抵抗を意味するフランス語。ここでは、第二次世界大戦において枢軸国の占領下に置かれた諸国における抵抗運動をさす。それは各地に起こったが、とくにフランスでは、早くから「レジスタンス」を名のる組織が現れただけでなく、運動は多様な展開を示し、フランスの解放に大きな役割を果たした。また占領下において、のちにレジスタンス文学とよばれるようになる詩や小説などの作品が生み出され、戦後の思想動向にも影響を与えた。こうして、レジスタンスというフランス語は、諸国の抵抗運動を広くさすことばとして用いられるようになった。事実、このような抵抗運動が各地で展開されたことは、第二次大戦の際だった特徴をなしており、戦争の推移や、諸国の戦後政治のあり方にも、重大な意味をもった。なお、ドイツやイタリアでのヒトラーやムッソリーニの権力に抵抗する運動は、それぞれ自国の体制に対するものであるから、いちおうここでは除外して考え、また、アジアにおける日本の占領地支配に抗した運動は別の局面の問題として、ヨーロッパ方面に限定してみることにする。
[加藤晴康]
1940年4~6月、ドイツ軍の進出とともに、敗北した諸国では、国王とその政府が曲がりなりにも43年まで存続し戦前の統治機構が比較的温存されたデンマークを除いて、ドイツ軍の占領ないしはそれに協力するファッショ的政権の支配下に置かれた。ノルウェーでは国王がイギリスに亡命して、親ナチスのクビスリングが権力を握り、オランダもまた女王とその政府はロンドンに亡命、ドイツ軍は、オランダ国家社会主義党のムッセルトAnton Adriaan Mussert(1894―1946)を押し立て、彼はやがて42年に国家指導者(ヒューラー)を名のる。ベルギーでは、国王レオポルド3世は国内にとどまったが、自らをドイツ軍の「捕虜」とみなしてそれへの協力を拒否、ピエルロ首相以下の閣僚がロンドンに逃れて、保持する軍事力をイギリス軍と協力させた。このように、戦争初期からロンドンには敗れた諸国の亡命政権が集中した。イギリスはこれを保護するだけでなく、亡命政権が本国の支持勢力との間に有するひそかなつながりなどを情報活動やさらには破壊工作などに活用すべく、経済戦争省の下に新たに特殊作戦部(SOE)を設置して協力させた。これらの活動は、抵抗運動の重要な一環を構成することとなる。
フランスは、降伏とともに結ばれた休戦条約(1940年6月22日)により、国土が大きく南北に分割され、北部はドイツ軍の直接占領下に置かれ、南部はペタン元帥がビシーに政府を置き、いわゆるビシー体制を敷いた。しかしこれに対し、6月18日にロンドンに逃れたドゴール将軍が、その日の夕方よりBBC放送を通じてフランスの降伏を認めないよう訴え始めていて、まもなくロンドンで「自由フランス軍」を組織して抗戦継続を目ざした。先に述べた諸国の場合、敗戦当時の合法政権がロンドンに存続して、国民はこれを支持するか、あるいはドイツ軍やこれに追随する権力に従うか、という選択の前にたった。しかし、フランスの場合はそれと異なり、ロンドンで抗戦を訴えたドゴールは、政府と軍の決定を無視した一介の「脱走軍人」にすぎず、多くのフランス人はドゴールの名さえ知らなかったという。この点はフランス・レジスタンスの展開に大きな特徴を与えている。
フランス国内での抵抗運動は、北部では、占領初期から武器の隠匿、占領行政へのサボタージュ、南北の境界や国境を越えての脱走や連絡ルートの形成、反占領軍ビラやパンフレットの発行など、比較的小グループによる自発的で直接的な地下活動が生み出されていった。そうした動きのなかで、パリの人類博物館を中心にする若い知識人グループが、1940年12月15日を第1号とする『レジスタンス』と題する新聞を発行したことは、このことばが人々の活動の自覚的表現となったことを示すものとして注目される。他方、南部はビシー政府の下にあり、その体制、あるいは、そこに結集するファシズム的潮流に反対することが、まず第一の課題となった。したがってここでは、社会主義や労働運動の活動家、キリスト教民主主義者などによる比較的大きなグループが組織され、その活動も、占領軍との絶えざる対決に進んだ北部の運動よりは、政治的ないし思想的な運動という性格が強かった。南部がドイツ軍の直接占領下に置かれ、運動の性格も大きく変わったのは、42年11月以降のことである。なお、41年6月の独ソ戦開始以後、共産党が明確に対独抵抗へと進み、武装行動を含む活動に入ったことは、フランスばかりではなく、諸国の抵抗運動にとって重要な意味をもった。
