アフリカ最南端にあったオランダの,次いでイギリスの植民地。(1)オランダ東インド会社統治期(1652-1806) 1652年オランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベークは東洋航路の中継基地としてテーブル湾に上陸した。その後会社は社員の一部(ブルヘルと呼ばれた)を解雇して農業を営ませ,また労働力としてジャワ方面から奴隷を輸入して白人入植社会を形成していった。さらに本国からの移民を奨励し,17世紀末には多数のユグノー(フランスから追われたカルバン派の新教徒)が移住した。ケープでの人口増加とともに入植者は後背地に新しい土地を求めて移動し,原住民アフリカ人と衝突したが,強力な火器をもつ入植者は原住民に勝ち,1778年にはサンデーズ川が東部国境となった。ナポレオン戦争中イギリスは海軍を派遣してケープを占領したが,アミアンの和約によって1803年にオランダ(バタビア共和国)に返還した。しかし同年再びヨーロッパで英仏が開戦し,イギリスはフランスと同盟したオランダの制海権を抑えるため,06年ケープを占領した。(2)イギリス植民地期(1806-1910) 1814年のウィーン会議で正式にイギリス植民地となったケープでは,総督を置いて従来のオランダ式制度をイギリス式に改革したが,オランダ人入植者の信仰の自由を許すなど融和政策をとった。さらに34年には総督の下に立法・司法・行政の三権分立が確立された。一方,入植者の増加とともに東部国境は拡大され,1820年にはグレート・フィッシュ川,34年にはケイスカンマ川に達した(この間の入植者とアフリカ人との一連の戦いをカフィル戦争と呼ぶ)。しかし1833年の奴隷解放によって奴隷労働に依存してきたオランダ人農民(ボーア)は打撃を受け,イギリスの支配を脱して35年から内陸への移動を開始し(グレート・トレック),トランスバール共和国とオレンジ自由国を建国した。一方,ケープ植民地は42年ナタール共和国に軍隊を送って占領し,45年植民地化した。第2次ボーア戦争(1899-1902)でボーア人の二つの共和国は敗北し,1910年ケープ,ナタール,トランスバール,オレンジ自由国は合併して南アフリカ連邦となった。
執筆者:林 晃史
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
1910年の南アフリカ連邦(現南アフリカ共和国)結成以前の南アフリカにおけるイギリス植民地。イギリスはオランダ東インド会社領のケープを第一次(1795)、第二次(1806)の二度の占領の結果、1814年正式にイギリス植民地とした。イギリスは総督を派遣し、その下で行政・立法審議会を置いて統治したため、35年イギリス支配を嫌うブーア人(オランダ系移民)のグレート・トレック(内陸大移動)を引き起こした。入植者が増えるにつれてカフィール戦争など東部・北部フロンティア(国境)の拡大が行われた。しかし自由貿易主義を堅持する当時のイギリス本国政府は植民地の拡大を望まず、植民地経済は喜望峰回りの船の寄港地としての意義のほか羊毛の輸出によっていた。67年内陸のオレンジ自由国のグリクァランド・ウェストでダイヤモンド富鉱が発見されるとただちにこれを併合(1871)、またトランスバールの金鉱の発見後、第二次ブーア戦争(1899~1902)を起こし、イギリスの勝利後の1910年南アフリカ連邦を結成し、ケープ植民地はその一州に組み込まれた。
[林 晃史]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
アフリカ大陸南端の先住民はコイコイ人牧畜民であった。1652年オランダ東インド会社が補給基地(のちのケープタウン)を築き,やがてオランダ人中心の入植者社会が形成された。イギリスがナポレオン戦争の一環にこれを占領し,1806年(正式には14年)植民地にした。1910年南アフリカ連邦の発足時に州となる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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