デジタル大辞泉
「ホープ」の意味・読み・例文・類語
ホープ(Hope)
米国アラスカ州南部、キーナイ半島の付け根にある町。クック入江を挟んでアンカレジの対岸に位置する。釣りをはじめとするアウトドアレジャーが盛ん。
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ホープ
- 〘 名詞 〙 ( [英語] hope )
- ① 望み。希望。期待。
- [初出の実例]「今まで持って居たプレジュア〔快楽〕を奪はれた上に、ホウプ〔将来のたのしみ〕まで無くなってしまっちゃア」(出典:当世書生気質(1885‐86)〈坪内逍遙〉五)
- ② 将来を期待されている人。希望を託されている人。
- [初出の実例]「いかさま近衛公一人を以て日本の唯一のホープとするかに見える現状」(出典:文化と政治(1941)〈津久井龍雄〉人物断想)
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ホープ(Bob Hope)
ほーぷ
Bob Hope
(1903―2003)
アメリカの喜劇俳優。イギリスのロンドンに生まれ、幼時に渡米。扮装(ふんそう)コンテストに入賞して芸人を志し、早口と軽妙な話術と辛辣(しんらつ)なジョークを売り物にラジオの人気者になり、映画に進出してユーモアを振りまいた。『アラスカ珍道中』(1945)などビング・クロスビー、ドロシー・ラムーアDorothy Lamour(1914―96)と組んだ「珍道中」シリーズと、『腰抜け二挺拳銃(にちょうけんじゅう)』(1948)など日本題名に「腰抜け」がつく一連のコメディーでアメリカの国民的人気を集めた。ほかに『姫君と海賊』(1944)、『パリの休日』(1958)などに出演、テレビとラジオのショー番組の常連だった。1965年まで20年間、毎年のようにアカデミー賞授賞式の総合司会者をつとめたほか、映画界への奉仕に対してアカデミー特別賞を4回受けた。
[日野康一]
『ボブ・ホープ著、笠原佳雄訳『ボブ・ホープ世界を行く』(1964・弘文堂)』▽『ボブ・ホープ、ドゥエイン・ネトランド著、三好徹訳『ボブ・ホープのフェアウエー回想録』(1990・JICC出版局)』▽『ボブ・ホープ著、中俣真知子訳『ボブ・ホープ自伝――ギャグとジョークで綴るアメリカ50年史』(1992・徳間書店)』
ホープ(Alec Derwent Hope)
ほーぷ
Alec Derwent Hope
(1907―2000)
オーストラリアの詩人、評論家。ニュー・サウス・ウェールズ州クーマ町で牧師の家に生まれる。1928年シドニー大学卒業、同年オックスフォード大学に学ぶ。31年帰国後、教職を重ね、1951~68年オーストラリア国立大学英文科主任教授、1968年同大学名誉教授。処女詩集『さまよう島々』(1955)以降、『詩集』(1960)、『詩集1930~65年』(1966)、『応答の書』(1978)、『オルフェウス』(1991)、『詩選集』(1992)に至る十数巻を発表、文学評論や詩論に『1950~62年のオーストラリア文学概説』(1963)、『洞窟(どうくつ)と泉(詩に関するエッセイ)』(1965)、『牛盗人(アウトリュコス)の荷物』(1978)など約10巻がイギリス、アメリカからも刊行されている。叙情詩の伝統が強いこの国の詩界に、ヨーロッパの近代的知性を導入、確立した。諸種の文学賞を、オーストラリアはもちろんイギリス、アメリカでも受けた。
[平松幹夫・古宇田敦子]
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ホープ
Alec Derwent Hope
生没年:1907-2000
オーストラリアの詩人。シドニー大学およびオックスフォード大学卒。オーストラリア国立大学教授(1951-68)。ホープの作品の形式は現代詩が捨てさった弱強格iambicの風刺詩であるが,位相の高さ,主題の大きさでは小説家P.ホワイトと肩を並べる。自国の文化的不毛性との戦いではホワイトらが長く欧米へ離国する道を選んだのに対し,彼は自国にとどまって自己の内面に沈潜する,いわば内面の離国を貫いた強靱さを身上とする。自国での孤立は神のいない宇宙での疎外という今日的主題と重なり合い,肉体の映像に根ざした形而上性,ヨーロッパの神話映像を駆使しつつ自国の文化砂漠に回帰する振幅の大きさ,大きな主題を風刺のトーンでわざと失速させながら高い位相に踏みとどまるスケールの大きさなど,全体像のつかみがたい詩人である。詩集には処女作《漂う島々》(1955)などがあり,詩論の著作もある。
