クリューガー(その他表記)Stephanus Johannes Paulus Kruger

デジタル大辞泉 「クリューガー」の意味・読み・例文・類語

クリューガー(Stephanus Johannes Paulus Krüger)

[1825~1904]南アフリカボーア人政治家。トランスバール共和国最後の大統領。在任1883~1899。英国の併合政策に抵抗して南ア戦争を起こしたが敗れ、スイスに亡命。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「クリューガー」の意味・読み・例文・類語

クリューガー

  1. ( Paulus Krüger パウルス━ ) 南アフリカの政治家。イギリストランスバール併合に抗して、独立を回復し、トランスバール共和国大統領に就任。南阿戦争にかかわる失政で辞職。スイスで客死した。(一八二五‐一九〇四

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「クリューガー」の意味・わかりやすい解説

クリューガー
Stephanus Johannes Paulus Kruger
生没年:1825-1904

南アフリカのトランスバール共和国の大統領。1825年ケープ植民地クラドック地方に生まれ,36年のグレート・トレックでトランスバールに移住した。教育はほとんど受けず,トレックの最中とその後のアフリカ人との戦いで鍛えられ,63年共和国軍最高司令官に任命された。77年のイギリスによる共和国併合に反対し,使節として2度渡英したが交渉は失敗した。しかし第1次ボーア戦争(1880-81)のマジュバの戦でイギリス軍に勝ち,共和国の独立を回復,83年大統領に選ばれた。86年トランスバールに金の富鉱が発見されると,ケープ植民地首相ローズはそれを手に入れるため,95年にジェームソン侵入事件を起こしたがこれを撃破した。その後チェンバレン英植民地相とミルナー・ケープ長官の苛酷な要求に対してついにイギリスと開戦した(第2次ボーア戦争。1899-1902)。1900年ボーア軍は窮状を訴えるためクリューガーをヨーロッパに亡命させたが,彼は敗戦後の04年スイスで客死した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「クリューガー」の意味・わかりやすい解説

クリューガー(Felix Emil Krüger)
くりゅーがー
Felix Emil Krüger
(1874―1948)

ドイツの心理学者。ポーゼン生まれ。実験心理学者のW・ブントのもとで助手および私講師をつとめた。1917年にブントがライプツィヒ大学を辞めたあと、研究室は精神物理学を研究する部門と民族心理学を研究する部門とに分かれたが、後者を主宰したのがクリューガーである。ベルリン学派のゲシュタルト心理学よりもっと広い立場から人間をとらえようとして、社会心理学、文化心理学、民族心理学などの見地を取り入れた。また感情的経験のもつ全体的な性質を重視して、子供の発達の根元を感情的な複合質に求め、これが個人および社会の心的存在に根本的な統一性を与えるものと考えて、のちにこれを構造と名づけた。彼の心理学は全体心理学とよばれ、その学派はライプツィヒ・ゲシュタルト学派とよばれることがある。

[宇津木保]


クリューガー(Stephanus Johannes Paulus Krüger)
くりゅーがー
Stephanus Johannes Paulus Krüger
(1825―1904)

南アフリカ、トランスバール共和国の最後の大統領(在位1883~99)。ケープ植民地ザウトパンスドリフトの農民の子として生まれ、グレート・トレック(内陸大移動)の際に両親とともにトランスバールに移動、定着した。第一次ブーア戦争(1880~81)ではトランスバールの代表としてロンドンに赴いた。1883年トランスバール共和国大統領に選出されたが、86年同国内での金の富鉱の発見とともにイギリスはふたたび同国の併合を企て、第二次ブーア戦争(1899~1902)を起こした。ブーア人はクリューガーを中心に団結して戦ったが敗れた。1900年、フランス、オランダの援軍を求めて国外に脱出したが、04年スイスで客死した。

