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コズロフ コズロフKozlov, Frol Romanovich

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

コズロフ
Kozlov, Frol Romanovich

[生]1908.8.18. ロシチニノ
[没]1965.1.30. モスクワ
ソ連の政治家。 1936年レニングラード工業専門学校卒業,同年共産党に加入,冶金技師となった。 41年に軍需工場の党書記,次いで党モスクワ市委員会勤務,50年レニングラード市党第一書記に就任。 57年の権力闘争の際に N.フルシチョフを全面的に支持し,同年党中央委員会幹部会員,58年副首相になり,60年からは党中央委員会書記も兼任。 59年アメリカの D.アイゼンハワー大統領と会見。フルシチョフの後継者とみなされていたが,64年 11月病気を理由に辞任。

コズロフ
Kozlov, Pëtr Kuz'mich

[生]1863.10.3. スモレンスク,ドゥホフシチナ
[没]1935.9.26. レニングラード近郊ペテルゴーフ
ソ連の軍人,探検家。初め N.プルジェワリスキーの中央アジア探検に従う。 1899~1901年にアルタイ山脈,ゴビ砂漠,ツァイダム盆地を経て東部チベットを調査。 07~09年にはゴビ砂漠を踏査し,帰途エチナ河畔で西夏の廃都ハラ・ホト遺跡を発見,発掘して多数の西夏語文書,経典,貨幣などをもたらした。 24~25年には外モンゴルのノイン・ウラ匈奴の有力者の墳墓群を発掘し,匈奴の文化の解明に大きな役割を果した。

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百科事典マイペディアの解説

コズロフ

ロシアの探検家,考古学者。1883年―1885年プルジェワリスキーの探検に同行,以後6度にわたり中央アジア各地を探検。1907年―1909年カラ・ホトで西夏の遺跡を発掘,1924年ノイン・ウラで匈奴(きょうど)の墓を多数発掘した。

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世界大百科事典 第2版の解説

コズロフ【Pyotr Kuzymich Kozlov】

1863‐1935
ロシアの中央アジア探検家。スモレンスク州に生まれた。1887年陸軍士官学校卒業後,プルジェワリスキー,ロブロフスキーの各探検隊に参加。1899‐1901年みずからモンゴル・チベット探検隊を主宰し,その成果を《モンゴリアとカム》8巻(1905‐08)として刊行。1907‐09年モンゴル・四川探検隊を主宰し,ゴビ砂漠中に西夏時代の廃都カラ・ホトを発見,2000巻に及ぶ西夏語,漢文書籍を収集した。その探検の成果は彼の著《モンゴリアとアムドおよび死の都カラ・ホト》(1923)として発表された。

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大辞林 第三版の解説

コズロフ【Pyotr Kuz'mich Kozlov】

1863~1935) ロシアの軍人・探検家。中央アジア各地を踏査。エチナ河畔で西夏の廃都ハラホトを発見。

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