ドイツの心理学者。現代心理学の土台を築いた一人。8月16日、バーデンに生まれる。ベルリン大学で生理学の父といわれる晩年のJ・ミュラーに学ぶ。1856年ハイデルベルク大学で医学の学位をとり、翌1857年生理学の私講師(1857~1864)、同教授(1864~1874)となる。その後長年にわたってライプツィヒ大学の教授(1875~1917)を務めた。ハイデルベルク大学では、大生理学者であるヘルムホルツの助手を務めたこともある。
ブントが現代心理学の祖といわれる第一の理由は、心理学を直接経験の科学(物理学は間接経験の科学)と定義して、少なくとも単純な精神現象(たとえば感覚)を実験室の中で実際に生起させ、それを研究する方法をとったからである。そのため、現代心理学の始めは、ライプツィヒ大学に世界最初の心理学実験室ができた1879年である、と考えられている。彼の心理学は、イギリスおよびドイツの哲学、また彼が専攻した生理学の影響を受け、その著『生理学的心理学原論』全3巻(1873~1874)にみられるように、フェヒナーの精神物理学を母体とする生理学的心理学であり、その目的は内観法によって意識内容を感覚、心像、感情の3要素に分析し、それらの要素の結合の法則を発見することであった。内観を行うのは観察者すなわち被験者であるから、心理学の研究者になるためには研究法や実験器具の使用法を修得するほかに、観察者としての訓練が必要であった。
彼の研究室には世界各地から多くの研究者が集まり、なかでもキュルペ、G・S・ホール、ティチナー、ミュンスターバーグ、クレペリンらが有名である。もっとも多く研究されたのは感覚や知覚であるが、連想、記憶、注意などの研究もあり、それらは機関誌『哲学研究』(のちには『心理学研究』と改題)に発表された。この実験室に倣って開設された世界中の実験室は、1900年までに70余に達し、そのうちアメリカのものが40を占めていた。
ただ、ブントは、思考など高次の精神活動は実験室では研究できないと考えており、別に『民族心理学』全10巻(1900~1920)を書いて、民族の言語、神話、宗教、芸術など社会心理学の領域でも大きな貢献を残した。しかし、彼が創始してティチナーに受け継がれた構成心理学は、要素主義、連合主義、内観主義などの点で、全体主義の心理学、ゲシュタルト心理学、行動主義の激しい攻撃を受けて姿を消したが、その後の心理学史にはブント再評価の動きがある。大正期までの日本の心理学は、ブント心理学の強い影響を受けていた。1920年8月31日、ライプツィヒ近郊で没。
[宇津木保]
『元良勇次郎・中島泰蔵訳『ヴント氏心理学概論』(1899・冨山房)』▽『須藤新吉著『ヴントの心理学』(1915・内田老鶴圃)』▽『桑田芳蔵著『ヴントの民族心理学』(1918・文明書院/増補版・1923・隆文館/1924・改造社)』
ドイツの哲学者で、W・ブントの子。ライプツィヒに生まれる。哲学と古典文献学を修め、イエナ大学教授、のちチュービンゲン大学教授。ドイツ観念論の系統に属し、その立場からのドイツ哲学構築を考え、『ドイツ哲学とその運命』(1920)などを著した。しかし彼の名を高めたのは、それまでカントを形而上(けいじじょう)学の否定者としてとらえるのが通念であったのに対して、彼を積極的に形而上学者として解釈し、カントにおいてドイツ形而上学の新しい局面の展開をみた点で、『形而上学者としてのカント』(1924)はその意味で著名である。また、哲学史家としても『ギリシア倫理学史』2巻(1908、1911)や『啓蒙(けいもう)時代のドイツ学校哲学』(1945)などを著した。
[武村泰男 2015年4月17日]
