%、すなわち100万戸以上になっていた。ジノビエフ、トロツキーらは、この力を過大に評価してネップの速やかな変更を求め、一国社会主義論争の論点の一つとした。スターリンは反対派を敗北させたのち、穀物危機に直面して政策を転換、29年末からクラークの激しい抵抗を排して農業経営の集団化を強行、クラークを階級として清算し、農業、家畜などの生産手段をコルホーズの財産とした。

[木村英亮]


クラーク(Sir Kenneth Mackenzie Clark)
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Sir Kenneth Mackenzie Clark
(1903―1983)

イギリスの美術史学者、美術評論家。オックスフォード大学に学び、のちフィレンツェに渡ってベレンソンに師事。イタリア・ルネサンス美術の専門家と認められるようになって、ロンドン・ナショナル・ギャラリー館長(1934~45)となる。さらにオックスフォード大学教授のほか、イギリス美術協会会長、大英博物館理事、独立テレビ放送協会会長などの要職を務め、広く評論や啓蒙(けいもう)活動も行い、1969年男爵に叙せられた。主著に『ゴシック・リバイバル』(1925)、『レオナルド・ダ・ビンチ』(1939)、『風景画論』(1949)、『ザ・ヌード』(1956)などがある。

[鹿島 享]

『高階秀爾訳『絵画の見方』(1977・白水社)』『丸山修吉・大河原賢治訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1981・法政大学出版局)』


クラーク(Jim H.Clark)
くらーく
Jim H.Clark
(1944― )

アメリカの実業家。ユタ大学博士課程を終了後、スタンフォード大学準教授を経て、1982年シリコングラフィックス社(SGI)を設立。映画『ジュラシック・パーク』のCGなどを手がけて成功を収め、年間収益22億ドルの企業に育て上げる。1994年同社を辞職し、23歳のマーク・アンドリーセンMarc Andreessen(1971― )を副社長に迎え新ソフト会社モザイク・コミュニケーションズを設立、会長兼最高経営責任者(CEO)。ホームページ用の閲覧ソフト「ネットスケープ・ナビゲーター」を開発。社名をネットスケープ・コミュニケーションズに改称。アメリカのベンチャー企業の旗手的存在である。

[編集部]


クラーク(Michel de Klerk)
くらーく
Michel de Klerk
(1884―1923)

オランダの建築家。14歳からE・カイペルスのもとで設計を修業し、1910年代に入って独立。ファン・D・メイ、L・クラメルと協同して、海運ビルをアムステルダムに完成(1916)させて以来、有機的で視覚的変化に富んだいわゆる「アムステルダム派」特有の建築を次々と発表して注目され、同派の中心的存在となった。なかでも彼の建築家としての真価は集合住宅の設計において発揮され、アイヘン・ハール集合住宅地や、デ・ダヘラート集合地に実現した建物などに、その天才的な構想力と情感あふれる意匠力が今日に至るまで伝えられている。

[長谷川堯]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「クラーク」の意味・わかりやすい解説

クラーク
Clark, Helen

[生]1950.2.26. ハミルトン
ニュージーランドの政治家。首相(在任 1999~2008)。ハミルトン西のテパフの牧場で育つ。オークランド大学で政治学を専攻して 1971年に学士号,1974年に修士号を取得し, 1973~81年同大学で教鞭をとった。1971年にニュージーランド労働党に入党し,1981年の議会選挙で初当選した。1987年に労働党のデービッド・ロンギ首相のもとで住宅大臣,自然保護大臣,労働大臣,保健大臣を歴任した。1993年に労働党党首に選出され,ニュージーランドの主要政党で初の女性党首として議会で野党代表を務めた。1999年の議会選挙で労働党が勝利し,労働党連立政権が成立すると首相に選出され, ニュージーランドで初めての選挙によって就任した女性首相となった。みずから芸術文化大臣を兼務したほか,女性 11人とマオリ系(→マオリ族)4人を含む多様な顔ぶれの内閣を樹立し,マオリ系の権利問題,同性愛者の事実婚,売春(2003合法化)など論争の的となる多数の政策課題に取り組んだ。米英主導のイラク戦争には反対の姿勢をとった。2002,2005年と,ニュージーランドでは初めて 3期連続で首相を務めた。不景気に見舞われた 2008年の選挙で,与党労働党がジョン・キー率いるニュージーランド国民党に敗退したのをうけて首相と党首を辞任。2009年に国連開発計画 UNDP総裁に任命された。1986年にデンマーク平和財団から平和賞を贈られ,2009年 ニュージーランド勲章を授与された。

