ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「クリューガー」の解説
クリューガー
Kruger, Stephanus Johannes Paulus
[没]1904.7.14. クラレンス
南アフリカのオランダ系移住民ボーア人の政治家。クリューゲルとも表記される。アフリカにおける絶頂期のイギリス帝国主義に抵抗したトランスバール大統領 (在任 1883~99) 。ボーア人農民の子として生れ,イギリスのケープ植民地支配を脱し,内陸部へ大移動してトランスバール共和国を建設したボーア人の間で次第に頭角を現し,1863年共和国の軍司令官に就任。 77年副大統領になったが,同年共和国はイギリスに併合され,80年反イギリス闘争の指導者となった。翌年イギリス軍に勝利を得て講和し,トランスバールの独立を回復し,83~99年まで大統領に4選された。 95年のジェームソン侵入事件以来圧迫を強めつつあったイギリスに対し,99年 10月最後通告を送り,ここに南アフリカ戦争 (ボーア戦争) が開始された。 1902年共和国はイギリスに併合され,クリューガーはオランダ,次いでスイスに亡命した。
クリューガー
Kreuger, Ivar
[没]1932.3.12. パリ
スウェーデンの実業家。領事エルンスト・クリューガーの子として生れ,ストックホルムの王立工業大学で学んだ。アメリカにおいて財を築き,またスウェーデンのマッチ製造業を統合して国内のマッチ専売権を獲得し,巨大資本を蓄積して世界のマッチ王になった。彼の築いたクリューガー財閥を率いて,マッチの独占事業のほか,鉄鋼,パルプ,木材,建設などの事業に従事し,第1次世界大戦中および戦後,アメリカ,イギリス,ドイツ,フランスに多額の資本投下を行なった。 1929年の大恐慌に続く世界的不況により,クリューガー財閥の株は暴落し,その収拾に努力したが成功せず,パリで自殺した。
クリューガー
Krüger, Franz
[没]1857.1.21. ベルリン
ドイツの画家。ビーダーマイアー様式の代表的な作家の一人。ベルリン・アカデミーに学び (1812~14) ,のちに同校教授 (57) ,プロイセンの宮廷画家となる。馬の表現にすぐれ「馬のクリューガー」の異名を得る。代表作『オーペルン広場のパレード』 (29,エルミタージュ美術館) 。
クリューガー
Crüger, Johannes
[没]1662.2.23. ベルリン
ドイツの作曲家,音楽理論家,オルガニスト。ウィッテンベルクで神学を研究,かたわら音楽を学ぶ。 1622年から生涯ベルリンの聖ニコライ教会のカントルをつとめた。数多い理論書を著わしたほか,ドイツ・プロテスタントのコラールの作曲家として傑出。モテト,マニフィカト,協奏曲などの作品がある。
クリューガー
Krueger, Felix Emil
[没]1948.2.25. バーゼル
ドイツの心理学者。ライプチヒ大学教授,全体性心理学の主唱者。 W.ブントの創造的総合の原理に基づき,精神生活の全体性を重視し,これを発達的見地から体系化した。主著『感情の本質』 Das Wesen der Gefühle (1928) 。
クリューガー
Krüger, Gerhard
[没]1972.2.14.
ドイツの哲学者。テュービンゲン大学教授。主著"Das Kostenproblem der Rationalisierung im Maschinenbau"(1932),"Erfassung und Verrechnung vom Ausschuss" (59) 。
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