翻訳|Christmas
( 1 )日本ではキリスト教再渡来の頃の安政三年(一八五六)に始まったといわれる。英米語の「クリスマス」は明治初年からで、それまではポルトガル外来語の「ナタル」であった。
( 2 )「降誕祭」とも訳されるが、降誕の語は神仏・君主はじめ広く用いられるため、意味の衝突を回避するため、原語が普及したと考えられる。
( 3 )なお、一二月二五日とするのはローマ‐カトリック教会とプロテスタント教会で、ギリシア正教会では一月七日、アルメニア教会では一月一九日に祝う。
イエス・キリストの降誕記念日。クリスマスは英語でキリストChristのミサmassの意味。〈Xmas〉と書く場合のXは,ギリシア語のキリスト(クリストス)ΧΡΙΣΤΟΣの第1字を用いた書き方である。フランスではノエルNoël,イタリアではナターレNatale,ドイツではワイナハテンWeihnachtenという。また,12月25日を〈クリスマス・デー〉,その前夜を〈クリスマス・イブ〉,クリスマスから公現祭(1月6日)の前日(ときには1月13日または聖燭節=2月2日)までを〈降誕節Christmastide〉と呼んでいる。
新約聖書にはマリアの処女懐胎に始まるキリストの誕生について記されている(《マタイによる福音書》1:18~25,《ルカによる福音書》1:26~38など)。しかし,その日がいつかということは語られていない。このため,初期キリスト教徒は1月1日,1月6日,3月27日などにキリストの降誕を祝したが,教会としてクリスマスを祝うことはなかった。3世紀の神学者オリゲネスはクリスマスを定めることは異教的であると非難している。クリスマスが12月25日に固定され,本格的に祝われるようになるのは教皇ユリウス1世(在位337-352)のときであり,同世紀末にはキリスト教国全体でこの日にクリスマスを祝うようになった。長い議論の末,クリスマスが12月25日に固定されたのは初期教会の教父たちの体験と英知とによるものであった。
一般に,この時期に大きな祭りを行うことは古い時代の社会の慣習であった。なかでも揺籃期のキリスト教会が改宗を願っていたローマ人やゲルマン人の間には,冬至の祭が盛大に行われていた。納屋には収穫した穀物がたっぷりと積まれている。牧草の欠乏する冬をひかえて屠殺した家畜の肉も十分に貯蔵されている。1年のはげしい労働から解放され,何となく心豊かなこのとき,人々はやがて訪れる食糧不足のときを忘れ,飲みかつ食らう盛大な祭りを行った。生命の恵みを与える太陽の力を弱め,冬をもたらす自然の怒りをやわらげるために,人々は犠牲を捧げ,豊作・豊穣を祈って火をたいた。大方の草木の枯れるときになお緑を保つ常緑樹は永遠の生命の象徴として飾られた。ゲルマン人の冬至の祭ユールについて詳しいことはわからないが,ローマ人の冬至の祭については詳細な記録が文学・絵画・彫刻などに残っている。12月25日はローマの冬至の当日であった。その日は〈征服されることなき太陽の誕生日〉として,3~4世紀のローマに普及していたミトラス教の重要な祭日であった。12月17日から24日まではサトゥルナリアと呼ばれる農耕神サトゥルヌスの祭が行われていた。この期間,家々にはあかあかと火がともされ,常緑樹が飾られた。贈物が交換され,男たちは女の衣服や獣皮などをまとい,ふだん禁止されていたかけ事に興じた。主人と奴隷が席を交換するどんちゃん騒ぎも行われた。
このようなローマのサトゥルナリアとゲルマンのユールの祭の時期がイエスの降誕を祝うクリスマスとして選ばれた。教会は既存の祭日をできるかぎり利用することを考えていたからである。とくに,ミトラス教はキリスト教の強敵であった。コンスタンティヌス1世はこれよりさき,類似点の多いミトラス教との習合を考え,321年には毎週の休日を〈太陽の日dies solis=sun day〉と呼ぶことに決めた。クリスマスについても教会の同一の方針をみることができる。その上,当時,キリスト教徒の間にもイエスをこの世の光,太陽と考える習慣があった。ミラノ司教アンブロシウスは〈わが主イエスの降誕したこの聖なる日を“太陽の誕生日”と呼ぼう〉と述べている。クリスマスがいつごろから祝われたかは不明である。初期の東方教会の人々は公現祭をキリスト受洗の日,その神性顕示の日として祝った。