昭和・平成期のプロレスラー。本名・馬場正平(しょうへい)。新潟県三条市生まれ。高校2年時に読売ジャイアンツにスカウトされ、1955年(昭和30)、プロ野球界に入る。2メートルを超す長身投手として1957年には一軍で登板する機会を得るが定着できず、1960年1月に肘(ひじ)のけがでプロ野球選手生活を断念。一時は帰郷も考えたが、4月に友人のつてで東京・日本橋浪花(なにわ)町(現、日本橋富沢(とみざわ)町)の力道山道場を訪ね、プロレスラーに転向。同年9月30日、台東区体育館で田中米太郎(よねたろう)とのデビュー戦に勝利し、早くから力道山の後継者候補として注目を浴びた。1961年7月、プロレスリングの本場アメリカに武者修行に出されて活躍し、当時アメリカにあった4大世界選手権のうちの三つ(NWA、WWWF、WWA)に連続挑戦するという快挙を成し遂げて1963年3月に凱旋(がいせん)帰国。同年12月に力道山が暴漢に刺殺されたときは二度目のアメリカ遠征中であったが、所属していた日本プロレスと日本テレビの要請に応じて1964年4月に帰国し、以降は日本プロレスのエースとして力道山没後の日本プロレス界を牽引(けんいん)した。1965年11月には力道山が残したインターナショナル選手権を獲得し、日本テレビが独占放送していた「日本プロレス中継」の顔として、幅広い世代に親しまれる人気者の地位を築いた。
1972年7月、日本プロレスに辞表を提出して独立し、9月に日本テレビの全面的な資金バックアップを受けて「全日本プロレス」を設立し、社長兼エースとして活躍。1974年12月には世界最高の権威を誇ったNWA世界ヘビー級選手権を日本人として初めて獲得したほか、ジャンボ鶴田(本名・鶴田友美(ともみ)。1951―2000。1972年入門)、天龍(てんりゅう)源一郎(本名・嶋田源一郎。1950― 。1976年入門)、三沢光晴(みつはる)(1962―2009。1981年入門)など多くの優れた後進を育てて経営基盤を盤石にした。現役レスラーとしては、50歳ころからメインイベントの座を弟子たちに譲ることが多くなったが、「生涯現役」をモットーに60歳を過ぎてもリングに上がり続けた。平成11年1月31日、大腸がんによる肝不全のため61歳で死去。4月に日本武道館で開催された「お別れの会」には日本各地から1万人を超す馬場ファンが献花に訪れて、往年の国民的ヒーローぶりを証明した。
[流 智美 2022年11月17日]
昭和・平成期のプロレスラー 全日本プロレスリング社長。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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…力道山は62年に日本人で初めてWWA世界チャンピオンになったが,63年に不慮の死を遂げた。その後一時低迷したが,元プロ野球巨人軍投手で身長2.09mの巨漢ジャイアント馬場の登場,さらにアントニオ猪木の台頭,元柔道日本一の坂口征二の転向などによって人気を挽回した。72年にアントニオ猪木が新日本プロレスを,ジャイアント馬場が全日本プロレスを結成し,以後は2団体を中心とした時代へ移行した。…
※「ジャイアント馬場」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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