執筆者:越智 道雄
ホープ
Thomas Hope
生没年:1769-1831
イギリスのリージェンシー様式の指導的な家具デザイナー。スコットランド出身の銀行家の息子でオランダに生まれたが,1796年ころイギリスに移住,家具デザイナーになる。8年にわたりギリシアを旅行,ギリシアの芸術と建築様式に心酔して帰国,古代ギリシアの家具を正確にとりいれ,後にリージェンシー様式と名づけられる,直線的でシンプルな家具を製作した。1807年には《家庭家具と装飾Household Furniture and Decoration》を出版し,19世紀初期におけるイギリスの家具デザインに大きな影響を与えた。
執筆者:鍵和田 務
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ホープ
Hope, Bob
[生]1903.5.26. ロンドン近郊エルサム
[没]2003.7.27. カリフォルニア,トルーカレーク
イギリス生まれのアメリカの喜劇俳優。4歳のときに一家でアメリカに移住。 10歳でチャップリンの扮装コンテストに入賞,10代後半でエンターテイナーを志し,ボードビルで活躍した。 1927年ブロードウェーで The Sidewalks of New Yorkに初出演,1933年には Robertaでミュージカルデビューを果たすが,1930年代半ばはおもに数々の短編喜劇や,もちまえの軽妙なしゃべりを生かしたラジオ番組で活躍した。 1938年『百万弗大放送』で本格的に映画に進出し,1940年代は B.クロスビーとコンビを組んだ『珍道中』シリーズが大ヒット,単独主演した『腰抜け二挺拳銃』 (1948) も本人がうたった主題歌『ボタンとリボン』とともに大好評を博した。これらの活躍を通してアメリカ随一の人気コメディアンとなり,その功績が認められて特別賞や名誉賞など生涯に5回のアカデミー賞を受けた。また,軍隊慰問にも熱心で,第2次世界大戦,朝鮮戦争,ベトナム戦争,湾岸戦争時には各国を訪問,得意のショーで聴衆を沸かせた。
ホープ
H-II Orbiting Plane; HOPE
宇宙開発事業団 (→宇宙航空研究開発機構 ) による日本版スペースシャトル。機体の概念は,全長 18m,全幅 10m,全体重量 20tで荷物積載 3t以上。宇宙ステーションへの物質の補給や実験成果などの回収手段,軌道上での活動手段として,また,無人の宇宙有翼往還機という特性をいかし,さまざまな実験や観測の手段として計画された。開発計画の基本となる実験として,1994年2月軌道再突入実験 OREX,1996年2月極超音速飛行実験 HYFLEX,1996年7~8月の小型自動着陸実験 ALFLEXなどを実施,宇宙往還技術試験機 HOPE-Xの基本設計に入った。しかし,1997年6月日本政府は財政構造改革で宇宙開発への費用も抑制する方針を出し,これを受けて科学技術庁は「ホープ」の開発を中断,試験機 HOPE-Xの改修機を使用することになった。
ホープ
Hope, John
[生]1868.6.2. ジョージア,オーガスタ
[没]1936.2.20. アトランタ
アメリカの教育家。黒人のための高等普通教育の機会拡大を提唱し,当時の主流であった T.ブーカーらの技術教育の主張と対立した。 1894年ブラウン大学卒業,98年までロジャー・ウィリアム大学教師,引続きアトランタ・バプテスト・カレッジ (のちのモアハウス・カレッジ) 古典学教授,1906年同学長。 W.アレクサンダーと共同で国際協力委員会の設立に尽力,初代会長。 29年アトランタ大学学長に選任され,死去するまで在任。
ホープ
Hope, Alec Derwent
[生]1907.7.21. ニューサウスウェールズ,クーマ
[没]2000.7.13. キャンベラ