クラーク
Clarke, Samuel

[生]1675.10.11. ノーウィッチ
[没]1729.5.17. レスター
イギリスの神学者,哲学者。ケンブリッジ大学でデカルト哲学を修め,同時にそこで知ったニュートンの物理学の新説を深く研究し,その流布に貢献したが,またニュートンにも影響を与えた。彼は神の存在の証明を可能なかぎり数学的方法によって行おうとし,また道徳の原理は数学的命題と同程度に確実なものであるから理性だけでも知りうるとした。このような考えは 18世紀イギリスの思想に大きな影響を与え,D.ヒュームによる宗教批判なども,部分的にはクラークのこうした神の存在証明に対する不満から出発したものである。また道徳哲学におけるその主知主義的な理論は W.ウォラストンや R.プライスらによって支持された。 1715~16年に自然哲学の原理と宗教との関係について G.ライプニッツと論争が起り,その書簡は 17年にまとめて公刊された。主著"A Demonstration of the Being and Attributes of God" (1705) ,"A Discourse concerning the Unchangeable Obligation of Natural Religion" (06) ,"The Scripture Doctrine of the Trinity" (12) 。

クラーク
Clarke, Sir Arthur.

[生]1917.12.16. イギリス,マインヘッド
[没]2008.3.19. スリランカ,コロンボ
イギリスの SF作家。フルネーム Sir Arthur Charles Clarke。 1945年今日ある通信衛星を予見,近未来を扱った『地球光』 Earthlight (1955) ,『渇きの海』A Fall of Moondust (1961) などのほか,彼の短編をもとにしたスタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』 2001: A Space Odyssey (1968) の制作に協力。また海洋に興味をもち,1956年スリランカのコロンボに居を構えてダイビングによる探査に従事,写真やレポートを発表,資源問題を掘り下げた小説『海底牧場』 The Deep Range (1957) などを書いた。ほかに『幼年期の終わり』 Childhood's End (1953) ,『宇宙のランデブー』 Rendezvous with Rama (1973,ネビュラ賞,ヒューゴー賞) ,『楽園の泉』 The Foutains of Paradise (1979,ネビュラ賞,ヒューゴー賞) など。

クラーク
Clark, John Bates

[生]1847.1.26. ロードアイランド,プロビデンス
[没]1938.3.21. ニューヨーク
アメリカの経済学者。アマースト大学卒業後ドイツに留学 (1872~75) ,K.クニースを中心に歴史学派に学ぶ。帰国後カールトン大学,スミス・カレッジ,アマースト大学教授を経て 1895年コロンビア大学教授,1923年同名誉教授。この間 1893~95年アメリカ経済学会会長,1911年以降カーネギー国際平和財団の経済・歴史部門理事。アメリカにおける限界革命の遂行者となり,今日のアメリカ経済学の隆盛の基礎を築いた一人。処女作『富の哲学』 The Philosophy of Wealth (86) 以来,調和的社会観に基づく独自の限界効用理論を展開し,主著『分配論』 The Distribution of Wealth (99) で限界生産力説,特に完全分配定理の初期の包括的定式化を行なった。ほかに『独占問題』 The Problem of Monopoly (1904) ,『経済理論の本質』 Essentials of Economic Theory (07) など著書多数。

クラーク
Clark, Joe

[生]1939.6.5. ハイリバー
カナダの政治家。首相(在任 1979~80)。本名 Charles Joseph Clark。アルバータ大学で 1960年歴史学の学士号,1973年政治学の修士号を取得。1957年から進歩保守党の支持者として政治活動に携わり,1962~65年進歩保守学生連盟の全国委員長,1967~70年同党党首ロバート・スタンフィールドの秘書を務めた。1972年の選挙で下院議員に初当選し,1976~83年進歩保守党党首を務めた。1979年の選挙で進歩保守党が第一党となり,カナダ史上最年少の首相に就任したものの少数与党内閣だったため,半年後に予算問題で不信任案が可決され,解散に追い込まれた。翌 1980年の選挙ではピエール・エリオット・トルドー率いる自由党に敗北。1984年にマルルーニー政権が誕生すると,1984~91年外務大臣,1991~93年枢密院議長を歴任。1993年に政界から離れたが,1998年に再び進歩保守党党首に選出され,2000年に下院議員に復帰した。2004年に議員を引退。2006年にマギル大学発展途上地域研究センター教授に就任した。

