塩を原料として、ソーダ灰(ばい)(無水炭酸ナトリウム)、カ性ソーダ(水酸化ナトリウム)、塩素および各種塩化物を生産する基礎素材産業。アルカリ原料の大部分はソーダ製品であるので、一般にはアルカリ工業と同一視されている。主原料の岩塩は全量輸入に依存し、塩水の電気分解による電解ソーダ工業は電力と重油を大量に消費するエネルギー多消費型産業である。わが国では、おもな用途として、ソーダ灰は半数以上がガラス製品・板ガラスの原料に用いられ、その他無機薬品や油脂製品の製造等に、カ性ソーダはせっけん・洗剤、化学繊維、アルミニウムの原料、その他工業薬品の製造等に、塩素は塩化ビニルや塩素系溶剤、医薬品の製造、その他水道水の殺菌等に利用されている。
[殿村晋一]
ソーダの利用は、ヨーロッパでは、羊毛の染色や洗浄用せっけんの製造に天然ソーダまたは木灰を加えたことに始まるが、18世紀に入るとせっけんやその他の化学工業におけるソーダ需要が拡大し、1791年フランスのN・ルブランが食塩からソーダ灰をつくる方法(ルブラン法)、1861年にはベルギーのE・ソルベーがアンモニアソーダ法(ソルベー法)によってソーダ灰とカ性ソーダの製造法を実用化し、ソーダ灰製造では現在でもこの方法によっている。1890年にはドイツで塩水の電気分解によってカ性ソーダ、塩素、水素を製造する電解法が開発された。電解法には従来隔膜法(NaOH純度96~97%)と水銀法(純度99%以上)があり、高純度のカ性ソーダが得られる水銀法が第二次世界大戦後一般化したが、現在は1970年代に実用化した、省エネルギーで環境に配慮されたイオン交換膜法が主流である。
[殿村晋一]
日本では、パルプ用ソーダの国産化のため、1881年(明治14)大蔵省(現財務省)印刷局でルブラン法が採用されたのが最初であるが、民間で本格的生産が始まるのは第一次世界大戦後のことである。1918年(大正7)に工業化されたレーヨン工業の昭和初期の発展に導かれ、レーヨン用カ性ソーダ生産を中心にソルベー法が主流を占め、39年(昭和14)にはソーダ灰・カ性ソーダ合計で70万トンの戦前最高水準を記録した。第二次世界大戦後、54年(昭和29)に戦前水準を突破したソーダ工業は、58年ごろから石油化学工業用塩素を併産できる電解法(水銀法)への転換を積極的に進め、10年後にはソルベー法によるカ性ソーダの生産は姿を消した。カ性ソーダの生産量も急増し、73年度には311万トンに達した。その後二度にわたる石油危機による関連産業の不振とエネルギー・コスト上昇により、生産は低迷したが、82年には279万トン、84年には307万トンと漸増し、94年(平成6)385万トン、2003年437万トンと生産量は伸び続けている。世界のおよそ11%を生産(2000)し、アジアでは中国に次いで2位である。
1970年代にかけて、熊本水俣(みなまた)病(有機水銀公害)が社会問題化するなかで、水銀法によるカ性ソーダ生産工程から排出される無機水銀も有機水銀に劣らぬ危険性をもち、広範囲で魚の水銀汚染が生じている事実が明らかにされた。73年5月、水銀汚染対策推進会議は、水銀法から隔膜法への製法転換を決め、78年度末までにこれを完了するよう業界に指示した(第一次製法転換)。しかし、隔膜法が品質面で劣るため、製法転換は76年度末までに全能力の3分の2の転換が完了したにとどまった。通商産業省(現経済産業省)は、水銀法と同品質のカ性ソーダを製造できるイオン交換膜法の実用化を待って、79年に残存水銀法設備のイオン交換膜法への全面転換を指示(第二次製法転換)し、86年6月までに製法転換工事完了ないし水銀法設備の全面廃棄を行うことを義務づけ、イオン交換膜法への転換が進んだ。
2002年現在ソーダ工業の事業所数は24(『工業統計表』従業者4人以上の事業所)あり、付加価値の低い装置産業で、電力・原塩の消費量の多い資源エネルギー多消費型産業に特有の低収益性と製法転換による経営負担から脱却するため、イオン交換膜法よりもさらに省エネルギー型の電解技術の開発やファインケミカル等高付加価値製品の開発、他の化学分野への経営多角化などの必要に迫られている。
[殿村晋一]
『『化学工業年鑑』各年版(化学工業日報社)』
食塩Naclを主原料として,ソーダ灰Na2CO3,苛性ソーダNaOH,塩素Cl2およびこれらの誘導品を生産する工業。典型的な素材産業であり,ソーダ製品がそのままの状態で使用されることは少ないが,諸産業に基礎原料として供給されている。たとえばソーダ灰はガラス,無機薬品,洗剤などに,苛性ソーダはパルプ,化学繊維,アルミニウム等に利用され,また塩素は塩化ビニル,溶剤等の原料として供給されている。