1942年末のドイツ軍による南北全面占領ののち、運動は急速に多様な広がりを示すようになった。一つは、これまでビシー政府の下にあった軍人たちの多くが抵抗運動に入ったこと、いま一つは、ドイツ軍による義務労働徴用(STO)を拒んで、若者たちが数多く山岳地帯などに逃れてマキを形成したことである。これら若者の活動は、レジスタンスの底辺を拡大するとともに、一面では、自発的でダイナミックな力を運動にもたらした。
国外にあったドゴールは、連合国に自己の地位を認めさせるためにも、国内レジスタンスの支持を不可欠とし、諸運動の統合に努めた。そのために活動したのがジャン・ムーランJean Moulin(1899―1943)であり、1941年末より国内に潜入した彼の努力により、まず南部諸組織がレジスタンス統一運動(MUR)に結集、北部諸運動の連携もしだいに進んで、43年5月27日、パリでひそかにレジスタンス全国評議会(CNR)の結成会議が開かれた。こうして、ドゴールはフランス国民の解放の指導者としての権威を確立していった。しかし、レジスタンス内部で生まれた、自らの解放は自らの手で、という志向は、国内レジスタンスの諸運動とドゴールとの間に、また諸運動内部でも、運動のあり方をめぐってしばしば対立を生んだ。44年8月のパリ蜂起(ほうき)は、一面ではこのような解放に向かっての主導権争いによっていっそう劇的なものとなっている。
連合国あるいは亡命政権による戦争遂行の枠を超えた自発的な抵抗の動きは、先にあげた諸国でも多かれ少なかれ現れている。フランスはもちろん、それらの国でもその動きは、単にドイツ軍からの解放というだけでなく、国を敗北に導いた戦前の体制への批判、解放による新しい政治・社会への願望をはらむものとなり、そのことは戦後政治の大きな争点となった。イタリアではとくにそれが強く現れている。イタリアは1943年7月ムッソリーニが失脚してのち、連合軍に降伏(9月8日公表)したバドリオ政権の下の南部と、ドイツ軍が進駐してムッソリーニを再度押し立てた北部に分かれたが、この北部で、激しいパルチザン戦の様相を呈したレジスタンスが展開された。レジスタンス諸運動は、ファシズム体制につながっていたバドリオ、あるいは国王権力の復活に同ぜず、国民解放委員会(CLN)を結成して、北部をしだいに自力解放するとともに、同委員会による臨時政府樹立の意志を示した。連合国が承認した国王・バドリオ政権と解放委員会の間では、とくに共産党の方針転換により44年4月に妥協が成立(サレルノ転回とよばれる)するが、なお北部で戦うレジスタンスと中央政府との葛藤(かっとう)は絶えず、王政存続の是非、戦後改革の方向をめぐる戦後政治の焦点に連なった。イタリアの解放は、45年4月ミラノの一斉蜂起により最終局面を迎えるが、パルチザンに捕らえられたムッソリーニを、北部解放委員会は連合軍に引き渡すより自ら処刑することを選んだのであった。
[加藤晴康]
ナチス・ドイツの人種政策が、ユダヤ人やロマなどを露骨な隔離・排除政策の対象としたことは知られているが、ヨーロッパの東側では、とくにポーランドに現れたように、非ゲルマン系民族を「アーリア人」に奉仕すべき劣等民族として位置づけ、兵力・労働力として動員する一方、政治的にも文化的にも民族としては解体する厳しい政策がとられた。したがって、東ヨーロッパでは抵抗運動は、西ヨーロッパよりも全体的にみて苛烈(かれつ)な武装闘争として現れた。ユーゴスラビア(当時)の場合、軍隊の士官将校のなかからミハイロビチによりチェトニクとよぶ地下組織がつくられ、彼はロンドンに亡命した国王政府により最高司令官に任じられた。しかし、多民族国家ユーゴスラビアで露骨にセルビア人優先を打ち出し、旧権力温存を図るミハイロビチとは別に、ユーゴ共産党のチトーを中心に独自の抵抗運動が組織され、諸国レジスタンスのなかではもっとも活発なパルチザン闘争が展開された。この闘争は、ほとんど全土の自力解放を成し遂げ、チトーは新しい解放政権の指導者となった。ミハイロビチは、このパルチザンと敵対するため、枢軸側とひそかに協力することも辞せず、ロンドンの信用をも失って失墜した。一方、チトーは、ユーゴ共産党を自己の統制下に置こうとするソ連の圧力にも従わず、戦後、ソ連による東ヨーロッパの社会主義化の動きのなかで独自の地位を占めた。