彼らはアリウス派の人々で,イエスの受洗を重視し,降誕には意味を認めない人々であった。降誕のときからイエスの神性を信じる正統派キリスト教徒は彼らを異端と考えた。325年のニカエア公会議の異端宣告とほぼ同時期に,西方教会がクリスマスを12月25日に定めたのは異端との区別を明確にするためでもあったかもしれない。ともかく,ローマでクリスマスが12月25日に祝われたのは336年以前であったことはほぼ確実である。この日が決定するまでにさまざまな意見が出された。たとえば,12月末,イエスの生まれたパレスティナ地方は雨季にあたり,羊飼いは野に出ていない。この時期に人口調査が行われた(《ルカによる福音書》2:1~3)証跡はない。学者たちは別の根拠からクリスマスを推定しようとしたが,いずれの見解も十分に説得的ではなかった。こうしてクリスマスは固定された。数世紀の間,異教の慣習はなお強く残り,教会はこれを懸念しながらも,キリスト教の教義と明確に矛盾しないかぎりこれを根絶することなく,同化・習合の方針をとった。以下,イギリスを例として,今日にいたるクリスマスの変遷を鳥瞰しよう。
597年,カンタベリーのアウグスティヌスがイギリス伝道を開始したとき,クリスマスはローマ教会の三大祝日の一つとなっていた。彼は翌年のクリスマスに1万人以上のアングロ・サクソン人に洗礼を施したという。約1世紀後,ベーダはこの日がもと〈母たちの夜〉と呼ばれ,母なる女神の祝日だったと述べている。人々は改宗してもなお,寛大な教会の慈悲により,罪のない異教の祭りをたのしんでいたのである。彼らは常緑樹を飾り,ユールの丸太を燃やし,仮面劇やまじない歌を誦し,踊りに興じた。このようにして,イギリスのクリスマスはユールと降誕節の習合として成立し,アングロ・サクソン暦はこの日から新年を数えることとなった。この慣習は中世末まで残った。アルフレッド大王はクリスマスから公現祭までを聖なる期間と定め,労働を禁じた。王が878年デーン人に一時敗退したのはこのためであるといわれている。なお,上記の期間が聖なる期間と定められたのは567年のトゥールの公会議においてである。アングロ・サクソン人のキリスト教化はデーン人の侵寇により遅滞ないし後退したが,〈ノルマン・コンクエスト〉までにはほぼ完成した。〈クリスマス〉という用語は《アングロ・サクソン年代記》の1043年の項で初めて使用されている。それ以前は〈冬至祭〉または降誕を意味するNativityの語が使用されている。
ヘンリー8世,エリザベス1世の時代にもクリスマスはイングランド教会(アングリカン・チャーチ)の三大祝日の一つとして祝われた。当時の文学作品などによると,クリスマスは神に感謝を捧げるとき,正真正銘の喜びのとき,友人・親戚との旧交を温め,貧しい隣人を歓待するときであった。この時代は宮廷生活の華やかさに比し,地方では貧富の差が激化し,過去の人間関係のきずなが破綻しはじめた時代であった。クリスマスは貧しい隣人を歓待するようにという文言が著述家たちによってとくに強調されている。エリザベス1世,ジェームズ1世は故郷の人々を歓待するようにと,クリスマスには廷臣たちを帰省させた。地方自治体は貴族・ジェントリーにこの歓待を義務づけた。とくに凶作の年にはそれが地方の治安維持にとって重大な役割を果たした。1627年のクリスマスに,枢密院はロンドン主教に対して,イギリスに亡命してきたフランスの新教徒救済のため,主教区全体から寄付金を集めるように命じ,古きよき時代のクリスマス精神を懇請した。
王党派とイングランド教会は楽しい伝統的慣習を象徴する日としてクリスマスを祝った。しかし,謹厳なピューリタンはこの日をローマ・カトリックの祝日として非難し,暴飲暴食,ダンス,かけ事,乱ちき騒ぎその他諸悪に結びつく祭日として攻撃した。すでに《諸悪の解剖》(1583)の著者P.スタッブズは劇場・演劇を誹謗し,仮面劇を装って盗み,売淫,殺人などがクリスマスほど横行する時期はないと記した。17世紀のあるピューリタンは〈クリスマスは主イエスの降誕を祝う日ではなく,バッカス神の祭りである。異教徒はこれを見て,イエスは貪食な享楽主義者,大酒飲み,悪魔の友人と思うだろう〉と嘆いた。穏健派はゆきすぎを是正するにとどめるつもりだった。長期議会もクリスマスに干渉する気はなかった。ところが,1644年,彼らはスコットランドの長老派教会の圧力によって態度決定を迫られたのである。長老派は1583年,スコットランドでクリスマスを完全に禁止した。その後王の命令によって一時復活したが,再びクリスマスを禁止した。議会派の指導者たちは長老派のクリスマス禁止の要求をイングランドで実施することを拒んだが,ついに屈服した。それは議会派の支配する地域でのみ効果を収めた。1647年,議会派はクリスマス禁止法案を可決しようとした。このとき,これに反対する暴動が各地に起こり,ついに家庭でのクリスマスを認めざるをえなくなった。