クラーク
Clark, Colin Grant

[生]1905.11.2.
[没]1989.9.4.
イギリスの経済学者。オックスフォード大学卒業後,ハーバード大学の助手を経て,1931~37年ケンブリッジ大学で統計学を講義。その後オーストラリアに渡り,メルボルン,シドニーなどの大学の客員講師をつとめるかたわら,労働産業省次官,産業局長,クイーンズランド財務省顧問などの官職を歴任。 53年帰国してオックスフォード大学農業経済学研究所所長に就任。国民所得の統計的実証的研究の世界的権威で,特に主著『経済進歩の諸条件』 The Conditions of Economic progress (1940) のなかで展開した,第1次,第2次,第3次産業の区分と,経済発展に伴う産業構造の重点の移行の実証は有名。これは W.ペティの発見した経験法則を再確認するものであり,その後の経済発展研究を,1人あたりの国民所得の上昇をその背後の産業構造の変化によって説明するという方向へ導いた (→ペティ法則 ) 。

クラーク
Clark, Walter van Tilburg

[生]1909.8.3. メーン,イーストオーランド
[没]1971.11.10. ネバダ,レノ
アメリカの小説家。少年時代をネバダでおくり,ネバダ大学,バーモント大学を卒業後,教職を経て作家生活に入った。西部を舞台にしながら,いわゆる西部物にみられる類型的人物に人間的解釈を加え,独創的な鋭い洞察に富んだ悲劇的作品を著わした。 1885年に起ったリンチ事件に取材した『オックスボウ事件』 The Ox-Bow Incident (1940) は,1942年に映画化されて好評を博した。代表作に T.ウルフの作品に比せられる『震える群葉の町』 The City of Trembling Leaves (45) ,超自然的な猛獣の追跡を扱った象徴的な作品『ピューマの足跡』 The Track of the Cat (49) ,短編集『警戒する神々』 The Watchful Gods (50) 。ほかに詩集がある。

クラーク
Clark, John Maurice

[生]1884.11.30. マサチューセッツ,ノーサンプトン
[没]1963.6.27. コネティカット,ウェストポート
アメリカの経済学者。 J.B.クラークの子。 1905年アマースト大学卒業後コロラド,アマースト,シカゴ,コロンビアの各大学で教鞭をとり,第2次世界大戦中は物価安定局をはじめ多くの官職をつとめた。 35年アメリカ経済学会会長。アメリカ制度学派の一人であるが,同時に加速度原理の体系的説明者としても高く評価され,また晩年は有効競争の概念を展開した『有効競争の理論』 Competition as a Dynamic Process (1961) を著わすなど,理論の分野においても大きな貢献をした。ほかに『間接費の経済理論』 Studies in the Economics of Overhead Costs (23) など著書多数。

クラーク
Clark, William Smith

[生]1826.7.31. マサチューセッツ,アッシュフィールド
[没]1886.3.9. アマースト
アメリカの教育家で化学鉱物学者。アマースト大学卒業後,ドイツ,ゲッティンゲン大学で博士号を取得。帰国後,母校の教授などを経て,1867年マサチューセッツ農科大学の学長に就任。 76年,北海道開拓使長官黒田清隆に招かれて来日。北海道大学の前身である札幌農学校の草創期に教頭として活躍した。8ヵ月という短期間に,キリスト教的感化によって佐藤昌介,大島正健,中島信之,内村鑑三新渡戸稲造,宮部金吾などの直接間接の弟子を育成した。決別に際して学生たちに残した"Boys,be ambitious"という言葉とともに,その徳化は長く日本の教育界に伝えられている。帰国後は不遇のうちに過した。

クラーク
Clarke, Frank Wigglesworth

[生]1847.3.19. ボストン
[没]1931.5.23. ワシントンD.C.
アメリカの地球化学者。ハーバード大学で化学を学ぶ。コーネル大学助手 (1869) 。ボストン歯科大学化学講師 (70) 。ハーバード大学化学および物理学教授 (73) 。シンシナティ大学教授 (74) 。合衆国地質調査所主任化学者 (83~1924) 。火成岩,堆積岩,海底堆積物などの分析値から,地殻の化学的組成を推定し,地下 16kmまでの元素を重量百分率で示したクラーク数 (→元素の存在度 ) で知られる。クラーク数そのものは,彼の地殻の定義が不明確であったため,現在はあまり用いられていないが,彼の業績は地表近くの化学過程を解明する基礎を与えたものとして評価される。著書『地球化学のデータ』 Data of Geochemistry (1908) 。

