スベルドロフ(英語表記)Yakov Mikhailovich Sverdlov

改訂新版 世界大百科事典 「スベルドロフ」の意味・わかりやすい解説

スベルドロフ
Yakov Mikhailovich Sverdlov
生没年:1885-1919

ロシアソ連邦の党活動家。ニジニ・ノブゴロド職人の子。1901年ロシア社会民主労働党入党。この年M.ゴーリキーの追放抗議デモに参加し最初の逮捕。以後流刑,脱走を繰り返す。05-06年エカチェリンブルグ(24-91年,彼にちなんでスベルドロフスク改称),ウラル地方の党組織を指導した後,反動期のモスクワペテルブルグ等で活動。12年プラハでの第6回党協議会後,流刑で不在のまま中央委員に補選され,ロシア・ビューローの一員となる。17年,二月革命後首都ペトログラードに戻り,エカチェリンブルグ派遣を経て党の四月協議会後,中央委員会書記となり,十月武装蜂起参画。革命後初代の全露中央執行委員会議長,憲法制定専門委員会議長に就任。ブレスト講和問題等ではレーニンにくみした。19年3月病没。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「スベルドロフ」の意味・わかりやすい解説

スベルドロフ
すべるどろふ
Яков Михайлович Свердлов/Yakov Mihaylovich Sverdlov
(1885―1919)

ロシアの革命家。ユダヤ人銅版職人の家庭に生まれる。1901年ロシア社会民主党に入り、同年、生地ニジニー・ノブゴロドからの作家ゴーリキーの追放に抗議するデモに参加して逮捕された。以後、職業革命家として各地で活動し、05年の第一革命期にはウラルのエカチェリンブルク(スベルドロフにちなんで1924~91年はスベルドロフスクとよばれた)などで党組織を指導、17年の二月革命まで再三再四逮捕され、長い獄中、流刑生活を送った。17年、党の4月協議会で中央委員会書記に選ばれ、中央と地方組織との連絡調整、要員の配置、首都における十月蜂起(ほうき)の準備と推進に組織者としての手腕を発揮した。十月革命後、中央委員会書記にとどまったまま全ロシア中央執行委員会議長(国家元首に相当)を兼任、憲法の制定や中堅党員の養成にも尽力した。各地を遊説中病気にかかり、モスクワにおいて33歳の若さで死去した。

[原 暉之]

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百科事典マイペディア 「スベルドロフ」の意味・わかりやすい解説

スベルドロフ

ロシア・ソ連の共産党活動家。ニジニ・ノブゴドロの職人の子に生まれる。1901年ロシア社会民主労働党に入党し,M.ゴーリキー追放抗議デモに参加して逮捕され,以後流刑,脱走を繰り返す。ウラル地方の党組織を指導後,モスクワ,ペテルブルグで活動,流刑中の1912年に党中央委員に選出される。1917年の二月革命後ペトログラードに戻り,エカチェリンブルグ(1924年から1991年まで,彼の名にちなんでスベルドロフスクと改称)派遣を経て四月協議会で中央委員会書記となる。十月革命の武装蜂起に参画,初代全露中央執行委員会議長となり,ブレスト講和問題(ブレスト・リトフスク条約)などでレーニンを支持した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スベルドロフ」の意味・わかりやすい解説

スベルドロフ
Sverdlov, Yakov Mikhailovich

[生]1885.6.3. ノブゴロド
[没]1919.3.16. モスクワ
ロシアの革命家。 1901年革命運動に参加し,05年の革命にはウラル地方で活動。 12年社会民主労働党中央委員となり,ボルシェビキの機関紙編集を担当。 17年の二月革命後党書記になり,十月革命の指導に参画。革命後ソビエト中央執行委員会議長に就任。

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