アメリカのポピュラー音楽の歴史に最大の足跡を残した歌手。本名Harry Lillis C.。生年に関しては1904年など諸説があるが現段階では1903年に最も信憑性があるとされている。ワシントン州タコマの生れで,アル・リンカーと二重唱をしていたが,26年に人気バンド,ポール・ホワイトマン楽団の専属歌手となって人気が出た。31年,ソロ歌手となり,ラジオ放送とレコードで不況時代のアメリカ人の心をつかんだ。柔らかで明るいバリトンで,なめらかな節回しで歌いながらもリズム感覚にジャズのフィーリングをもっているのが彼の特徴で,数多くの後輩歌手たちに多大の影響を与えた。42年に録音した《ホワイト・クリスマス》は世界で最大の売上げ枚数を記録した。
執筆者:中村 とうよう
すでに1920年代にポール・ホワイトマン楽団と出演した数本の短編映画がある。長編映画出演は,30年のユニバーサル映画《キング・オブ・ジャズ》が最初だが,32年のパラマウントとの契約第1作《ラジオは笑う》で早くもスターの座を獲得した。この間のラジオ番組での人気が,映画と結びついたといわれる。さらに,ボブ・ホープとの絶妙なコンビによる〈珍道中シリーズ〉(1941年の《シンガポール珍道中》が第1作)など,喜劇的演技をはじめ,当初の歌うスターから芸域を拡大,型破りの神父役でアカデミー主演男優賞を獲得した《我が道を往く》(レオ・マッケリー監督作品。1944),グレース・ケリーと共演したクリフォード・オデッツの舞台劇による《喝采》(ジョージ・シートン監督作品。1954)等で,演技者としての名声も得て,50年代半ばまで連続してマネーメーキング・スターのベストテン入りを果たした。その演技の幅は,大恐慌から第2次大戦をへて戦後の繁栄期にいたるアメリカの中産階級の楽天的な〈夢と良心と良識〉の範囲を示しているといえよう。
執筆者:宇田川 幸洋
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アメリカのポピュラー歌手、俳優。本名ハリー・リリス・クロスビー。ワシントン州生まれ。1926年ポール・ホワイトマン楽団に参加し、リズム・ボーイズというボーカル・トリオを組んで注目され、31年に独立。ラジオ、レコード、映画に活躍し、他界するまでアメリカを代表する大スターの地位を保持した。もっとも早くマイクロホンの活用法を会得し、自然な発声とジャズのセンスで新しいスタイルを創造し、フランク・シナトラほか多くの歌手に影響を与え、現代ポピュラー・ボーカルの基盤となった。白人ジャズ歌手の草分け。映画出演は1930年からであるが、40年代にはボブ・ホープ、ドロシー・ラムーアDorothy Lamour(1914―96)とのトリオによる『アラスカ珍道中』(1945)などの「珍道中」シリーズで絶大な人気を集め、『我が道を往(ゆ)く』(1944)ではアカデミー主演男優賞を受賞した。また『スイング・ホテル』(1942)で創唱した『ホワイト・クリスマス』は彼の最大ヒットで、いまもシーズンともなれば全世界で愛唱されている。
[青木 啓]
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…ロイドから曲技をさし引いたようなその個性と,各国のなまりをあしらった早口ソングの芸をもっともよく生かしたのが《虹を摑む男》(1947)である。1930年代の終りに映画デビューをしたボブ・ホープは,日本では《腰抜け》のシリーズ名を冠された単独主演の諸作品よりも,人気歌手ビング・クロスビーとのコンビによる《珍道中》シリーズで個性を発揮した。当時,〈スタンダップ・コミック〉(日本でいう漫談)の第一人者であるホープの舌先三寸の芸は,二枚目の相棒クロスビーをジョークでからかいつつも,そのクロスビーにしてやられては悔しがるというパターンの中で,もっともはつらつとした。…
…1930年代に現れた,あるタイプのポピュラー歌手を指す言葉。B.クロスビーがその代表で,ちょっと鼻にかかった柔らかい声と,ジャズから学んだ節まわしを特徴とした。それまでの歌手たちが,張った声でメロディをストレートに歌っていたのに対して,しゃれた軽快な感じが大いに受けた。…
…人気歌手ビング・クロスビーと喜劇俳優ボブ・ホープとグラマー女優ドロシー・ラムーアのトリオが主役のアメリカのナンセンス喜劇シリーズ。《シンガポール珍道中》(1941)から《ミサイル珍道中》(1962)まで計7本製作された。…
…いずれも黒人が白人から学び取った音楽技法や楽器を,彼ら独自の感覚に消化して生み出した混血音楽であるが,とくに黒人底辺層の民族音楽の要素を強くもったブルースが,その後も黒人の生活感覚に密着しつづけていったのに対し,ヨーロッパ的な音楽要素を多分に取り入れたラグタイムとジャズは,ただちにメーンストリーム音楽との接触が生じて,ティン・パン・アリーから,例えば1911年にバーリン作の《アレクサンダーズ・ラグタイム・バンドAlexander's Ragtime Band》といった大ヒット曲が生み出される一方で,ジャズでもティン・パン・アリー製の曲を素材として盛んに取り上げた。1930年代初めには,ジャズの感覚を吸収した歌手B.クロスビーが,メーンストリーム音楽で最高の人気を占め,ポピュラー・シンガーがジャズ風の楽団を伴奏にして歌うのはごくありふれたこととなり,社交ダンスの音楽にもジャズの要素が大幅に取り入れられた。 それとともに,1910年代にはハワイ音楽やアルゼンチンのタンゴ,30年代にはキューバのルンバとコンガ,40年代にはメキシコやブラジルのいくつかの曲,50年代にはキューバのマンボが輸入され,音楽業界だけでなくハリウッドの映画産業をも含めて,アメリカの大衆文化に刺激を与えた。…
※「クロスビー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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