イタリアの哲学者。シチリアのカステルベトラーノに生まれる。ピサの高等師範学校でヘーゲル哲学を学び、パレルモ、ピサ、ローマなどの大学で教える。クローチェと協力して約20年間『批評(クリティカ)』誌を発行、膨大な『イタリア百科全書』の発行責任者を務めた。1922年から1924年にかけてファシスト政府の文部大臣となり、いわゆるジェンティーレ改革を提案する。ファシズムの思想的指導者として影響力をもったが、ファシズム失墜後、ドイツ占領軍が樹立した傀儡(かいらい)政権に忠誠を誓ったため、裏切り者としてフィレンツェで殺害された。
クローチェとともにイタリア観念論の代表者であり、ヘーゲルの弁証法を「思惟(しい)されたもの」の弁証法として批判し、「思惟するもの」すなわち思惟の活動的な主観の発展、生成としての弁証法しかないと考える。超越的主観たるこの「アット・プーロ」(純粋活動)を中心とした「活動主義」は、主著ともいうべき『純粋活動としての精神の一般的理論』(1916)のなかで展開されている。歴史を思惟する活動の発展としてとらえ、その思弁的体系としての側面を重視し、哲学と哲学史を同一視するため、哲学史に関する著述も多く、それらは『イタリア哲学史』(1936)に収められている。教育学においては、自己形成に教育の重点を置くことによって、単なる技術主義を克服すると説く。
[大谷啓治]
イタリアの哲学者。観念論哲学を展開してクローチェとともに20世紀前半のイタリア思想界を代表した。クローチェは精神の活動を理論的行為と実践的行為に区分したが,ジェンティーレは理論と実践という二元論を否定し,精神の活動は現実に思惟する行為そのものであり,行為のなかに精神の現実態があると主張した。彼の行為主義的観念論は政治における直接行動主義を触発し,また国家の活動のなかに倫理的価値の具体化をみる倫理国家論はファシズムとの接近をもたらした。ムッソリーニ内閣が成立すると文相に登用(1922-24)され,ジェンティーレ改革として知られる教育改革を断行した。1925年にファシズムを支持する知識人宣言の起草者となり,これに反発して反ファシズム知識人の声明を出したクローチェと対立した。ファシズム体制のもとで《イタリアーナ百科事典》の編集責任者,イタリア学士院長などの要職を占めてファシズムの文化政策に深くかかわった。44年レジスタンス闘争の組織である愛国闘争団の一員に暗殺された。著書には《純粋行為としての精神の一般理論》(1916),《ファシズムとは何か》(1925)など多数がある。
執筆者:北原 敦
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…ちなみに,クローチェは1924年までは,ファシズムを秩序回復の政治力とみなして,ファシズムに支持を与えていた。 第3は,イタリア史の展開のなかでファシズムの出現を歓迎する解釈で,哲学者のジェンティーレや歴史家のボルペGioacchino Volpeによって主張された。この立場は,国家の形成と国民の組織化という点でリソルジメントは未完にとどまったとし,その未完のリソルジメントを継承し完成させる運動としてファシズムに積極的な支持を与えた。…
※「ジェンティーレ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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