抵抗運動が悲劇的な展開をみせたのはポーランドの場合であった。ここではロンドン亡命政府の支持の下に、早くから抵抗組織が生まれ、1944年には共産党を除く諸党代表による国民統一評議会が組織された。同年8月、ソ連軍の進撃に呼応しつつ、ワルシャワの自力解放を目ざして、同市の共産党系の人々をも含めた一斉蜂起が起こされたが、この蜂起は、目前に迫ったソ連軍の援助も得られないままに、約2か月間の激しい市街戦ののち、ワルシャワをほぼ廃墟(はいきょ)と化したドイツ軍の攻撃によって壊滅した。結局ポーランドは、ソ連軍によって外から解放され、戦後権力の担い手は、モスクワで亡命共産党員らを軸に組織された解放委員会(通称ルブリン委員会)がその任についた。
チェコスロバキア(当時)の場合は、ロンドン亡命政府(ベネシュ大統領)とソ連との協調もあり、武装闘争自体が戦争末期の限られた局面で現れたこともあって、レジスタンスの内部抗争はそれほど表面に現れなかったが、ギリシアでは、国内レジスタンスの抗争に、戦後権力形成をめぐってイギリスが介入し、解放後、共産党系と国王政府系との内戦を引き起こした。こうして、東ヨーロッパでも、抵抗運動のなかで人々の自らの解放と新たな社会改革への志向は、むしろ、長く他国の従属下にあった地域だけに西ヨーロッパよりは強く現れたといえるけれども、それだけに、人々を指導する国家権力、あるいは政治組織のあり方、とりわけ戦後のソ連が主導した社会主義化の過程に、大きな問題を投げかけるものとなったのである。
なお、ソ連内のドイツ軍占領地域でのパルチザン闘争は、ソ連の戦争遂行の一環として無視できないし、また、諸国のユダヤ人の抵抗運動もあり、さらに、植民地でも、イタリア支配下のエチオピアにみられたような抵抗運動が存在したことは、戦後の民族運動などとの関連で注意すべきことであろう。
[加藤晴康]
『ドゴール著、村上光彦他訳『ドゴール大戦回顧録1~6』(1960~66・みすず書房)』▽『淡徳三郎著『レジスタンス――第二次大戦におけるフランス市民の対独抵抗史』(1970・新人物往来社)』▽『加藤晴康・木戸蓊『ヨーロッパにおける対独抵抗運動』(『岩波講座 世界歴史29』所収・1971・岩波書店)』▽『海原峻編『ドキュメント現代史8 レジスタンス』(1973・平凡社)』▽『北原敦『イタリアのレジスタンス』(東京大学社会科学研究所編『ファシズム期の国家と社会8 運動と抵抗 下』所収・1980・東京大学出版会)』▽『E・ダスティエ著、井上堯裕訳『パリは解放された』(『ドキュメンタリー・フランス史』1986・白水社)』▽『H・ミシェル著、淡徳三郎訳『レジスタンスの歴史』(白水社・文庫クセジュ)』▽『H・ミシェル著、霧生和夫訳『地下抵抗運動――1938-1945』(白水社・文庫クセジュ)』
第2次世界大戦期,枢軸国,とくにドイツの占領下に置かれた諸地域において起こった,占領支配に対する抵抗運動。広義には,中国の抗日闘争をも含めて,アジア諸地域における日本の占領支配への抵抗にも,この言葉が用いられることがあるし,また他方,ナチズムに対する抵抗というような,ファシズム体制へのそれぞれの国の反対の動きに関して用いられる場合もあるが,後者は反ファシズム運動として扱われるものであり,ここではヨーロッパに限定して占領支配への抵抗の意味でみていくことにする。
フランス語のこの言葉が上のように一般化して用いられるようになった端緒は,フランス降伏後の1940年6月18日,ロンドンに逃れたド・ゴールが,BBC放送を通じてフランス国民に呼びかけた〈フランスのレジスタンスの炎は消え去ってはならないし,また消えることはないであろう〉という言葉にあるとされている。また,その年の暮れには占領下のパリで,のちに〈人類博物館グループ〉として知られることになる知識人グループ(ボリス・ビルデ,ポール・リベら)が,《レジスタンス》と題する非合法の新聞を発行し,この言葉を自覚的に運動の表現として用いている。当初,ド・ゴールのこの言葉は,フランス政府が降伏したにもかかわらず,ほとんど無傷であった海軍や植民地在留の軍隊を基礎にして,ドイツに対する〈抗戦〉の継続を訴えたものにほかならなかった。しかし,その後,ドイツの占領下ないしこれと協力するビシー政府の下にある国内で,多様な形態の抵抗運動が展開されるとともに,ド・ゴールの言葉は象徴的な意味をもつようになったのである。