歴史的には,最初,ソーダは天然ソーダまたは木灰から供給されていた。しかし18世紀に入り,ヨーロッパにおいてセッケンその他の化学工業が発達するにしたがってソーダ需要が拡大するなかで不足をきたし,1791年フランスのN.ルブランが食塩からソーダ灰をつくる方法(ルブラン法)を発明し工業化に成功した。また1861年には品質面,コスト面で優れるアンモニアソーダ法(ソルベー法)がベルギーのE.ソルベーによって発明され,さらに90年にはドイツで塩水の電気分解(食塩電解)により,苛性ソーダ,塩素および水素を製造する電解法が工業化された。電解法は隔膜法と水銀法の2種に大別できるが,水銀法はより高純度の苛性ソーダを得られるため,第2次大戦後支配的になった。
日本のソーダ工業は欧米より90年遅れて1881年,パルプ製造に使用するソーダを国産化すべく大蔵省印刷局でルブラン法により東京丸ノ内で工業化されたのを始まりとする。当時はアルカリ需要の規模が小さく,輸入品の圧迫もあって産業としての定着は,第1次大戦の勃発による苛性ソーダ輸入の途絶と関連化学工業勃興の時期を待たなければならなかった。そして1915年に電解法が程谷曹達(ソーダ)工場(現,保土谷化学工業)により,17年にソルベー法が旭硝子により日本でも工業化され,第1次大戦終結後はコスト面,品質面で劣るルブラン法から漸次,電解法・ソルベー法へ切り替わっていった。18年に工業化されたレーヨン工業の昭和初期における急速な発展により,レーヨン製造の際に使用される苛性ソーダ需要は急増する一方,塩素需要の伸びは小さく,そのため苛性ソーダの増産は塩素を併産しないソルベー法によっていた。
第2次大戦後のソーダ工業復興もアルカリ需要中心に進んだが,58年ころから始まった日本の石油化学工業の急成長により,ソーダ工業も石油化学工業向けの塩素需要中心体制へ移行する必要を生じた。そこで,塩素を併産できないソルベー法から電解法(水銀法)への製法転換が政策的に図られ,68年にはソルベー法による苛性ソーダの生産はまったく廃止されるに至った。この間,生産量は順調に増加し73年度には321万t(97%換算)の規模に達するなど,世界でも有数のソーダ生産国となった。しかし73年および79年の2度にわたる石油危機を経て,アルミニウム,紙・パルプ,塩化ビニル等主要関連産業が不振に陥り,またエネルギー・コスト上昇による国際競争力の低下から塩素系中間製品の輸入が増大したため,ソーダ製品需要はその後低迷を余儀なくされている。
一方,1973年の熊本水俣病判決を契機に水銀公害に対する社会的関心が高まるなかで,同年政府は〈水銀等汚染対策推進会議〉を設置し,水銀法から隔膜法への製法転換を決定した。当初の決定では78年3月末までに隔膜法へ製法転換を完了すべきこととされていたが,隔膜法による苛性ソーダは水銀法苛性ソーダに比べて品質面で劣ることが問題とされたため,水銀法と同品質の苛性ソーダを製造できるイオン交換膜法が工業的に実用化可能と判断されるまで,隔膜法への全面転換完了期限は延期された。そして79年に通産省はイオン交換膜法は工業的に実用可能と判断し,84年末までにイオン交換膜法へ転換を完了すべきことを決定した。業界では資金難や雇用問題などを理由に転換延期を求める声が強く,1983年の水銀等汚染対策推進会議で84年末までに製法転換工事に着工すべきとの最終決定が下された。
執筆者:清水 敏聖
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…以上の分類は,互いに重複している部分もあり,必要に応じて使い分けられている。 化学工業のうち素材型化学工業(石油化学,アンモニア,ソーダ工業など)の製品は,中間財であることが多く,製品の差別性に乏しい大量生産品であるのに対し,加工型化学工業(医薬品,化粧品,染料,塗料,農薬工業など)は,細かな用途に応じた多様な製品を生産している。前者は,大規模な装置を必要とし,操業度を高めることが企業経営上重要であるのに対し,後者では,新製品開発力やきめ細かい販売政策などが経営上重要である。…
※「ソーダ工業」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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