ブント(読み)ぶんと(英語表記)Wilhelm Wundt

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブント」の意味・わかりやすい解説

ブント(Wilhelm Wundt)
ぶんと
Wilhelm Wundt
(1832―1920)

ドイツの心理学者。現代心理学の土台を築いた一人。8月16日、バーデンに生まれる。ベルリン大学生理学の父といわれる晩年のJ・ミュラーに学ぶ。1856年ハイデルベルク大学で医学の学位をとり、翌1857年生理学の私講師(1857~1864)、同教授(1864~1874)となる。その後長年にわたってライプツィヒ大学の教授(1875~1917)を務めた。ハイデルベルク大学では、大生理学者であるヘルムホルツの助手を務めたこともある。

 ブントが現代心理学の祖といわれる第一の理由は、心理学を直接経験の科学(物理学は間接経験の科学)と定義して、少なくとも単純な精神現象(たとえば感覚)を実験室の中で実際に生起させ、それを研究する方法をとったからである。そのため、現代心理学の始めは、ライプツィヒ大学に世界最初の心理学実験室ができた1879年である、と考えられている。彼の心理学は、イギリスおよびドイツの哲学、また彼が専攻した生理学の影響を受け、その著『生理学的心理学原論』全3巻(1873~1874)にみられるように、フェヒナーの精神物理学を母体とする生理学的心理学であり、その目的は内観法によって意識内容を感覚、心像、感情の3要素に分析し、それらの要素の結合の法則を発見することであった。内観を行うのは観察者すなわち被験者であるから、心理学の研究者になるためには研究法や実験器具の使用法を修得するほかに、観察者としての訓練が必要であった。

 彼の研究室には世界各地から多くの研究者が集まり、なかでもキュルペ、G・S・ホール、ティチナーミュンスターバーグクレペリンらが有名である。もっとも多く研究されたのは感覚や知覚であるが、連想、記憶、注意などの研究もあり、それらは機関誌『哲学研究』(のちには『心理学研究』と改題)に発表された。この実験室に倣って開設された世界中の実験室は、1900年までに70余に達し、そのうちアメリカのものが40を占めていた。

 ただ、ブントは、思考など高次の精神活動は実験室では研究できないと考えており、別に『民族心理学』全10巻(1900~1920)を書いて、民族の言語、神話、宗教、芸術など社会心理学の領域でも大きな貢献を残した。しかし、彼が創始してティチナーに受け継がれた構成心理学は、要素主義、連合主義、内観主義などの点で、全体主義の心理学、ゲシュタルト心理学、行動主義の激しい攻撃を受けて姿を消したが、その後の心理学史にはブント再評価の動きがある。大正期までの日本の心理学は、ブント心理学の強い影響を受けていた。1920年8月31日、ライプツィヒ近郊で没。

[宇津木保]

『元良勇次郎・中島泰蔵訳『ヴント氏心理学概論』(1899・冨山房)』『須藤新吉著『ヴントの心理学』(1915・内田老鶴圃)』『桑田芳蔵著『ヴントの民族心理学』(1918・文明書院/増補版・1923・隆文館/1924・改造社)』


ブント(Max Wundt)
ぶんと
Max Wundt
(1879―1963)

ドイツの哲学者で、W・ブントの子。ライプツィヒに生まれる。哲学と古典文献学を修め、イエナ大学教授、のちチュービンゲン大学教授。ドイツ観念論系統に属し、その立場からのドイツ哲学構築を考え、『ドイツ哲学とその運命』(1920)などを著した。しかし彼の名を高めたのは、それまでカント形而上(けいじじょう)学の否定者としてとらえるのが通念であったのに対して、彼を積極的に形而上学者として解釈し、カントにおいてドイツ形而上学の新しい局面の展開をみた点で、『形而上学者としてのカント』(1924)はその意味で著名である。また、哲学史家としても『ギリシア倫理学史』2巻(1908、1911)や『啓蒙(けいもう)時代のドイツ学校哲学』(1945)などを著した。

[武村泰男 2015年4月17日]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ブント」の意味・わかりやすい解説

ブント
Wundt, Wilhelm

[生]1832.8.16. バーデン,マンハイム近郊ネッカラウ
[没]1920.8.31. ライプチヒ近郊グロースボーテン
ドイツの心理学者,哲学者。ハイデルベルク大学,チューリヒ大学教授を経て,ライプチヒ大学教授。ベルリン大学時代には J.P.ミュラー,ハイデルベルク大学時代には W.ヘルムホルツのもとで生理学を研究。 1879年ライプチヒ大学に世界で最初の心理学実験室を創設,諸外国からも多数の学者が集り,感覚,反応時間,精神物理学,連想などの研究がなされ,世界の心理学界をリードした。晩年には,論理学,倫理学,哲学の領域にまで視野を広げ,心理学の領域でも複雑な精神現象の法則は実験的生理的心理学では取扱いえないとして,民族心理学の存立を主張した。主著『哲学体系』 System der Philosophie (1889) ,『心理学原論』 Grundriss der Psychologie (96) ,『民族心理学』 Völkerpsychologie (10巻,1900~20) (→構成心理学 , 統覚心理学 ) 。

ブント

日本の新左翼党派の一つ。正称は共産主義者同盟。ブントはドイツ語名コミュニスティッシャー・ブント Kommunistischer Bundの略。1955年,日本共産党が武装闘争放棄を宣言すると,傘下の全日本学生自治会総連合(全学連)は,党指導部の方針に不満をもつ主流派と,指導部に従う反主流派に分かれて激しく対立した。党を除名された学生党員らは 1958年,新しい革命運動を目指して共産主義者同盟(共産同)を結成,1959年に全学連の指導権を握り,1960年の安保闘争(→安保改定問題)を主導した。しかし,安保闘争後期に多くの幹部が逮捕・勾留されて組織は弱体化し,さらに闘争敗北後の総括をめぐって分裂,解体に向かった。その後,革命的共産主義者同盟(革共同)全国委員会に多数が移る一方,日本赤軍の母体となった赤軍派,浅間山荘事件を起こした連合赤軍などが誕生した。(→ニュー・レフト

ブント
Bund

ロシア,ポーランド,リトアニア (リトワ) におけるユダヤ人の社会主義政党。「ユダヤ社会主義労働党」の通称で,ドイツ語で「同盟」を意味する。 1897年ウィルノ (ビリニュス) に非合法政党として創設された。約3万人のメンバーを有し,1905年と 17年のロシア革命では重要な役割を演じた。 1898年ロシア社会民主労働党の第1回大会に独立の組織として参加したが,レーニンの中央集権的党組織論に反対して 1903年脱党。 06年復帰後はメンシェビキ的傾向をもっていたが,20年の第 12回大会で分裂し,多数派は共産党に加入する方針を支持したが,R.アブラモービッチに率いられる少数派は社会・民主ブントを結成。しかしまもなくボルシェビキのテロで壊滅した。ポーランドでは第1,2次世界大戦間に勢力を回復したが,ナチスによって滅ぼされた。

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