シメオン(その他表記)Simeon

翻訳|Simeon

精選版 日本国語大辞典 「シメオン」の意味・読み・例文・類語

シメオン

  1. ( Simeon ) エルサレムに住んでいた老人。幼児イエスマリアに伴われてエルサレムの神殿にのぼった時、彼こそ待望の救世主だと認めて讚歌をうたって祝福した。新約聖書ルカ伝」第二章に見える。

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改訂新版 世界大百科事典 「シメオン」の意味・わかりやすい解説

シメオン
Simeon

古代イスラエル民族の伝統的な12部族の祖先,族長ヤコブの第2子(《創世記》29)。シメオンの名で呼ばれた部族はパレスティナでの定着に十分成功せず,ユダ部族に吸収されたが,後代の伝承世界では有力な役割を与えられた。ヨセフ物語ではユダとともに12人の兄弟の中では指導的な存在として描かれ,ユダヤ教時代にはユダとベニヤミンとならんで祖先の部族として有力となり,イエスの系図にも位置を占めた(《ルカによる福音書》3)。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「シメオン」の意味・わかりやすい解説

シメオン
Simeon, Charles

[生]1759.9.24. リーディング
[没]1836.11.13. ケンブリッジ
イギリス国教会聖職者。福音伝道の指導者で,ケンブリッジの宗教生活に消しがたい影響を与えた。ケンブリッジのキングズカレッジで教育を受け,副学寮長 (1790~92) をつとめた。 H.ベンと J.ベンの影響のもとに 1782年ケンブリッジのトリニティ教会に入り,以後死ぬまで牧師。イギリス国教会の有力なメンバーの一人であり,伝道,特にインドの伝道に力を注ぎ,ヘンリー・マーティンら,輩下の最優秀者を派遣。イギリス聖公会宣教協会 Church Missionary Societyの設立を援助 (99) 。そのほか,イギリス聖書教会 British and Foreign Bible Societyに参与私財を投じて宣教活動を推進,福音伝道を続けるためシメオン財団 Simeon Trostを創立 (1816) した。

シメオン[ストゥディオス]
Simeon of Studios

[生]949. パフラゴニア,ガラテ
[没]1022.3.12.
ビザンチンの神秘主義著作家。「新神学者」とも呼ばれる。初め皇帝に仕えたが,977年ストゥディオスの修道士となる。のちコンスタンチノープルに移り,同地の修院長となったが (981) ,独特の教説が批判を受けて小アジアのタルキトンに流され,ゆるされたあとも生涯を同地におくった。きわめて多くの著作があり,神秘家としては神の内在とその光を強調し,人間精神のいたりうる最高段階は神化であることを唱え,ヘシカズム (静寂主義) に理論的根拠を与えた。しかしその神学は同時にキリスト中心的で,聖餐の重要性が強調されている。

シメオン
Simeon

旧約聖書中の人物。ヤコブとレアの第2子。イスラエル 12支族のうち同名の支族の祖先 (創世記 35・23,出エジプト記1・2など) 。父ヤコブの命に従い穀物を求めてエジプトにおもむいた 10人の一人で,当時エジプト全国の司であった弟ヨセフの交換条件を受入れ,弟ベニヤミンがカナンからエジプトに連れてこられるまで人質となった (創世記 42・24) 。その支族はカナンの南方に向い,イスラエル 12部族の最南端に定住したらしいが (ヨシュア記 19・1~9) ,あまり目立たない小部族で,ついにはユダ族のなかに吸収されたと思われる。

シメオン[柱頭行者]
シメオン[ちゅうとうぎょうじゃ]
Simeon Stylites

[生]350頃.キリキア
[没]459
修道院生活ののち,アンチオキア近郊で孤独な隠者となり,苦行を求めて柱頭に起居する生活を始め,最初の柱頭行者となる。人々の尊崇を集め,三十余年の間,同時代に大きな影響を与えた。アンチオキア西郊モンス・アドミラビスでの柱頭行者シメオンは6世紀 (520~596) の人で別人。