クリスマスは再び教会の三大祝日の一つとなり,人々はこれを自由に祝うことができるようになった。しかし,社会経済上の変化はかつて田舎の地主邸で繰り広げられた伝統的クリスマスの相貌を変え,素朴な人々のどんちゃん騒ぎも廃れ,宗教心も薄れていくことになった。この変化はゆっくりと,かつ不均等に進行した。クリスマス休日が制定され,大学,学校,裁判所,議会はクリスマスから公現祭までを休日とし,官公庁はこの期間の数日を,多忙な部署はその一部を休日とした。一部の人々は聖燭祭(2月2日)までをクリスマスと考えた。19世紀になると,産業革命の余波をうけ,労働条件はきわめて過酷となり,クリスマス休日は当日だけとなった。クリスマスは富裕な家庭では華やかに祝われたが,一般にはこれを祝う費用のない人々が増大し,クリスマスはいよいよ死滅するかに見えた。
19世紀中葉,クリスマスが蘇生した。それはチャーチスト運動の時代であり,大英帝国の威光がもっとも拡大された時期であった。新しいクリスマスでは隣人愛,慈善が重視され,宗教心の復活による宗教的側面の補正が行われ,その上に古い時代のにぎやかな祭りの慣習が輝きを添えた。とくに,クリスマスが子どもを中心とする家族の祭りとなったことがこの時代の特徴である。クリスマス・ツリー,サンタ・クロース,クリスマス・カードが導入され,クリスマス・キャロルが復活し,クリスマス・プレゼントやクリスマス正餐(ディナー)が庶民の家庭に進出した。今日のクリスマスはこのときから始まった。新しいクリスマスの成立に大きく寄与したのはビクトリア女王の夫君アルバート公とC.ディケンズである。アルバート公はドイツからクリスマス・ツリーの習慣をウィンザー城の家庭クリスマスにもちこみ,ディケンズは《クリスマス・キャロル》をはじめいくつかの文学作品を公刊し,クリスマスの楽しさ,陽気さを伝え,同時に,クリスマスのあるべき姿,物質的楽しみを享受するために果たさねばならない慈善などの義務を教えた。新しいクリスマスは急速に浸透し,空論家や反対論者も認めざるをえなくなった。非国教徒も子どもたちが友人仲間の楽しみの輪に入るのを抑止できなくなった。彼らの礼拝堂の一部は会員が国教会に流れ始めたのを見てクリスマス礼拝を開始した。こうして非国教徒の態度も軟化し,イギリス国民が新しいクリスマスを祝うようになった。こうした趨勢に応じて,短縮されていたクリスマス休日もボクシング・デーBoxing Day(クリスマスの翌日で,この日に使用人や郵便配達人などに祝儀の贈物を与える)まで延長されるようになった。それは銀行,官庁のみならず,19世紀末までには一般の商工業従事者にも拡大された。ここにみんなで祝う楽しいクリスマスが成立したのである。
クリスマスの風習は明治以降に広まる。教会や在日外国人の手を離れ,初めて日本人によって祝われるのは,1875年ころ,原胤昭が設立した銀座の原女学校においてであったといわれる。明治10年代には丸善がクリスマス用品を輸入し,このころから大正期にかけて,クリスマスはしだいに一般家庭でも祝われるようになった。また,クリスマスの語は俳句の季題にもとり入れられ,正岡子規にも〈クリスマスの小き会堂のあはれなる〉の句がある。クリスマスの風習は日本人の生活に定着していくが,宗教的側面が軽んじられたり,商店の歳末売出しに利用される傾向も強まっていく。
執筆者:三好 洋子