ドイツの心理学者,哲学者。実験心理学の創始者であり,近代心理学は彼とともに始まったとされる。最初は医学を志し,チュービンゲン,ハイデルベルク,ベルリンの各大学に学んだ。1857-64年ハイデルベルク大学生理学私講師,65-74年同員外教授。74年チューリヒ大学哲学教授。75年以降ライプチヒ大学教授。ハイデルベルクの私講師のころ,ヘルムホルツの下で生理学の助手を務めたが,関心は感覚生理学からしだいに心理学に移っていった。73-74年に全3巻の《生理学的心理学綱要》を著し,初めて実験心理学の基礎を確立。79年にはライプチヒに世界最初の心理学実験室を作り,以後そこで世界各地から集まった研究者に実験心理学の指導をした。そしてこの実験室での研究の成果を発表するために心理学雑誌《哲学研究》を創刊した。彼は心理学を直接経験の学であるとし,自己観察と実験を用いて意識を研究し,意識を究極的な心的要素としての純粋感覚と単一感情の結合によって説明しようとした。その立場は要素主義の色彩が強く,彼の心理学は構成心理学と呼ばれる。こうして彼は個人の単純な精神は生理学的心理学の研究対象としたのであるが,他方,人間の複雑高等な精神は文化や社会生活のうちに表現されるとして,それを民族心理学Völkerpsychologieが研究するものとした。そして1900年以降亡くなるまでの20年間,民族の言語,芸術,神話,宗教,法律,歴史を資料にして民族心理学の研究に没頭した。旺盛な研究心と比類ない努力によって膨大な著述を残したが,その主なものは,《感官知覚論》(1862),《人間と動物の精神に関する講義》(1863),《論理学》(1880-83),《倫理学》(1886),《心理学概論》(1896),《民族心理学》(1900-20),《哲学入門》(1901),《心理学入門》(1911)などである。
執筆者:児玉 憲典
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…学生党員は何の反省もなくすぐに平和路線に方針転換する党指導部への不信から虚脱状態になり,運動は急速に沈滞,各大学自治会の解体などがつづいた。 六全協による方向転換後,全学連などの学生運動を日常要求路線,身の回り主義へと指導しようとした共産党に対する反発は,全学連の共産党からの決別と,ブント(共産主義者同盟)の誕生(1958.12)をもたらすこととなった。ブントは59年6月の第14回大会で,日本トロツキスト連盟の改組によって生まれた革共同(革命的共産主義者同盟)から全学連の主導権を奪い,60年安保闘争(〈日米安全保障条約〉の項目を参照)で主導権を発揮した。…
…心理学の発達とともにその意味する内容は複雑多岐にわかれ一定していないが,狭義には厳密な実験的方法によって正常な成人の感覚,知覚,記憶,学習,思考,感情などにおける一般的傾向に関して,個人的行動と言語報告からえられた事実のみによって構成された心理学を意味する。このような態度はフェヒナーの《精神物理学要論》(1860)に端を発しているが(精神物理学),ブントが形を整えた。彼はライプチヒ大学に世界最初の正式な心理学実験室を開設し(1879),この用語を使用した。…
…この要素主義的精神観はデモクリトス=エピクロス的原子論の系統を引いている。連合心理学の要素主義と,精神内容を研究対象とする点は,1879年世界で初めて心理学実験室をつくったW.M.ブントに引き継がれた。ブントによれば,直接経験としての感覚,意志,感情などの要素を内観法によって把握し,それらの要素が構成されたものとして精神を研究するのが心理学であった。…
…心理主義ともいう。J.S.ミルやブント,T.リップスらがその代表者。この立場は,普遍妥当的な真理や価値の存在を否定して,相対主義に陥るため,新カント学派や現象学派(とくにフッサール)によって厳しく批判され,20世紀初頭に急速にその影響力を失った。…
…しかし色彩知覚や運動知覚のように対象とは独立に起こる知覚もあり,感覚との区別はあいまいである。 W.ブントやE.B.ティチナーなど構成心理学の人々は,要素的な純粋感覚を仮定し,その総和と,それと連合した心像(以前に経験した感覚の痕跡)を加えたものが知覚であると考えた。しかしM.ウェルトハイマーやW.ケーラーなどゲシュタルト心理学の人々は,知覚を要素的な感覚に分けることは不可能で,むしろ直接的に意識にのぼるのはつねに,あるまとまった知覚であると考えた。…
※「ブント」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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