→レジスタンス文学
フランスにとどまらずヨーロッパ諸地域で,〈ヨーロッパ新秩序〉を唱えるナチス・ドイツの占領支配の拡大と進行に伴い,いたるところでさまざまな抵抗運動が生み出されていった。その形態や性格は,地域やそれを担った人びとによって多様である。一般的にいって北・西ヨーロッパでは,ドイツの占領支配は,これらの地域の諸国で早くからつくり出されていた国民国家の秩序体系や支配機構にあまり手をふれず,むしろこれを利用しようとした。フランスでは,アルザス地方が南北二つに大きく分断されて北部がドイツ軍の直接占領体制下に置かれたけれども,南部はいわゆる〈自由地帯〉の名でビシー体制がまがりなりにも合法政権として存続した。こうした状況は,占領体制に協力を強いられた旧来の支配機構内の人びとにある程度の面従腹背の姿勢をとらせる余地を残すとともに,抵抗運動にも,政党や産業組織など既成の構造に依拠し,それに枠づけられる傾向を生んだ。そうした方向の運動にとって,占領支配からの解放は戦前の秩序や権威の回復にほかならなかった。オランダやノルウェー,それに東南ヨーロッパのギリシアやユーゴスラビアの国王などが亡命し,ロンドンに多くの亡命政権が集まったが,これを支持して組織された抵抗運動の多くはそうした性格を強くもった。しかし,その組織でも,国外と国内,また上部と下部にはしばしばくいちがいが生じた。
上のような地域でも,敗戦と占領支配,世界的規模で拡大する戦争の継続に伴う軍事体制の強化は,旧来の国家-社会構造に一定の解体をもたらさずにはおかなかった。そして,それに応じて占領体制に直面する民衆の独自のたたかいが生み出されていった。とくにレジスタンスの開始は,占領支配のなかで既成の秩序からの断絶を見いだした無名の人びとによって多く担われたといってよい。敗戦により部隊を離れた兵士の武器の隠匿,捕虜となった兵士の脱走とその援助,分断された境界や国境を越えての脱走や連絡ルートの形成,食糧切符のひそかな確保や偽造,反占領軍ビラやパンフレットの出現,こうした動きのなかから,しだいに地方的グループや地方の枠を超えたつながりをもつ組織も形成されている。それは前線で軍隊が対峙し交戦する戦争ではなく,人びとが日常に占領支配と直面するなかでそれぞれの内部でつくり出す前線,〈沈黙〉による拒絶に始まり占領軍との日常の関係において現れる見えない前線でのたたかいであった。
フランスの場合,自由地帯ではカトリック系や社会党系などの人びとにより,比較的早くから〈リベルテ〉(のち〈コンバ〉)や〈解放〉,〈フラン・ティルール(義勇兵)〉などの大きな組織が生まれていたのに対し,北部では組織的結集は緩慢で,むしろ初期には小グループが散在する様相を示していたのは,ドイツ軍の直接支配下の状況の厳しさのゆえでもあるが,上のような無名の人びとの自発的なイニシアティブが大きな要因を占めていたからでもある。のちレジスタンスのなかで重要な位置を占めるようになる共産党は,1941年6月22日の独ソ戦開始までは,ファシズムとの対決というよりは独ソ不可侵条約のもとで〈平和〉の維持を唱え,イギリスなどの〈戦争政策〉を非難してもいたのであった。
東ヨーロッパ方面では,〈パルチザン戦争〉とか〈解放戦争〉という呼名が戦時期には支配的になったことに示されるように,抵抗運動は苛烈な武装闘争に集約されていく様相を多く示した。この方面では,ナチス・ドイツの人種政策によってユダヤ人やジプシーが厳しい隔離・排除の対象となったばかりではなく,ポーランドの場合とくに露骨に示されたように,人びとをドイツ人=〈アーリア民族〉に奉仕すべき劣等民族として位置づけ,農作物や原料生産のための労働力以上のものとはみないで,政治的・経済的また文化的にも民族としては解体していく政策がとられ,過酷な占領政策がとられた。この地域の抵抗運動の性格には,こうした状況が密接に関係して現れている。