キリスト教の聖節としてのクリスマスは,一年間の教会暦を通じて,もっとも豊かな音楽に装われる。民衆的なクリスマスの音楽は,古くからキャロルcarol(英・米の呼び方。フランスではノエルnoël,ドイツではクリスマスのリートWeihnachtsliedと呼ぶ)として親まれている。北欧諸国ではクリスマスの音楽は主として室内の催しであるが,南欧諸国では屋外に厩舎の聖母子像をあらわす祭壇を設け,その祭壇に向かって音楽を捧げる風習が古くからあった。南イタリアから起こった抒情的な牧笛の音楽シチリアーノsiciliano(6/8または12/8拍子の舞曲)はその典型的な例で,バロック時代を通じて作曲された数多くのクリスマス協奏曲(コレリ,トレリ,マンフレディーニF.O.Manfredini(1684-1762)等)にはきまってシチリアーノの楽章が含まれている。ヘンデルの《メサイア》の降誕の場面に現れる〈ピファ〉(パストラル・シンフォニー)もその一例である。フランスでは,ノエルの旋律によるミサ曲やオルガン変奏曲等も数多く作曲された。
教会内部での聖節としてのクリスマスの儀式は,12月24日の夕べの礼拝(晩課)から始まる。そこで音楽的に重要な役割を果たすのはマニフィカトで,パレストリーナやバッハに名作がある。カトリックの教会では,12月25日の午前零時から第1ミサ(深夜ミサ),第2ミサ(早朝のミサ),第3ミサ(日中のミサ)と,三つのミサが挙げられる。これらのミサはグレゴリオ聖歌で歌われることもあるが,とくに深夜ミサはキャロルやノエルの旋律をちりばめて民衆的な喜びのうちに執行されることが多い。プロテスタントの教会でも深夜の礼拝のほか,クリスマスのシーズンを通じて特別に作曲された作品や賛美歌,オルガン曲が演奏される。とくに有名なのは,壮大な規模をもつバッハの《クリスマス・オラトリオ》である。
クリスマスの音楽には,ルネサンスや中世にまでさかのぼる古曲が多い。比較的新しい作品で全世界に愛唱されているのは,19世紀のグルーバーFranz Xaver Gruber(1787-1863)作曲の《きよしこの夜》である。また,アメリカや日本では,《ジングル・ベル》《ホワイト・クリスマス》などが,広く親しまれている。20世紀の芸術的な楽曲としては,イギリスのブリテンによる《キャロルの祭典》やアメリカのメノッティによるオペラ《アマールと夜の訪問者》などがある。
→クリスマス・キャロル
執筆者:服部 幸三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イエス・キリストの誕生を記念する祝日。降誕祭ともいう。ことばの意味は「キリスト礼拝」である。初期の信徒の関心は、キリストの死と復活のできごとを宣教することに集中していたので、受肉(誕生)の日付の問題は空想的であったし、四つの福音書(ふくいんしょ)には誕生の日付の記述はない。コンスタンティヌス大帝は政治的判断から、キリスト教徒の礼拝日「主の日」を、ミトラス教徒の太陽崇拝の日と結合して、321年に公式に週1回の休日を決定し、役人の休日にした。ニカイア公会議(325)でキリスト論に関する教義が整理され、キリストの誕生の神学的位置づけが確定されると、ミトラス教の祝日Natalis Solis Invicti(不滅の太陽の生誕日)である12月25日がキリストの誕生日として解釈され制度化された。救主(すくいぬし)は「義の太陽」として預言されていたので(「マラキ書」4章2)、好都合な解釈が成立した。そして、たき火をたき、キャンドルをともし、祭儀的競技が催されるゲルマンの冬至の祭りやローマの農耕神の祭りの形式の一部は、キリスト教徒に受容され、電気を照明に用いる現代でも不便なキャンドルを伝統的にたいせつにする。それは、光(神の子)が闇(やみ)(世界)のなかで輝き、熱と光を与えて消える(犠牲死)ように、過去のキリストの1回限りの生涯を年ごとに情緒的に理解する訓練に役だてられる。
8世紀以降、クリスマス前の四つの日曜日を含む期間を「アドベント」Advent(来臨)とよび、教会暦では年の始めであるが、メシアの誕生の追体験とキリストの再臨を待望する心の構えを形成するために、この期間は祝い事を避けて生活する。クリスマスはアドベントから始まり1月6日のエピファニー(公現日)まで続き、その日にいっさいの飾りを外す。プレゼントの贈与と交換の行事は、古代ローマの祭り(12月17日)であるサトゥルナリアSaturnalia(農業神)にさかのぼる。この祭りの魅力は浪費、祝宴、日常的役割と身分の逆転であった。ツリーは、アルプスの北の風習で、起源が呪術(じゅじゅつ)的動機であるため、ピューリタニズムの系譜に連なる教派では飾らない。サンタクロースの起源は、恐ろしい袋をもった人さらいと善行の老人との奇妙な結合なのだが、遠い他人の抱く善意と正しい評価を親が代行する行為は、神の摂理を伝える家庭教育に用いられる。「キャロル」とよばれるクリスマスの歌曲は、民謡を母胎にして発展し、神への賛美、キリストの誕生の喜びと感謝を表現する。優れたキャロルは賛美歌に編入される。その一例が19世紀のグルーバー作曲の『清しこの夜』の歌である。