[林 晃史]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「クリューガー」の意味・わかりやすい解説

クリューガー
Kruger, Stephanus Johannes Paulus

[生]1825.10.10. ケープ植民地
[没]1904.7.14. クラレンス
南アフリカのオランダ系移住民ボーア人の政治家。クリューゲルとも表記される。アフリカにおける絶頂期のイギリス帝国主義に抵抗したトランスバール大統領 (在任 1883~99) 。ボーア人農民の子として生れ,イギリスのケープ植民地支配を脱し,内陸部へ大移動してトランスバール共和国を建設したボーア人の間で次第に頭角を現し,1863年共和国の軍司令官に就任。 77年副大統領になったが,同年共和国はイギリスに併合され,80年反イギリス闘争の指導者となった。翌年イギリス軍に勝利を得て講和し,トランスバールの独立を回復し,83~99年まで大統領に4選された。 95年のジェームソン侵入事件以来圧迫を強めつつあったイギリスに対し,99年 10月最後通告を送り,ここに南アフリカ戦争 (ボーア戦争) が開始された。 1902年共和国はイギリスに併合され,クリューガーはオランダ,次いでスイスに亡命した。

クリューガー
Kreuger, Ivar

[生]1880.3.2. カルマル
[没]1932.3.12. パリ
スウェーデンの実業家。領事エルンスト・クリューガーの子として生れ,ストックホルムの王立工業大学で学んだ。アメリカにおいて財を築き,またスウェーデンのマッチ製造業を統合して国内のマッチ専売権を獲得し,巨大資本を蓄積して世界のマッチ王になった。彼の築いたクリューガー財閥を率いて,マッチの独占事業のほか,鉄鋼,パルプ,木材,建設などの事業に従事し,第1次世界大戦中および戦後,アメリカ,イギリス,ドイツ,フランスに多額の資本投下を行なった。 1929年の大恐慌に続く世界的不況により,クリューガー財閥の株は暴落し,その収拾に努力したが成功せず,パリで自殺した。

クリューガー
Krüger, Franz

[生]1797.9.3/10. ケーテン近郊グロースバーデガスト
[没]1857.1.21. ベルリン
ドイツの画家。ビーダーマイアー様式の代表的な作家の一人。ベルリン・アカデミーに学び (1812~14) ,のちに同校教授 (57) ,プロイセン宮廷画家となる。馬の表現にすぐれ「馬のクリューガー」の異名を得る。代表作『オーペルン広場のパレード』 (29,エルミタージュ美術館) 。

クリューガー
Crüger, Johannes

[生]1598.4.9. グロスブレーゼ
[没]1662.2.23. ベルリン
ドイツの作曲家,音楽理論家,オルガニスト。ウィッテンベルクで神学を研究,かたわら音楽を学ぶ。 1622年から生涯ベルリンの聖ニコライ教会のカントルをつとめた。数多い理論書を著わしたほか,ドイツ・プロテスタントのコラールの作曲家として傑出。モテト,マニフィカト,協奏曲などの作品がある。

クリューガー
Krueger, Felix Emil

[生]1874.8.10. ポーゼン(現ポズナン)
[没]1948.2.25. バーゼル
ドイツの心理学者。ライプチヒ大学教授,全体性心理学の主唱者。 W.ブントの創造的総合の原理に基づき,精神生活の全体性を重視し,これを発達的見地から体系化した。主著『感情の本質』 Das Wesen der Gefühle (1928) 。

クリューガー
Krüger, Gerhard

[生]1902.1.30. ベルリン
[没]1972.2.14.
ドイツの哲学者。テュービンゲン大学教授。主著"Das Kostenproblem der Rationalisierung im Maschinenbau"(1932),"Erfassung und Verrechnung vom Ausschuss" (59) 。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「クリューガー」の意味・わかりやすい解説

クリューガー

南アフリカに19世紀後半存続したトランスバール共和国(旧トランスバール州)大統領(1883年―1899年)。1864年トランスバール軍司令官となり,英国の併合政策に反対し,4度大統領に当選。ボーア戦争で諸国の援助を求めたが成功せず,スイスで客死。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者) 「クリューガー」の解説

クリューガー

シュトゥットガルト生れ。リントパイントナー(1791-1856)に師事し、ヴュルテンブルクの宮廷ピアニストとなる。1840年代半ばからパリに出て活躍。当時パリに集っていた音楽家たちと親交を結び、オペ ...続き

出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「クリューガー」の解説

クリューガー
Stephanus Johannes Paulus Kruger

1825~1904

トランスヴァール共和国の大統領(在任1883~1900)。1877年のイギリスによる共和国併合に反対し,交渉団の代表として渡英するが失敗。トランスヴァール独立戦争で勝利し,独立を回復した共和国の大統領に選出される。南アフリカ戦争後スイスで死亡。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

今日のキーワード

ベートーベンの「第九」

「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...

ベートーベンの「第九」の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android