しかし,抵抗が明確に武装闘争の局面に入っていくのは,東ヨーロッパでも独ソ戦開始以後のことであった。ユーゴスラビアではその5日後の6月27日,チトーの指導の下に人民解放パルチザン軍が結成され,占領軍との全面的な武装対決に進んでいった。ドイツ軍が深く国内に侵入し,ウクライナなどを占領されたソ連でも,パルチザン戦が各地で展開された。ただ,ソ連の場合にはゲリラや破壊工作などパルチザンの活動も,祖国防衛戦争の名で戦われる対独戦争の正規の軍事行動の一環として位置づけられており,他の諸国のパルチザン戦争とは大きく性格を異にしている(大祖国戦争)。
ユーゴスラビアをはじめ多くの東ヨーロッパ諸国は,第1次世界大戦に至るまでオーストリア・ハンガリー二重帝国の支配下にあり,あるいはポーランドのように長く民族的に分断支配されていて,民族としての自立性を奪われていた。また,独立後もその社会構造は西ヨーロッパの列強を中心とする国際的な支配構造に従属した性格を強く有していた。したがって,抵抗運動の展開とともに人びとの前には解放の課題が単に占領軍支配からの脱却というだけではなく,旧来の支配構造からの脱却と民族の自立性の獲得として強く現れた。ユーゴスラビアの場合,ロンドンに亡命した国王権力につながったチェトニクと呼ばれる抵抗組織があった。これは多民族国家であるこの国においてセルビア人支配を背景に,地主,軍隊の権力を引き継ぐ性格を有しており,チトーの率いるパルチザン軍と衝突して占領軍側と通じたりもした。パルチザン軍はこうしたチェトニクとの対決を乗り越えてユーゴスラビアの自力解放をなしとげ,戦後の新しい体制を準備していった。抵抗は,パルチザンに参加しあるいはそれを支持した農民たちにとって,オスマン帝国の支配に抗したかつての民族的誇りを回復し,義賊たち(ハイドゥク)の伝説を呼び覚まし,みずからの解放をかちとるためのたたかいだったのである。
西ヨーロッパにおいて,フランスの場合には,ド・ゴールがロンドンにおいて武装勢力たる〈自由フランス軍〉を組織した。それはビシー政府とは一線を画し,フランスを敗北に導いた軍とは異なる新しい機構による組織が目ざされた。しかし,それは植民地などに温存されていた軍隊などをド・ゴールの下に結集し,正規の軍として連合軍の一員に参加させることを目標にしたものであった。他方,国内ではレジスタンス諸組織によって武装組織が生み出され,占領軍に対する武装闘争も小人数のゲリラ的活動が拡大していった。とくに1942年から43年にかけてドイツ軍によって〈義務労働徴用(STO)〉制度が敷かれ,これを拒否する人びとがマキを形成するようになって,その活動は大きくひろがった。マキはフランスのレジスタンスに新しい特徴を与えたものである。おもに青年層からなるこの人びとは,土地に根ざし,規律にはあまりなじまないが活動的で,山岳や森林地帯で自由の気風を培い,独特の性格を備えた自分たちのなかからの指導者を生み出していった。先に触れた,人びとのそれぞれの〈前線〉のたたかいからこのようなマキの活動に至る,あるいはその他さまざまにたたかわれる抵抗運動のなかで,戦争は単なる国家と国家の戦争の枠を超え,占領軍からの解放にとどまらない,人びとの自立的な解放の課題が,フランスでも,また多かれ少なかれ諸国においても表現されるようになっていったのである。
長くファシズム体制の下にあったイタリアでは,1943年7月ムッソリーニが失脚し,その後で樹立されたバドリオ元帥の政権の下で9月に連合軍との間に休戦協定が調印された。その結果,南部に連合軍が進出するが北部はドイツ軍の占領下に置かれ,この北部において,パルチザン闘争が展開された。イタリアのレジスタンスの局面はここに始まる。連合軍によっていわば〈外から〉解放され,国王権力を頂くバドリオ政権の下に置かれた南部と,パルチザン闘争によってレジスタンス勢力が自立的な解放を多くの地域でなしとげ,ファシズム体制を超える新しい戦後のあり方をそのなかから生み出しつつあった北部と,この違いのなかで両者の合体によって生まれた解放後のイタリアの権力のあり方は,ファシズムを支えていた既成の支配構造の清算の問題を,戦後に持ち越さざるをえなかったのであった(〈反ファシズム〉の項目を参照)。