[川又志朗]
クリスマスは異教の時代から受け継いできた風習もあって、フォークロアも多彩である。
少年司教ボーイビショップは、中世からある変わった儀式で、子供の守護聖人聖ニコラスの祝日である12月6日から、聖嬰児(えいじ)日の12月28日までの間、各教会から選ばれた少年が司祭のかっこうをして司教の代理役を務める。この風習は宗教改革によってほとんど消滅したが、20世紀になりイギリスなどで復活している。もし少年司教が在任中に死ぬことがあると、司教と同じような形で葬られた。
クリスマスの活人画(クリッブ)は、ベツレヘムの馬小屋でのキリストの生誕のようすを、飼い葉桶(おけ)(クリッブ)を中心にヨセフ、マリア、羊飼い、動物を配した模型で、フランスではクレッシュ、ドイツではクリッペ、そしてもっとも人気のあるイタリアではプレセピオとよばれる。ローマ・カトリックの世界でおもにつくられ、教会や家庭にクリスマスの12日間周囲にろうそくをともして丁重に飾られる。最近では深夜ミサの初めに嬰児キリストの人形が運び込まれ、祭壇の前の飼い葉桶に恭しく入れられる。そして公現日(エピファニー)になると、周囲の羊飼いたちが3人の王によってとってかわられる。
サンタクロース――この名のおこりはアメリカへのオランダ移民が、ニュー・アムステルダム、現在のニューヨークに定住したとき、最初の教会をサンテ・クラースつまり聖ニコラスに献じたことにある。聖ニコラスは4世紀の聖人で、小アジアはリキュアのミーラの司教。彼にまつわる伝説は多く、もっとも知られるのが、貧しくて苦界に身を沈めようとした3人娘を救うため、夜半にこっそり金袋を娘たちの家の窓から投げ入れ、それが3晩続き、娘たちはそれぞれ十分な持参金を手にすることができた、というもので、これから三つの金色の玉が質屋の目印の看板となった。また別の伝説には、昔、飢饉(ききん)に際して、肉不足を補おうとして、3人の子供が、ある宿屋の亭主に殺され、死体は刻まれて塩水の樽(たる)の中に漬けられ、客用のベーコンがわりにされてしまう。ところが、食べられる直前に聖ニコラスが現れ、3人の子供の死体を祝福すると、切れ切れになった身体が元どおりになって生き返り、危うく救われて、聖ニコラスは子供の守護聖人となった、というもので、三つの玉は子供たちの頭を表すという。このような聖ニコラスの話は、中世の奇跡劇(ミラクル)の主要なテーマとなった。この聖ニコラスにまつわる話と、クリスマスに際してその余興を取り仕切る道化役とがいっしょになって、サンタクロース(イギリスではファーザー・クリスマスという)の姿が生まれた。クリスマスの贈り物の習慣は、本来、聖ニコラスの祝日である12月6日の前夜、気づかぬように贈り物をする習慣に発しており、またローマの農耕神サトゥルナリアの祭日(12月17日から1週間)に「幸運の贈り物」をしたことによるともいう。しかし近年の商業主義がこれを盛んにしたことはいうまでもない。サンタクロースが空を飛んでやってくるという考えは、北欧神話の主神オーディンOdinが冬になると空を飛翔(ひしょう)して人間の善悪を裁きにやってくる、という伝説に基づき、かならずしも楽しい、喜びをもたらす姿ではなく、本来は善悪を裁きに訪れるという厳しさがあった。
クリスマスは12月24日の夕べから1月6日の公現日まで祝われるが、その間の伝説や習慣は多彩である。クリスマスの前夜には、動物や鳥が人間のようにことばを発し、ラテン語で神をたたえる歌を歌ったり、家畜は東方を向いて跪座(きざ)し、蜜蜂(みつばち)も第100番の詩篇(しへん)を口ずさむといわれた。そして人々はクリスマスの当日にはいつもよりも多く餌(えさ)を与える。