オーストラリアの詩人。シドニー,オックスフォード両大学で学ぶ。大学で英文学を講じるかたわら,『さまよえる島々』 The Wandering Islands (1955) でデビュー,既成の価値観を批判した作品を書く。 1968年オーストラリア国立大学名誉教授。ほかに『詩集』 Poems (60) ,文学論集『この国生れの仲間たち』 Native Companions (74) など。
ホープ
Hope, Anthony
[生]1863.2.9. ロンドン
[没]1933.7.8. サリー,ウォルトンオンザヒル
イギリスの小説家。本名 A. H. Hawkins。オックスフォード大学卒業。初め法曹界で活躍したが,架空のルリタニア王国を舞台とした『ゼンダ城の虜囚』 The Prisoner of Zenda (1894) で一躍有名になり,多くの冒険小説を書いた。
ホープ
Hope, Thomas
[生]1769. アムステルダム
[没]1831.2.3. ロンドン
イギリスの哲学者,作家,建築家,デザイナー,美術鑑識家。考古学的な装飾や家具復興の指導者。富裕な銀行家の息子。サリー県に購入した自宅を新古典主義的な摂政時代のスタイルで装飾。家具,建築に関する著書,小説,哲学書も書いた。主著『家庭家具と室内装飾』 (1807) 。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
ホープ
没年:1881(1881)
生年:1808
幕末維新期のイギリスの軍人。1859年,東インド・シナ艦隊司令長官。文久1年7月8日(1861年8月13日)来日,翌日と翌々日の日英外交史上はじめての秘密会談にオールコック公使と共に出席,ロシアの対馬占拠に対しそれを退去させることを言明した。7月23日(8月28日),対馬に赴き退去を要求,翌月15日(9月19日)ロシア艦は撤退した。<著作>『ポンペ日本滞在見聞記』(沼田次郎・荒瀬進訳)<参考文献>石井孝『明治維新の国際的環境』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
ホープ Hope, James
1808-1881 イギリスの軍人。
東インド艦隊司令長官。文久元年(1861)来日。オールコック公使と日英秘密会談に出席し,対馬(つしま)(長崎県)を占拠しているロシア艦に退去をもとめることを決定,対馬におもむきロシア艦を撤退させた。享年73歳。
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ホープ
JTが製造、販売するタバコのブランド。10本入りのほか、「ライト」「スーパーライト」「メンソール」がある。
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世界大百科事典(旧版)内のホープの言及
【ダイヤモンド】より
…しかし一説に,この石は磨き直され,ビクトリア女王に献上され王室の宝物に加えられた〈コーイヌールKoh‐i‐noor〉(約106カラット),あるいはかつてインド南部の寺院に安置されていた女神像の目から剝ぎ取られロシアのエカチェリナ2世に贈られたといわれる〈オルロフOrlov〉(約195カラット)に変わったのではないかといわれている。また17世紀にルイ14世が買い取った〈ホープHope〉(約44カラット)はブルー・ダイヤモンドで,凶運の石として知られ,それを着用したモンテスパン夫人やマリー・アントアネットのように刑死したり,後年それを買い入れた銀行家ホープ家のように不慮の死や家庭の不幸に見舞われる者が続出した。伝説によれば,フランスのダイヤ商人タベルニエJ.B.Tavernier(1605‐89)が1668年ころインドの寺院でラーマーシーターの神像の目からそれを盗み取ったためのたたりだという。…
【リージェンシー様式】より
…この夢幻的な折衷主義は,前代流行したアダム様式の優美な単純性とは対立的な方向を歩むものである。それを家具において実現したのは,リージェンシー様式にパトロンとしても大きな影響力をもったT.ホープであった。この時代の家具は赤褐色のマホガニー材を用い,渦巻文様を主体とした剛健な形態を特徴としたが,ビクトリア時代の中流階級に広く受け継がれ,今日でもイギリスの家具の最も一般的な様式となっている。…
※「ホープ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」