クラーク
Clark, Sir Kenneth

[生]1903.7.13. ロンドン
[没]1983.5.21. ケント
イギリスの美術史家。オックスフォード大学で美術史を学んだのち,フィレンツェに渡って B.ベレンソンに師事しイタリア美術を研究。 1934年より 11年間ロンドンのナショナル・ギャラリーの館長。 46~50年,61~62年オックスフォード大学教授。 53~60年までアーツ・カウンシル会長。ロンドン図書館長などの要職を歴任し,69年に貴族に叙せられた。主著は『ゴシックの復興』 Gothic Revival (1928) ,『レオナルド・ダ・ビンチ』 (39) ,『風景画論』 Landscape into Art (49) ,『ザ・ヌード』 The Nude (56) ,『レンブラントとイタリア・ルネサンス』 Rembrandt and the Italian Renaissance (66) 。

クラーク
Clark, Barrett Harper

[生]1890.8.26. トロント
[没]1953.8.5. ニューヨーク
アメリカの演劇学者,劇評家。シアター・ギルドの文芸部や『ドラマ・マガジン』誌編集の仕事にたずさわるかたわら,多くの著書,編書を出版。主著『現代フランスの劇作家』 Contemporary French Dramatists (1915) ,『今日の英米演劇』 British and American Drama of Today (15) ,『ユージン・オニール,人と作品』 Eugene O'Neill,the Man and His Plays (29,増補版 47) ,『ヨーロッパ演劇理論』 European Theories of the Drama (47) など。

クラーク
Clark, Mark Wayne

[生]1896.5.1. ニューヨーク,マジソンバラックス
[没]1984.4.17. サウスカロライナ,チャールストン
アメリカの陸軍軍人,大将。 1917年陸軍士官学校卒業,第1次世界大戦に参加。第2次世界大戦では,42年 D.アイゼンハワー司令官代理として,連合軍の北アフリカ進攻作戦中,各連合国軍との折衝に活躍。 43年1月からイタリアでアメリカ第5軍の司令官となり,ローマ入城を果した。 44年第 15軍団の司令官となり,45年5月北イタリアでドイツ軍を降伏させた。大戦後勃発した朝鮮戦争では,M.リッジウェーの後任として,52年5月在韓国連軍最高司令官に就任。 53年7月の休戦協定締結まで,司令官として韓国政府との交渉および軍事面に活躍した。

クラーク
Clarke, Charles Cowden

[生]1787.12.15. ミドルセックス,エンフィールド
[没]1877.3.13. ジェノバ
イギリスの批評家。キーツの友人。『チョーサー物語』 Tales from Chaucer (1833) ,『シェークスピアの劇中人物』 Shakespeare Characters (63) などの著書があり,夫人メアリーとの共著に『作家の思い出』 Recollections of Writers (78) ,『シェークスピアを開く鍵』 The Shakespeare Key (79) がある。夫人は『シェークスピア全用語索引』 Complete Concordance to Shakespeare (44~45) の編者として有名。

クラーク
Clark, Alvan Graham

[生]1832.7.10. マサチューセッツ,フォールリバー
[没]1897.6.9. マサチューセッツ,ケンブリッジ
アメリカ合衆国の天文学者。父と兄弟とで天体望遠鏡の製作会社を経営。1897年,当時世界最大口径の 40インチ (約 102cm) のレンズを製作,シカゴ大学ヤーキズ天文台に納めた。1862年にはシリウスの伴星白色矮星のシリウスB)を発見し,フランスの科学アカデミーからラランデ賞を受賞した。

クラーク
kulak

「げんこつ」を意味するロシア語。ロシアの富農をさす。 1861年の農奴解放 (→農奴解放令) 以後階級として形成され,十月革命以前には農村ブルジョアジーとして大きな勢力をふるっていた。革命後ソビエト政権は各地に貧農委員会を組織してクラーク撲滅をはかったが,ネップ (→新経済政策 ) 期にその政策は一時中断された。 1920年代後半からの急激な集団化のなかで急速に消滅した。

クラーク
Clark, Francis Edward

[生]1851.9.12. カナダ,ケベック
[没]1927.5.25.
アメリカの会衆派教会牧師。キリスト教青年運動の指導者。ポートランド教会牧師 (1876) ,フィリップ教会牧師 (83) を歴任。「統一キリスト者共励協会」 United Society of Christian Endeavorを組織し (81) ,青年運動を各地に広め,のちに国際的な組織となった「世界キリスト者共励協会」 World's Society of Christian Endeavorの会長をつとめた (87) 。