クリスマスをたたえる歌はクリスマス・キャロルといい、本来は歌を歌いながらするダンスであったが、各国で美しい歌が次々に生まれ、いまなお盛んに前夜(イブ)に家々を訪問して歌われている。またこの時期に、イギリスに古くから伝わる劇にマミング・プレーmumming playという仮面をつけた無言劇があり、イングランドの守護聖人聖ジョージ、トルコの騎士、竜、美少女、医者を配した死と再生の物語を演じた。いまではそれにかわって有名な童話を扱ったパントマイムが子供たちの娯楽となっている。
クリスマスの翌日は、最初の殉教者聖ステパノの祭日。この日はイギリスではボクシング・デイBoxing Dayとよばれ、クリスマス・ボックスといって教会に備え付けられた寄付金の箱をあける日であったが、20世紀の中ごろまで、日ごろ世話になっている郵便屋さん、ごみ集めさんなどに感謝のしるしとして心付けを手渡す日となっていた。いまは名ばかりとなって公休日の一つの意味でしかない。
北半球においてはクリスマスはホワイトであり、南半球ではグリーンである。しかし長い間の北半球の文化的、経済的優位性から、冬の寒さと枯れ木と雪の中で、常緑の木やそれによる飾りが珍重された。クリスマス・ツリーの導入と普及はこれに基づくのであり、その他種々の植物がクリスマスを飾る。ヤドリギmistletoeはその代表的なもので、本来ドルイド教で聖なるものとされ、病を治したり、解毒したり、生殖能力を高めたり、悪霊を退けたり、幸運を約束する力があると考えられた。仇敵(きゅうてき)同士がもしヤドリギの下で出会えばそれが休戦のしるしとなり、互いに握手して別れ、争いは後日に延期された。これが戸口にヤドリギを飾り、そこから入る者たちの幸運を約束し、やがて若い男女の愛のしるしとしてその下でキスする習慣が生まれた。同様にヒイラギ、ツタ、月桂樹(げっけいじゅ)などもローマの時代から西欧で、そしてアメリカで珍重されている。東欧では聖バルバラの祝日である12月4日にサクラの枝を折って暖かいところに置くとクリスマスに花が全開するといわれた。ポインセチアは中央アメリカの産で、その赤い星状の包葉(ブラクト)がベスレヘムの星に似ていることから同地で聖なる飾りとして用いられていたが、メキシコ派遣のアメリカ大使ポインセットJoel Robert Poinset(1779―1851)が1829年カリフォルニアに持ち帰って一般的になった。
明かりをつけることもクリスマスの特徴であるが、これは古くからろうそくの火によってキリストを表す習慣があったことから広まり、とりわけ窓辺に出すことが19世紀の中ごろからアメリカ中に行き渡った。またユール・ロッグYule logといって、丸太を家に運び込み、それを暖炉の火で半分だけ焼き、残りを次の年のクリスマスに焼く新しい丸太に火をつけるようにした習慣もヨーロッパ一円に広まっている。
日本において、クリスマスが日本人によって初めて祝われたのは1875年(明治8)で、原胤昭(たねあき)によって銀座に設立された原女学校においてであったといわれる。その後しだいに非キリスト教徒の一般家庭にも浸透して祝われるようになり、1950年代にはバーやキャバレーで狂奔的に行われたが、しだいに沈静化し、家庭でケーキを食べたりプレゼントを交換するような形をとるようになった。しかし宗教性が希薄で商業主義に利用される一面は否めない。
[船戸英夫]
もともとはクリスマス当日、教会のクリスマス礼拝から帰って、家族あるいは来客がともに祝って食べるディナーの料理をいう。しかし、最近は、クリスマスの前夜、つまりクリスマス・イブに食べることが多くなっている。また、クリスマス・シーズンに、とくにクリスマスのためにつくる料理もクリスマス料理とよんでいる。イギリス、アメリカはシチメンチョウのローストを主菜とし、フランスやイタリアではローストチキンやソーセージ、オーストラリアではホゲット(生後1年~1年半の羊肉)のローストが中心になるなど、鳥や肉のローストが多く用いられる。とくにデザートは国により大きな特徴があり、いずれもいわれのあるものである。イギリスではフルーツ、香料をたっぷり入れたクリスマス・プディングやフルーツケーキ、フランスではビュッシュ・ド・ノエルbûche de Noëlをつくる。ビュッシュ・ド・ノエルは、大きな薪(まき)形のケーキで、昔、クリスマス・イブに大きな薪をたいた習慣によるという。ドイツでは、シュトーレンとよばれる、白い粉砂糖をふったフルーツ入りの堅いパン、イタリアではパネトーネというフルーツ入りの菓子パンが焼かれる。日本では宗教に関係なくクリスマス・イブにパーティーをする習慣が広まっている。しかし、ローストの肉とケーキ程度が主で、料理の形式だけをまねている傾向が強い。