1944年8月のパリ解放は,ド・ゴールとパリ解放委員会を軸にするレジスタンス勢力との主導権争いを含みながら,連合軍の意図を超えてフランス人によるみずからの手による解放という,国民蜂起の形をとって実現された。しかし,これと悲劇的な対照をなしたのは,ポーランドのワルシャワ蜂起であった。ポーランドでは,ロンドンに亡命した親西欧政権を支持する抵抗組織が早くから国内に組織され,その下に〈国内軍(AK)〉と呼ばれる軍事組織も編成されていた。このAKによって44年8月1日,ワルシャワで一斉蜂起が開始された。この蜂起には,亡命政府系の組織ばかりではなく,これに批判的な組織や市民も多く参加した。しかし,期待した連合軍の援助はほとんどなく,ソ連軍の進撃もないままに,蜂起はドイツ軍によって市街をほとんど廃墟と化して2ヵ月の戦闘の後に鎮圧された。ワルシャワは結局翌年の1月17日,ソ連軍によって外から解放された。
他方,ギリシアでは共産党系が有力なレジスタンス勢力に対し,イギリスの後押しをうけた国王権力とそれにつながる軍組織の間に,大戦終了後,激しい内戦が続けられ,これは戦後の東西対立=冷戦の直接の焦点となった。
レジスタンスに示される第2次世界大戦下の人びとの自立的なたたかいの展開は,この大戦の際だった特徴をなし,この大戦の性格に単なる連合国対枢軸国という旧来の国家間の戦争の図式ではとらえられない新しい内容を付与した。諸国の戦後の政治や社会のあり方は,それらの国々の解放のあり方が決定的に左右したといってよい。
→パルチザン
執筆者:加藤 晴康
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…広義には,中国の抗日闘争をも含めて,アジア諸地域における日本の占領支配への抵抗にも,この言葉が用いられることがあるし,また他方,ナチズムに対する抵抗というような,ファシズム体制へのそれぞれの国の反対の動きに関して用いられる場合もあるが,後者は反ファシズム運動として扱われるものであり,ここではヨーロッパに限定して占領支配への抵抗の意味でみていくことにする。 フランス語のこの言葉が上のように一般化して用いられるようになった端緒は,フランス降伏後の1940年6月18日,ロンドンに逃れたド・ゴールが,BBC放送を通じてフランス国民に呼びかけた〈フランスのレジスタンスの炎は消え去ってはならないし,また消えることはないであろう〉という言葉にあるとされている。また,その年の暮れには占領下のパリで,のちに〈人類博物館グループ〉として知られることになる知識人グループ(ボリス・ビルデ,ポール・リベら)が,《レジスタンス》と題する非合法の新聞を発行し,この言葉を自覚的に運動の表現として用いている。…
…30年代半ばになると,ファシズムに対抗,阻止するものとして人民戦線が提起され,人民戦線が反ファシズムの主要なあり方とみなされる時期が生じる。第2次大戦の勃発後,ドイツとイタリアに占領された国々で占領軍に対するレジスタンスが起こり,ここでは反ファシズムとレジスタンスの関係が重要なものとなった。第2次大戦での連合国軍の勝利およびレジスタンスによる解放を通じて,ドイツ,イタリアなどのファシズム政権は崩壊し,また諸国におけるファシズム勢力も弱体化して,第2次大戦の終了とともに運動としての反ファシズムは一つの区切りを迎える。…
…低木林の中は見通しが悪く,野バラなどのやぶによって通行が妨げられるので,マキは昔からよく犯罪者の隠れ家になっていた。【佐藤 久】
[レジスタンスにおけるマキ]
18世紀中葉,コルシカがフランスの統治下に入って以後,その支配や導入される新しい法秩序になじまず,それと衝突したり,また,旧来の社会的紐帯が揺らぐなかで,かつての共同体の掟の行使が私的な争闘に転化して犯罪者として追われる人びとが増加した。こうした人びとがしばしば島内のマキに隠れすみ,〈山賊〉化し,19世紀のロマン主義的風潮のなかで,ときに,義賊,英雄のイメージで描かれた。…
※「レジスタンス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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