ロシアの軍人、探検家。カズロフともよばれる。1899~1901年、モンゴル・チベット探検隊の長として、アルタイ地方、アラシャン砂漠、ツイダム盆地を経て東部チベットを調査した。1907~1909年には、モンゴル・四川(しせん)探検隊を率いてゴビ・アラシャン砂漠から青海省に入り、ハラ・ホトを発見、発掘(1908~1909)した。ついで1923~1926年には、モンゴルとチベットを探検して、ノイン・ウラ(ウランバートルの北方約100キロメートル)に残る匈奴(きょうど)貴族の墳墓群を発掘し(1923~1924)、またハラ・ホトの再調査(1926)を行った。
[護 雅夫]
『コズロフ著、西義之訳『西域探検紀行全集11 蒙古と青海』(1967・白水社)』
ロシアの詩人、翻訳家。零落した名門貴族の家に生まれる。近衛(このえ)連隊に勤務していたが、37歳のとき、病魔に足の自由を奪われた。ついで視力を失い始め、1821年、42歳にして失明した。この不幸がコズロフを社交界の花形から転じて詩人としての才能に目覚めさせるきっかけとなった。出世作は、若い修道僧が非運の身の上を告白する叙事詩『修道僧』(1825)で、作者自身の境遇を作中の主人公に仮託した悲痛な物語は多くの読者を得た。ほかに宗教的な人類愛と悲哀に満ちた叙事詩『ドルゴルーキー公爵夫人』(1828)、『馬鹿(ばか)な女』(1830)のほか、西欧詩人の翻訳も多い。
[島田 陽]
ロシアの中央アジア探検家。スモレンスク州に生まれた。1887年陸軍士官学校卒業後,プルジェワリスキー,ロブロフスキーの各探検隊に参加。1899-1901年みずからモンゴル・チベット探検隊を主宰し,その成果を《モンゴリアとカム》8巻(1905-08)として刊行。1907-09年モンゴル・四川探検隊を主宰し,ゴビ砂漠中に西夏時代の廃都カラ・ホトを発見,2000巻に及ぶ西夏語,漢文書籍を収集した。その探検の成果は彼の著《モンゴリアとアムドおよび死の都カラ・ホト》(1923)として発表された。1923-26年最後のモンゴル・チベット探検を行い,その際,外モンゴリアのヘンテイ山中でフン族貴族の墳墓ノイン・ウラを発掘調査した。
執筆者:若松 寛
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1863~1935
ロシアの軍人,探検家。初めプルジェヴァリスキーの中央アジア探検に従う。1899~1902年にはみずからアルタイ,ゴビ沙漠,黄河源流域を,07~09年にはゴビ沙漠を踏査。帰途,エチナ河畔で西夏の廃都カラ・ホトを発見,24年,外モンゴルのノイン・ウラで匈奴(きょうど)の王侯の墳墓を発掘。25年以後,外モンゴルへの探検隊を指揮。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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