[河野友美・山口米子]
『O・クルマン著、土岐健治・湯川郁子訳『クリスマスの起源』(1996・教文館)』▽『国際機関日本サンタピア委員会監修、クリスマスを考える会構成『クリスマス事典』(2001・あすなろ書房)』▽『K・H・ビーリッツ著、松山与志雄訳『教会暦――祝祭日の歴史と現在』(2003・教文館)』▽『チャペルタイムス編『クリスマスをあなたに』(2005・日本教会新報社、星雲社発売)』▽『保坂高殿著『ローマ史のなかのクリスマス――異教世界とキリスト教1』(2005・教文館)』
マレーシアの作家。本名はカマルディン・ムハマッドKamaluddin Muhammadで、パハン州出身。『マレーの使節』Utusan Melayu紙の記者を経て、DBP(国立言語図書出版局)創立以来の出版活動の推進者。言語と文学を民族の団結にもっとも重要な手段とする「50年代文学者グループ」(ASAS 50)の中心的作家。「芸術のための芸術」に反対し、「社会のための芸術」を提唱した。第二次世界大戦後、短編小説の旗手として1950~60年代に多くの優れた短編を発表し、若い作家に大きな影響を与えた。初期のロマンチシズムから、80年代以降は現実直視の傾向へ移行。代表的な短編集に『すべてに代りあり』(1962)、『二つの時代』(1963)など。長編小説にはマレーシアが直面する社会問題を扱った『クアラルンプールから来た大商人』(1982)がある。1976年文学パイオニア賞、1981年国家文学賞を受賞。
[佐々木信子]
『佐々木信子訳『クアラルンプールから来た大商人』(1988・勁草書房)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
「キリスト降誕祭」のページをご覧ください。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 (株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」とっさの日本語便利帳について 情報
イエス・キリストの降誕記念日。12月25日に定められたのは4世紀からで,本来冬至期におけるミトラ教の太陽神の再生の祭りに対抗し,「義の太陽」キリストの誕生を祝うようになった。ギリシア正教会では1月6日の顕現日にクリスマスをあわせ祝っている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 シナジーマーティング(株)日本文化いろは事典について 情報
…このためキリスト教会は週1日の安息日のほか,異教時代の祭日を重視し,これをキリスト教の祝日とした。たとえば,クリスマスは冬至の祭りに由来する。復活祭は,枯れた草木が山野を彩る変化に草木の霊魂の死と復活を信じた異教時代の祭りの趣旨を生かしたものである。…
…モチノキ科の常緑低木で,鋭くとがった歯牙のある硬い葉と赤い実をクリスマスの飾りとする。ときに高さ6mに達し,よく枝分れしてピラミッド形の樹形となる。…
…またマウリドも,農村では農繁期を避けて行われることが多く,下エジプトのタンターでは,アフマド・アルバダウィーのマウリドがエジプト古来の太陽暦(コプト暦)に従って行われ,この日はエジプト各地からさまざまな願いをもった参詣者が訪れて町はごったがえす。【三浦 徹】
[ヨーロッパ]
ヨーロッパの年中行事には,クリスマス,復活祭,聖霊降臨祭のようなキリスト教会の年中行事と,民間信仰的年中行事との両者がある。後者は,異教時代の民衆の自然に対する畏怖と願望をこめた農耕および牧畜儀礼が変化したものであり,前者はキリスト教が異教と習合する過程で成立したものである。…
※「クリスマス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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