シメオン[ダラーム]
Simeon of Durham

[生]1060頃
[没]1130
ベネディクト修道会士,イギリス中世の年代記作者。『ダラーム教会史』 Historia Dunelmensis Ecclesiae (1104/8) ,『イギリス諸王史』 Historia regum Anglorum et Dacorumの編者。

シメオン[テッサロニカ]
Simeon of Tessalonica

[生]?
[没]1429
テッサロニカの大主教。著述家。主著『すべての異端の排除と唯一の信仰に関する対話』 Dialogos kata pasōn tōn haireseōn kai peri tēs monēs pisteōsで,ここではラテン教会も異端として批判されている。

シメオン
Simeon(Symeōn)

聖霊の示しにより救い主を待望していたエルサレムの敬虔家。神殿で両親に伴われたイエスに出会い,その幼子を救い主と認め神への賛歌『ヌンク・ディミッティス』 Nunc dimittisを歌ってイエスとマリアにその将来を預言した (ルカ福音書2・25~35) 。

シメオン[メタフラテス]
Simeon of Metaphrates

10世紀頃のビザンチン教会の神学者。主著に『聖人伝』 Menologionがあり,教会有数の著述家であるが生涯についてはほとんど不明。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「シメオン」の意味・わかりやすい解説

シメオン(1世)
しめおん
Simeon Ⅰ
(864―927)

ブルガリアの公(在位893~913)、皇帝(在位913~927)。ボリス1世の第3子。コンスタンティノープルで教育を受け、修道士となったが、異教的政策をとって廃嫡された兄ウラディミルの後を受けて登位。894年以後ビザンティン帝国としばしば戦って勝利し、二度コンスタンティノープルを包囲する。913年には「ブルガリア人の皇帝」の称号を受けたが、917年のアケロス川の会戦以後、「ローマ人とブルガリア人の皇帝」と自称。彼の治下で第一次ブルガリア帝国は最盛期に達してバルカン半島の大半を支配し、ブルガリア教会は完全な独立教会となり、首都プレスラフPreslavは文化の中心となった。

[寺島憲治]

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世界大百科事典(旧版)内のシメオンの言及

【カラト・セマーン修道院】より

…シリア北部,アレッポ近郊にある5世紀末の修道院。シメオン修道院ともいう。現在は廃墟。…

【柱頭行者】より

…5世紀から10世紀にかけて,シリア,メソポタミア,エジプト,ギリシアなどに現れた。最初の柱頭行者はシリアのシメオンSymeōn(390ころ‐459)で,通常の修行方法に飽きたらず,他人に妨げられぬようにと柱にのぼったという。この修行方法はたちまちひろまり,徳を慕って人々がまわりに集まるなどして,孤独な修行方法という本来の目的は失われた。…

【ロシア文学】より

…この時期の時代区分をどのようにするかについては諸説があり,ソ連の文芸学者コージノフのように,国民文学としてのロシア近代文学の成立をナポレオン戦争時に置くという主張もあるが,ここでは西欧とのつながりを重視するという立場から様式史的に展望する。(1)バロック ピョートル大帝の登場以前に,宮廷詩人ポロツクのシメオンSimeon Polotskii(1629‐80)により,ポーランド=ウクライナのバロック文学がロシアに導き入れられた。彼は白ロシア出身で,キエフの神学校に学び,詩や劇の分野で数多くの作品を書いている。…

【シモン】より

…新約聖書中の人名。旧約聖書のシメオンに相当し,シモンはそのギリシア音写による。複数の同名人物が知られているが,おもなものは,(1)イスカリオテのユダの父,(2)イエスの兄弟,(3)十二使徒の一人で,熱心党のシモンと呼ばれる人,(4)クレネ人(びと)で,ゴルゴタに向かうイエスの十字架を無理に負わされた人,(5)魔術師シモン(シモン・マグス)などである。…

【神殿奉献】より

…この場面は〈マリアの潔めの式〉とも呼ばれ,イエバトのひな2羽が犠牲にささげられる。また,このとき神殿には聖霊の示しを受けているシメオンSimeonという名の老人がいたが,この幼子が主のつかわす救世主(メシア)であることを即座に理解し,イエスを腕に抱く。老預言者アンナもまた近寄ってきて幼子をたたえる。…

※「シメオン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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