クラーク
Clark, Edward Warren

[生]1849
[没]1907
御雇外国人。勝安芳 (→勝海舟 ) の依頼で,1871年来日,3年間静岡藩の教師をつとめ,次いで 73~74年東京開成学校の教師をつとめた。 75年いったん帰国,再び来日して勝安芳から『幕府始末』を聞き,また『勝安房伝』 Katz Awa,the Bismark of Japan (1904) を著わした。ラトガース大学出身,W.グリフィスの同級生であった。

クラーク
Clark, William

[生]1770.8.1. バージニア,カロライン
[没]1838.9.1. ミズーリ,セントルイス
アメリカの軍人,探検家,行政官。 1789年軍隊に入り,対インディアン戦闘に従軍。 M.ルイスとともに「ルイス=クラーク探検」に着手。 1803年以来3年を費やしてミズーリ,コロンビア両川流域を経て太平洋岸にいたる道程を調査。晩年,ルイジアナ地方のインディアン監督官,ミズーリ地方の総督を歴任。

クラーク
Clark, Abraham

[生]1726.2.15. ニュージャージー,エリザベスタウン
[没]1794.9.15. ニュージャージー,エリザベスタウン
アメリカ独立革命期の政治家。独立宣言署名者の一人。 1776年ニュージャージー植民地から大陸会議代表に選出された。 87年フィラデルフィア合衆国憲法制定会議に出席。 91~94年連邦下院議員として活動。

クラーク
Clarke, Jeremiah

[生]1674頃.ロンドン
[没]1707.12.1. ロンドン
イギリスの作曲家,オルガニスト。初め王室礼拝堂の聖歌隊歌手をつとめた。 1692年ウィンチェスター・カレッジ,95年セント・ポール大聖堂,1704年王室礼拝堂の各オルガニストに任命された。アンセン,オード,付随音楽,チェンバロなどの作品があるが,チェンバロ曲『デンマーク王子の行進曲』 (別名『トランペット・ボランタリー』) が有名。

クラーク
Clarke, Alexander Ross

[生]1828.12.16. サザンランドシャー
[没]1914.2.11.
イギリスの測地学者。簡単な三角測量の方法を考案し,1861年,イギリスで最初の測地学的調査の結果を刊行した。なお扁平楕円体としての地球の長径,短径を計算 (1866) ,のちに測地学,物理学国際連合でこの数値が採用された。著書『測地学』 Geodesy (80) は最もすぐれた測地学の教科書として多くの国で使用された。

クラーク
Clark, George Rogers

[生]1752.11.19. バージニア,シャーロッツビル
[没]1818.2.13. ケンタッキー,ルイビル近郊
アメリカ独立戦争期のバージニア民兵司令官。1774年ダンモア卿戦争に参加。独立戦争ではバージニア民兵を率い,アレガニー山脈の西部を転戦して戦功を立て,戦後は北西部の土地割当て業務やインディアンとの交渉にあたった。

クラーク
Clark, William Andrews

[生]1839.1.8. ペンシルバニア,コネルスビル
[没]1925.3.2. ニューヨーク
アメリカの産業資本家,政治家。 1863年以来コロラドおよびモンタナ地方で鉱山を経営。 99~1900年モンタナ州選出の連邦上院議員となったが選挙詐欺行為の疑いで告発された。上院調査委員会から合法性の結論を得たが辞職。 01~07年再度連邦上院議員。

クラーク
Clarke, John

[生]1609.10.8. サフォーク,ウエソープ
[没]1676.4.28. ロードアイランド,ニューポート
アメリカのバプテスト派牧師。 1637年イギリスからボストンに移住し,39年ロードアイランド植民地建設に参加。 51~64年イギリスでロードアイランドの立場を弁護し,その自由主義的な政治機構を維持して本国の干渉を防ぐことに努力した。

クラーク
Clarke, Edward Daniel

[生]1769.6.5. サセックス,ウィリングトン
[没]1822.3.9. ロンドン
イギリスの鉱物学者,旅行家。ヨーロッパから小アジアまで旅行し,鉱物や古代の遺物を収集,またその見聞録を刊行。最初のケンブリッジ大学鉱物学教授 (1808) 。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報