ウォルムス協約 (ウォルムスきょうやく)
Wormser Konkordat
1122年,ドイツの叙任権闘争を終結させるため,神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世とローマ教皇カリストゥス2世Callistus II(在位1119-24)との間に結ばれた政教条約。皇帝の特許状と教皇のそれからなり,理論的にはシャルトルのイウォIvo(1040ころ-1116)による教権(司牧権)と俗権(教会領に対する世俗的支配権)の概念的分離に基づく。この協約により,皇帝は以後司牧権の象徴である指輪と杖による叙任を放棄し,上級教会の俗権のみを笏により授与(授封)する。また,教会法による司教,修道院長の選挙と自由な叙階が保障される。ただし,ドイツではこれを,皇帝親臨の下での選挙,俗権授与,叙階の順序で,イタリアとブルゴーニュでは,選挙,叙階,俗権授与の順序で行う。これによって対立する両陣営は和解すると定められた。この協約は後にその有効期限について論争が生じたばかりでなく,皇帝親臨の規定によりドイツでは皇帝が選挙に影響を及ぼす余地が残された。しかし,原則として高位聖職者の自由な選挙と叙階が保障され,帝国においても他の西欧諸国と同じく教俗の分離と教会の解放が進行した。また指輪と杖による叙任の放棄と俗権の授封は,皇帝権からその神聖性を奪い,皇帝と聖職者の支配関係を変化させたが,これは10世紀以来ドイツ王権の中心的権力基盤をなしてきた帝国教会制の解体を意味した。そのためドイツでは,この協約を境に封建化が進み,王権の新たな基礎づけ,国制の再編制がうながされることとなった。
執筆者:野口 洋二
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「ウォルムス協約」の意味・わかりやすい解説
ウォルムス協約【ウォルムスきょうやく】
ドイツの僧職叙任権闘争を一応終結させた協約。1122年神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世と教皇カリストゥス2世CallistusII(在位1119年―1124年)の間でドイツ南部ウォルムスWormsで結ばれ,ドイツ以外での僧職叙任権は教皇の手に帰し,皇帝権は後退したが両者ともに不満として紛争は続いた。これを境にドイツでは封建化が進んだ。
→関連項目ウォルムス|コンコルダート|ザリエル朝|帝国教会政策
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ウォルムス協約
うぉるむすきょうやく
Wormser Konkordat ドイツ語
1122年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世と教皇カリクストゥス2世の間に結ばれた協定。1076年以降の叙任権闘争がこれにより収束した。最大の争点は、俗権(皇帝)による司教、大司教、帝国修道院長などの高位聖職者の叙任が(聖職者はこれにより皇帝への奉仕を義務づけられるため)聖職売買(シモニー)に該当するという教皇側の主張と、オットー1世以来いわゆる帝国教会政策によって、国家行政を大幅に教会に託してきた皇帝側の立場との衝突であるが、俗権による叙任(教会領および付帯的世俗権力の授封)と、教権に基づく叙品(司教権の授与)とを分離すべきであるというシャルトル司教イボオの理論により妥協が成立した。聖職者の任命は、教会法に基づく選挙を前提とし、教皇の指輪と杖(つえ)とによる叙品、さらに皇帝の笏(しゃく)による叙任の二重の形式で行われ、ドイツに関しては皇帝の叙任が、ブルグントとイタリアに関しては教皇の叙品が先行するように取り決められた。
[平城照介]
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世界大百科事典(旧版)内のウォルムス協約の言及
【コンコルダート】より
…具体的には神聖ローマ皇帝や各国の国王,元首とローマ教皇との間で,聖権と俗権との関係,教会事項に政治的権限の及ぶ範囲,国家における聖職者の地位などについての合意を内容とする。中世では1122年のウォルムスのコンコルダート([ウォルムス協約])が有名であるが,これはハインリヒ4世以来皇帝とローマ教皇との間で高位聖職者の叙任権の帰属をめぐって長期にわたって争われていた問題(叙任権闘争)が,ハインリヒ5世とカリストゥス2世との間でイボ・ド・シャルトルの理論に基づいて解決されたものである。これとほとんど同じ内容の協定は,これに先立つ1107年に教皇パスカリス2世とイギリス国王ヘンリー1世との間でも締結された。…
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