日本大百科全書(ニッポニカ) 「ピウス」の意味・わかりやすい解説
ピウス(7世)
ぴうす
Pius Ⅶ
(1740/1742―1823)
ローマ教皇(在位1800~1823)。イタリア人。前名ルイジ・バルナバ・キアラモンティLuigi Barnaba Chiaramonti。ベネディクト会士。チボリとイモラの司教を歴任。1800年にベネチアで教皇に選挙された。1801年にナポレオンと政教協約(コンコルダート)を結んだ。その結果、革命後のフランスにカトリック教が復興した。1804年パリにおけるナポレオンの皇帝戴冠(たいかん)式に出席した。1808年フランス軍がローマに入り、翌1809年教皇領がフランス帝国に併合されると、ピウス7世はナポレオン1世を破門した。そのため逮捕されて、グルノーブル、サボナ、ついでフォンテンブローに投獄され、「フォンテンブローの政教協約」とよばれるガリカニズム(フランス国家教会主義)的な協約に調印させられた。だが彼はその後まもなく、暴力のもとで無理強いされたとして協約を撤回した。ナポレオン1世の没落後、ローマに帰還し(1814)、イエズス会を再建した。ウィーン会議で、枢機卿(すうききょう)コンサルビErcole Consalvi(1757―1824)の働きにより、教皇領を回復することができた。
[佐藤三夫 2017年12月12日]
ピウス(9世)
ぴうす
Pius Ⅸ
(1792―1878)
ローマ教皇(在位1846~1878)。イタリア人。前名ジョバンニ・マリア・マスタイ・フェッレッティGiovanni Maria Mastai-Ferretti。元スポレート大司教、イモラ司教、枢機卿(すうききょう)。1846年教皇に選挙されると、政治犯に恩赦を与え、イタリアの国民的統一運動を支持する態度を示したので、大きな人気を得た。「一八四八年の革命」が教皇領にも勃発(ぼっぱつ)すると憲法を認めたが、オーストリアに戦いを宣することを拒んだので、民衆の人気を失った。教皇の別荘クイリナーレ宮が革命的暴徒たちに襲われると、ガエタ(イタリア中南部、ラティーナ県の港町)に逃れた。フランス軍のローマ占領によって教皇領が回復されたあと、ローマに帰還した(1850)が、彼は自由主義的な政策を放棄した。その後、教皇の世俗権はしだいに減少していった。フランスのナポレオン3世が没落した1870年に、イタリア王の軍隊によってローマが占領されたが、ピウス9世は、新しいイタリア王国の承認や保障法を拒絶した。「聖母無原罪懐胎(無原罪の御やどり)」の教義を布告(1854)し、「誤謬(ごびゅう)表」を示して自由主義、社会主義、自然主義を非難し、教皇の不謬性を宣言した。
[佐藤三夫 2017年12月12日]
ピウス(11世)
ぴうす
Pius Ⅺ
(1857―1939)
ローマ教皇(在位1922~1939)。前名アキッレ・ラッティAchille Ratti。1879年司祭となり、教皇庁図書館館長、ポーランド駐在教皇大使などを歴任。枢機卿(すうききょう)およびミラノ大司教を経て教皇に選ばれた。1924年カトリック人民党と他の反ファシスト諸党との協力を禁じ、危機にあったファシズムを間接的に援助。人民党のかわりに「カトリック行動」という大衆団体の再建、強化に努め、海外布教とくに極東における活動に尽力した。ムッソリーニ政府と長期にわたる交渉を行い、1929年イタリア国家との和解(ラテラン協定)を実現、1933年にはヒトラーのドイツともコンコルダート(政教協約)を結んだ。1936年までファシズム体制に好意的であったが、その後ムッソリーニがナチスから導入した人種理論には批判的であった。また、教皇庁と折り合わないアクシオン・フランセーズとナチズムを非難し、とりわけ共産主義には敵対的であった。教皇庁の科学アカデミーを創設した。
[重岡保郎 2017年12月12日]
ピウス(10世)
ぴうす
Pius Ⅹ
(1835―1914)
ローマ教皇(在位1903~1914)。俗名ジュゼッペ・メルキオーレ・サルトGiuseppe Melchiorre Sarto。レオ13世(在位1878~1903)を継ぐ。前任者より近代思想に対し保守的であったとされるが、現実には「すべてをキリストのうちに再建する」という即位教書が示すように、司牧、典礼、秘蹟(ひせき)(サクラメント)、聖職者教育などの面で重要な改革を行い、教会法の法規改正に着手した(教皇死後1917年に完成)。第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)の危機を予見し、平和への発言を行ったが成功せず、開戦直後に死去。1954年、列聖。
[磯見辰典 2017年12月12日]
『J・ハヤール他著、上智大学中世思想研究所編訳『キリスト教史 第11巻』(1982/新装版・1991・講談社/改訂版・平凡社ライブラリー)』▽『P・G・マックスウェル・スチュアート著、高橋正男監修、月森左知・菅沼裕乃訳『ローマ教皇歴代誌』(1999・創元社)』▽『鈴木宣明著『ローマ教皇史』(教育社歴史新書)』
ピウス(12世)
ぴうす
Pius Ⅻ
(1876―1958)
第261代ローマ教皇(在位1939~1958)。ピオ12世ともいう。前名はパチェーリEugenio Maria Giuseppe Pacelli。イタリア人。司祭になったのち、とくに教会法と外交を専攻。第一次世界大戦後、駐独教皇大使。1925年から1935年に対独政教条約締結。1929年枢機卿(すうききょう)、1930年バチカン市国の国務長官に就任。1939年教皇に選出される。敬虔(けいけん)な信仰と高貴な人格に加え、天才的な頭脳の持ち主として多方面に指導力を発揮した。とくに共産主義を排斥し、大戦で荒廃した世界をキリストの愛と正義に基づく新秩序で復興しようとした。「現代世界における国家」(1939)、「平和と社会の混乱」(1947)の回勅などによって、「平和の法王」といわれた。
[越前喜六 2017年12月12日]
ピウス(2世)
ぴうす
Pius Ⅱ
(1405―1464)
ローマ教皇(在位1458~1464)。前名エネ・シルビオ・デ・ピッコロミニEnea Silvio de' Piccolominiといい、シエナの出身。諸教皇中もっとも優れた人文学者で、回想録をはじめ、歴史、地理、教育に関するおびただしい著作がある。長い間公会議至上主義者であったが、1460年教皇として教書「エクセクラビリス」Execrabilisを発布して教皇の至上権を認めた。1458年マントバに会議を招集し、西ヨーロッパ全体に対し、反トルコ十字軍の結成を呼びかけたが失敗した。だが、その文学的香りの高い訴えは後世に残った。ルネサンス教皇の一人として文化的業績のみが高く評価されるが、西欧キリスト教世界の統一こそが彼の終生の理想であった。
[磯見辰典 2017年12月12日]
『H・テュヒレ他著、上智大学中世思想研究所編訳『キリスト教史 第4巻』新装版(1991・講談社/改訂版・平凡社ライブラリー)』▽『鈴木宣明著『ローマ教皇史』(教育社歴史新書)』