政教協約または単に協約と訳される。もとは教会当局者と世俗諸侯との間で教会に関する事項について交わされた協定を意味したが、今日では一般に国家内の宗教的諸問題を規整するため、ローマ教皇と国家の首長との間で締結された条約をさす。
[野口洋二]
その対象は多種多様で、政教両権にわたる諸事項を含む。すなわち、国家側からは、カトリック信仰の公的承認、教会役職者任免の承認と制限、教会管区の承認、教会の設立した教育制度の認可と監督、聖職者の公権からの除外や軍役免除などの特権の保証など。教皇側からは、国家に対する教会の忠誠、教会行政や財産に対する国家の利用・干渉・監督の承認、教会による権利財産の侵害に対する補償などである。形式もさまざまで、法令の場合、教皇教書として宣言し、ついで国家の法として発布する場合、また両者の全権委員により条約として調印される場合など、種々のケースがある。
[野口洋二]
最古のものは聖職叙任権闘争の解決として結ばれた、イギリスでのベック協約(1107)、ドイツでのウォルムス協約(1122)がその代表例である。その後ドイツでは教皇の聖職禄(ろく)に対する特権をめぐって争いが生じ、15世紀にドイツ諸君主と教皇はたびたび協約を結んだ。これは結局、教皇の課税権と聖職禄留保権を認めたウィーン協約(1448)で決着をみたが、こうした教皇の過度の権限は宗教改革を促す一因ともなった。一方フランスでは、「1516年の協約」で国王に司教・修道院長の任命権、教皇に教会制度に対する承認権と初年度献上聖職禄の取得権が認められ、この協定はフランス革命まで続いた。ついで、革命で教会は国家管理下に置かれ財産も没収されたが、この状態をナポレオン1世が「1801年の協約」で修復し、この協約は1905年まで効力をもった。このほか、17、18世紀には、教皇庁とポルトガル、スペイン、ポーランド、シチリアなどとの間に協約が結ばれ、19世紀に入るとその締結がさらに頻度を増すとともに協約の更新が行われた。ベルギー(1827)、スイス諸州(1828、1830、1884、1889)、ロシア(1847、1882、1907)、スペイン(1851)、オーストリア(1855)、中南米諸国(1855~91)などとの協約がそれである。その後、第一次世界大戦後には、教皇の国際的地位の向上や中央ヨーロッパにおける新興諸国家の誕生があり、それに伴って教皇庁は、ポーランド(1925)、リトアニア(1927)、ルーマニア(1927)、チェコスロバキア(1927)、イタリア(1929)、ドイツ(1933)など多くの国々との間に、カトリック教会の活動や宗教教育の実施などについて協約を結んだ。しかしバチカン市国の存在などを認めたイタリアとの協約は、1931年以降イタリアのファシスト政権との間に紛争を招き、ドイツとの協約もヒトラー政権は守らなかった。さらに第二次世界大戦後には、とくに第二バチカン公会議(1962~65)以後、その決定に従い、教皇庁は信教の自由を保証するとともに、カトリック教会の諸制度や活動をそれぞれの市民権に基づく各国の国政に調和させようとして、40余りの協約を各国との間で結んだ。その重要なものには、スペイン(1976、1979)やイタリア(1984)との協約をはじめ、アルゼンチン(1966)、ペルー(1980)、モナコ(1983)、ハイチ(1984)などとの協約がある。
[野口洋二]
『『カトリック大辞典』(1972・冨山房)』
政治的権力者と宗教的権威者との間で双方に重大な利害関係のある事柄について締結される条約。政教協約とか宗教協約と訳される。具体的には神聖ローマ皇帝や各国の国王,元首とローマ教皇との間で,聖権と俗権との関係,教会事項に政治的権限の及ぶ範囲,国家における聖職者の地位などについての合意を内容とする。中世では1122年のウォルムスのコンコルダート(ウォルムス協約)が有名であるが,これはハインリヒ4世以来皇帝とローマ教皇との間で高位聖職者の叙任権の帰属をめぐって長期にわたって争われていた問題(叙任権闘争)が,ハインリヒ5世とカリストゥス2世との間でイボ・ド・シャルトルの理論に基づいて解決されたものである。これとほとんど同じ内容の協定は,これに先立つ1107年に教皇パスカリス2世とイギリス国王ヘンリー1世との間でも締結された。もっともこの時期には,まだコンコルダートという用語はなかった。それが最初に用いられたのは教会分裂を終結させるために開かれたコンスタンツ公会議中の1418年で,このとき新教皇のマルティヌス5世は,個々の国家と教会についての諸問題をコンコルダートによって解決した。
国家と教会の関係は,国家主権を確立しようとする近代国家にとって緊急の重要性をもっていたから,コンコルダートも中世よりも近代のほうがはるかに数多く締結された。なかでも1516年フランス王フランソア1世と教皇レオ10世との間で結ばれた協約は聖職任命権を国王に与え,教皇は単にそれを承認するにすぎないものとした注目すべきもので,フランス革命まで有効であった。これは1790年無効とされたが,1801年ナポレオン1世と教皇ピウス7世との協約で形を変えて復活し,さらに教会財産もここでは国有化された。これが廃止され政教分離が確立するのは1905年以後である。19世紀前半の40年間に教皇庁は約30の協約を結んだが,20世紀に入ってからは29年イタリア(ラテラノ協定),33年ドイツとの協約が著名である。
執筆者:今野 國雄
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宗教協約,政教和約ともいう。国家内部の宗教問題について国家と教会(特に教皇)との間に結ばれる協約。叙任権闘争の際に神聖ローマ皇帝と教皇との間に結ばれたヴォルムス協約のほか,15世紀前半のドイツや16世紀初頭のフランスでもコンコルダートがある。フランス革命で政府と教会が対立したのちには,ナポレオンが教皇ピウス7世と和解して,1801年コンコルダートを結んだ。
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…そのように国教制といってもイギリスに近いものとスペインや発展途上国に近いものがあり,それらの相違は政治的自由の強弱に関係があることに注意を要する。 宗教的中立性の具体化を実際に試みている国は,前述の社会主義国だけでなく,発展途上国にも先進・中進国にも見いだされるが,だいたいの傾向を分類すると,(1)国家と宗教とくにローマ・カトリック教会の関係を国家間の条約のように扱う〈協約〉(コンコルダート,政教条約,宗教条約)方式(イタリア,ドイツ),(2)その国で実際に優勢な宗教を尊重する〈寛容令〉方式(スイス,ベルギー,ドイツ,フランス,ブラジル),(3)憲法規定上国家と宗教を厳格に分離する〈政教分離〉方式(アメリカ合衆国,メキシコ,フランス,トルコ,インド,韓国,日本)がある。以上の(1)(2)(3)の方式は現実には重複することもあり,まったく形式的に分類されるものではない。…
※「コンコルダート」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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