先住民はインディオで、山岳地帯を中心に数種族が居住していた。スペイン人によって植民が始められたのは16世紀中ごろ以後である。1516年のファン・ディアス・デ・ソリスJuan Díaz de Solís(1470?―1516)によるラ・プラタ川の「発見」、1520年のマジェラン(マゼラン)によるマゼラン海峡の「発見」などののち、1535年ペドロ・デ・メンドサPedro de Mendoza(1487―1537)の率いる大規模な探検隊が派遣され、ブエノス・アイレス市が建設された。しかし、先住民の攻撃などのためラ・プラタ地域の植民地の中心は、アスンシオンに移動し、ブエノス・アイレス市の再建は1580年にようやく行われた。アルゼンチンの植民地時代の活動は、アルト・ペルーの銀鉱業への生産物供給を担う形で、北西部を中心に行われた。ペルーから南下した人々により、トゥクマン(1565建設)、コルドバ(1573)、サルタ(1582)などの都市が建設された。ラ・プラタ地域にもアスンシオンから移動した人々によりサンタ・フェ(1573)、コリエンテス(1588)、既述のブエノス・アイレスなどが建設されたが、18世紀末に至るまでアルゼンチンの人口の多くは北西部に集中していた。
1995年の大統領選挙でメネムは再選、民主主義の確立につとめるも、政府の汚職が批判を集めた。1999年の大統領選挙では野党連合「同盟」のフェルナンド・デラルアFernando de la Rúa(1937―2019)が当選。しかし、財政赤字解消のための政策がふるわず、3年以上にわたる景気後退や約1320億ドルに及ぶ公的債務を抱え、同国は経済危機に直面。2001年12月、生活物資を求める住民による暴動が広がり、主要閣僚が辞任、デラルアもまた辞任を余儀なくされた。同月23日、臨時大統領としてペロン党のアドルフォ・ロドリゲス・サアAdolfo Rodríguez Saá(1947― )が選出され、25日デフォルト(債務不履行)を実施した。任期は次期大統領選挙が実施される2002年3月となっていたが、その経済政策が反発をかい、就任後8日で辞任に追い込まれた。その後、国内情勢が不安定のまま、副大統領エドゥアルド・ドゥアルデEduardo Alberto Duhalde(1941― )が大統領に就任した。2003年4月に行われた大統領選挙ではペロン党から元大統領メネム、ネストル・キルチネルNéstor Carlos Kirchner(1950―2010)ら3人の候補が出るなど乱立し、5月キルチネルが当選、就任した。
1516年スペイン人として初めてソリスJuan Diaz de Solisがラ・プラタ川周辺を探検した当時,今日のアルゼンチン地域には約33万のインディオが居住していたと推定される。その多くは文化水準の低い,好戦的な遊牧民で,ソリス自身も原住民に殺害され,36年メンドサPedro de Mendozaによって建設されたブエノス・アイレス市も,原住民との抗争から5年後に放棄されている。市の再建は80年のガライJuan de Garayによる遠征を待たねばならなかった。この間ペルーやチリからの移住者の手で北西部と西部の開発が進み,1553年には最古の定住都市としてサンチアゴ・デル・エステロ市が建設された。しかしながら,反抗的なインディオに加えて,貴金属に乏しかったことや本国の厳しい貿易統制などが重なり,16~17世紀を通じて今日のアルゼンチンは比較的開発の遅れた地域にとどまっていた。わずかに牛皮の生産を主軸とする牧畜業が細々と営まれただけであった。
ラ・プラタ副王領と独立
ところが1776年に今日のアルゼンチンを中心に,ボリビア,パラグアイ,ウルグアイを含む広大な地域がリオ・デ・ラ・プラタ副王領として組織化された頃から地域の経済はにわかに活況を呈し始めた。なかでも副王領首都となったブエノス・アイレス市の港が本国との交易に開港されたことから,ヨーロッパ産品とパンパ畜産品との中継港として急成長を遂げた。しかし廉価な外国商品の流入により大打撃を受けた内陸部では港への反感が高まっていた。こうした地域間の対立が深まるなかで副王領内では啓蒙思想などの影響を受け,独立への志向がしだいに芽生え,とくに1806-07年にかけ副王領東部に対して試みられたイギリスの侵略を現地軍が打破したことは自治意識を著しく高めた。