ケネディ大統領暗殺事件(読み)けねでぃだいとうりょうあんさつじけん

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ケネディ大統領暗殺事件
けねでぃだいとうりょうあんさつじけん

1963年11月22日午後0時半ごろ、翌年の大統領選挙に備えて南部諸州を遊説のため、テキサス州ダラス市を自動車パレード中のジョン・F・ケネディ大統領が何者かに狙撃(そげき)されて暗殺された事件。アメリカ大統領で暗殺されたのは、リンカーン、ガーフィールド、マッキンリーに次いで4人目。ほぼ即死であったが、病院での死亡確認から39分後、同行していた副大統領リンドン・ジョンソンが第36代大統領に就任した。[陸井三郎]

犯行の事実関係

ダラス市内をオープンカーでパレード中に、テキサス教科書倉庫ビルの窓から3発が発射され、2発が大統領に、1発がテキサス州コナリー知事にいずれも背後から命中したと公表され(知事は負傷したにとどまる)、数時間後に、訪ソ経験をもつ「共産主義者」リー・ハーベイ・オズワルドが犯人として逮捕された。ところが2日後ダラス市警から市拘置所に護送のため、市警の地下道を連行される途中のオズワルドが、同市のキャバレー経営者ジャック・ルビーによって射殺されてしまった(1967年にルビーも死亡)。1963年12月1日ジョンソン大統領は暗殺真相究明のため、アール・ウォーレン連邦最高裁長官を委員長とする七人委員会(ウォーレン委員会)を任命した。12月10日にはダラス市警およびFBIの調査報告書がウォーレン委員会に提出されたが、ロバート・ケネディを長官とする司法省は、オズワルドを単独犯としたFBI報告に当初からあからさまな不満を示した。
 容疑者オズワルドはFBIまたはCIAの手先あるいは情報屋であったという状況証拠があるうえ、大統領の自動車パレードが進行していく前方の陸橋付近の土手から複数犯によって大統領が狙撃され、発射音も背後でなく前方から聞こえたという目撃証言も少なからずあった(こうした目撃証言者12人がその後、変死または怪死している)。ウォーレン委員会はFBI報告に不満をもち、独自の調査を続け、1964年9月24日、最終報告書を公表したが、その要旨は、オズワルドの単独犯行であり、国内・国外のいかなる背後関係もなく、またオズワルド殺人犯のジャック・ルビーについても同様であるとする点ではFBI報告と同様であった。ただしウォーレン委が収集した膨大な資料は80年間非公開とされ、国立公文書館にいまも保管されたままである。この暗殺事件については、アメリカ内外でウォーレン委報告とは異なる多くの証拠、分析、憶測が行われてきたが、真相のすべてが明らかにされぬままでいる以上、軽々しく結論を下すべきではない。[陸井三郎]

事件の余波

ケネディ大統領は暗殺されたために「偉大なアメリカ」の代表として内外で賛美された。しかし暗殺時までには、13の重要な予算法案のうち九つまでが、5か月近く前の7月1日には1964財政年度(当時)が始まっているというのに、議会を通過しておらず、政府各省はその日暮らしを強いられていた。同政権は議会の空前の議事妨害(フィリバスター)で八方ふさがりになっていた。暗殺されなくとも翌年の大統領選挙戦でのケネディ再選は「絶望的」(ロンドン『エコノミスト』)との見方が有力であった。暗殺事件を契機として、アメリカ社会は国内対立の激化、学生運動の台頭、ベトナム戦争拡大、黒人ゲットー反乱、麻薬汚染の広がり、家族崩壊など、風俗に至るまで大きく転回していった。ケネディ遺産はその意味でも「古き良きアメリカ」への回帰と結び付いている。[陸井三郎]
『陸井三郎著『現代のアメリカ』(1964・三一書房)』

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

ケネディ大統領暗殺事件

1963年11月22日、米南部テキサス州ダラスでのパレードで、オープンカーに乗っていたケネディ大統領が狙撃され、46歳で死亡した。リー・オズワルド容疑者が逮捕されたが、24日に警察署で別の男に撃たれて死亡。政府調査委員会は64年、「オズワルド容疑者による単独犯行」と報告したが、米中央情報局(CIA)などによる陰謀との根強い声がある。

(2017-10-28 朝日新聞 朝刊 1外報)

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