そしてナポレオンの侵略に伴う母国の混乱に乗じて10年5月25日,ブエノス・アイレス市の市議会は副王を廃し自治委員会の設置に踏み切った。だが,首都への反感などから,今日のパラグアイ,ウルグアイ,ボリビアの諸地域は委員会の権威を認めず,自治政府と戦端を開いた。この戦争が結果的に上述の諸地域をアルゼンチンから分離・独立させることになるのだが,副王領内の多くの州は16年7月9日トゥクマン市で開かれた議会でリオ・デ・ラ・プラタ諸州連合の独立を宣言し,独立戦争の遂行をサン・マルティンJosé de San Martín将軍にゆだねた。サン・マルティンは18年にチリ,21年にペルーをスペイン支配から解放するが,その間にアルゼンチンでは,中央集権派と連邦派の対立が激化し,20年後者の勝利は統一的な中央政府を瓦解させた。以後ブラジルとの交戦期(1826-28)を除き永らく中央政府不在の状態が続くが,連邦派のブエノス・アイレス州知事ロサスJuan Manuel de Rosas(在職1829-32,35-52)は,軍事力を背景に州内外の中央集権派を弾圧して事実上の国家統一を達成した。また同政府の打倒を目指した40年代の英仏両国による軍事干渉にも頑強に抵抗して撤兵をよぎなくさせた。しかしロサスの過酷な独裁政治には国民の批判が絶えず,52年ウルキサJusto José de Urquizaとの戦闘に敗れ失脚した。
ペロンの退陣後,ペロン派(ペロニスタ)と反ペロン派との間で熾烈な対立が生まれ,政情は極端に不安定となった。58年にペロニスタの支持を得て民選されたフロンディシArturo Frondizi大統領はペロン派の勢力拡大を恐れる軍部の手で62年に打倒され,66年にはイリヤArturo Illia大統領がほぼ同様な理由から失脚し,オンガニアJuan Carlos Onganía将軍の率いる軍政にとって代わられた。この軍政は,労働者とペロニスタを徹底的に弾圧し,インフレの克服と経済開発を図ったが,部分的にしか成功を収めず,軍政に対する国民の批判が高まるなかで,73年3月民政移管のための選挙が行われた。この選挙でペロニスタのカンポラHéctor José Cámporaが当選するが,彼の急進主義は党内外の批判を浴び,73年9月の再選挙を通じてペロンが18年ぶりに政権の座に返り咲いた。しかし,インフレとゲリラの暗躍に苦悩する祖国を再建するめども立たぬまま74年7月急逝し,夫人のイサベル・ペロンMaría Isabel Martínez de Perónが大統領に昇格した。政治に不慣れなイサベルは数々の失政を重ね,事態を憂慮した軍部は76年3月蜂起してビデラJorge Rafael Videla将軍が大統領に就任した。この軍政は人権抑圧の非難を国際的に浴びたが,厳しい弾圧政策によってゲリラ運動をほぼ壊滅させた。しかしインフレをはじめとする経済問題を克服するにいたらず,国民の不満は高じるばかりであった。82年4月ガルチエリLeopoldo Fortunato Galtieri大統領はフォークランド(マルビナス)諸島をイギリスから奪還することで国民の不満をかわそうとしたが失敗し,逆に国民の軍政批判を一挙に噴出させる結果となった。82年6月大統領に就任したビニョーネReynaldo Benito Bignone将軍は,民政移管の作業を急ぎ,83年10月大統領選の実施にこぎつけた。この選挙で勝利を収めた急進党のアルフォンシンRaúl Alfonsínは同年12月大統領に就任し,7年ぶりに民政が復活した。アルフォンシン政府は,激しいインフレや累積債務といった重荷を背負って苦しいスタートを切ったが,85年6月にはインフレ克服のために物価と賃金の凍結を含む厳しい安定政策(アウストラル・プラン)の実施に踏み切った。この政策は当初物価の鎮静化にある程度の成果をあげたが,のちに未曾有の物価上昇を招いて失敗に終わった。89年5月の総選挙では,ペロニスタのメネムが勝利し,インフレの克服に成功するが,引締めを基調とするその政策は失業率を著しく高めたことなどからしだいに国民の批判を浴び,97年10月の下院議員選挙では12議席を失った。 執筆者:松下 洋