ルブラン(読み)るぶらん(英語表記)Charles Le Brun

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ルブラン」の意味・わかりやすい解説

ルブラン
Lebrun, Albert

[生]1871.8.29. メルシールオー
[没]1950.3.6. パリ
フランスの政治家第三共和政第14代,かつ最後の大統領(在任 1932~40)。第2次世界大戦が開戦した 1939年,国内の政治対立やドイツの軍事的脅威のなかでフランスの統一を保とうと努めたが,有効な指導力を発揮できなかった。ナンシーの国立高等中学校(リセ),エコール・ポリテクニクエコール・ナシオナル・シュペリュール・デ・ミーヌ(国立高等鉱業学校)で教育を受けた鉱山技師だった。1900年ロレーヌの下院議員に選出され,1920年上院議員,1931年上院議長となった。この間,1911~13年,1913~14年植民地大臣,1913年戦争大臣などを歴任。穏健保守派のルブランは 1932年5月,全派閥に受け入れられる妥協的選択をおもな理由に,共和国大統領に選出された。調停役として,また国家統一の象徴として,左右どちらの政権にもうまく順応し,閣僚の任命や政策に政治的影響力を行使することはほとんどなかった。1939年4月大統領に再選。第2次世界大戦の初期にドイツがフランスに侵攻すると,亡命政権を率いることを望んだが,1940年6月の閣議決定をまとめてドイツと休戦条約を結んだ。同 1940年7月には不本意ながらビシーで憲法の改正を承認し,フィリップ・ペタン元帥が国家主席として政権を引き継いだ(→ビシー政府)。グルノーブル近郊のビジルに隠居後,1943~44年にドイツ軍によってチロルのイッターに抑留された。連合軍によってフランスが解放されると,シャルルアンドレ・ジョゼフ・マリ・ドゴール将軍を暫定政府の首長と認めて政界から引退。自伝 "Témoignage"(1945)のなかで,この混乱の時代の出来事を解明しようと試みている。

ル・ブラン
Le Brun, Charles

[生]1619.2.24. パリ
[没]1690.2.12. パリ
フランスの画家。 G.ペリエ,S.ブーエに師事。 N.プーサンとともに 1642年から4年間イタリアに留学。この間プーサンやバロック画家の影響を受けた。帰国後は J.コルベールの知遇を得,彼を助けてフランス王立アカデミーの設立に尽した。ルイ 14世の寵を受け,歴史画,宗教画,肖像画,装飾画など多方面にわたって活躍し,62年貴族に列せられ,ベルサイユ宮 (鏡の間) やルーブル宮 (アポロンの間) の装飾を担当。以後王立ゴブラン製作所所長 (1663) ,首席宮廷画家 (64) ,ローマのフランス・アカデミーの創設など,王宮の芸術顧問として権勢をふるったが,コルベールの没後は失脚した。代表作『大法官セギエの肖像』 (61,ルーブル美術館) 。

ルブラン
Lebrun, Charles-François, Duc de Plaisance

[生]1739.3.19. ノルマンディー,サンソーブールランドラン
[没]1824.6.16. セーヌエオアーズ,サンメーム
フランスの政治家。 1789年全国三部会の代議員。恐怖政治期に投獄されたが,五百人会に入り,ブリュメール十八日クーデターを支持。 99~1804年第三統領。 04~14年帝政下の財政総監。 10年オランダ王ルイ・ボナパルトの譲位後,11~13年総督。

ルブラン
Leblanc, Maurice

[生]1864.12.11. ルーアン
[没]1941.11.6. ペルピニャン
フランスの推理小説作家。 1892年から『ジル・ブラス』誌に風俗小説を発表,のち推理小説に転じ,怪盗アルセーヌ・ルパン主人公にした一連の傑作を発表して世界的な人気を得た。『怪盗紳士アルセーヌ・ルパン』 Arsène Lupin,gentleman cambrioleur (1907) 以下,『813』 (10) ,『水晶の栓』 Le Bouchon de Cristal (12) など。

ルブラン
Lebrun, Pierre-Antoine

[生]1785.12.29. パリ
[没]1873.5.27. パリ
フランスの劇作家,詩人。悲劇『メアリー・スチュアート』 Marie Stuart (1820) ,『アンダルシアシッド』 Le Cid d'Andalousie (25) はロマン主義演劇の先駆となった。ほかに『ナポレオン軍に捧げるオード』 Ode à la Grande Armée (05) 。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ルブラン」の意味・わかりやすい解説

ルブラン(Maurice Leblanc)
るぶらん
Maurice Leblanc
(1864―1941)

フランスの推理作家。有名な怪盗紳士アルセーヌ・ルパンArsène Lupinの創作者である。警察関係の新聞記者のかたわら、1892年夏から小説を書き始めたが、かならずしも成功しなかった。1906年、新聞社の依頼でルパンを主人公とする短編を発表し、それを集めた短編集『怪盗紳士ルパン』(1907)によって爆発的人気を獲得した。

 ルパンは探偵と盗賊を兼ね、法と権力を敵に回し、変装の名人で、あらゆるスポーツに通じた神出鬼没のスーパーマンである。『水晶の栓』(1910)、『奇巌城(きがんじょう)』(1912)、『虎(とら)の牙(きば)』(1921)、『813(はちいちさん)』(1923)など多数の長編のなかには、イギリスの名探偵ホームズをもじったアロック・ショルムHerlock Shormesとルパンが対決する『ルパン対ホームズ』(1907)といったものもある。現代の推理小説の立場からみれば、ルパンの推理や活動には古風な通俗小説の飛躍や偶然も多いが、短編集『八点鐘』(1923)などは現代推理小説の味をもつものとして定評がある。ルブランは作家としての成功によって、レジオン・ドヌール勲章を受けた。

[梶 龍雄]

『『世界推理名作全集 二』(1969・中央公論社)』『石川湧訳『怪盗紳士リュパン』『リュパン対ホームズ』『水晶の栓』『奇巌城』(創元推理文庫)』『井上勇訳『リュパンの告白』『虎の牙』(創元推理文庫)』


ルブラン(Nicolas Leblanc)
るぶらん
Nicolas Leblanc
(1742―1806)

フランスの化学者で、ソーダ工業の創始者。孤児として育ち、後見人の影響で医師となり、1780年からオルレアン公Louis Philippe Ⅱ Joseph, duc d'Orléans(1747―1793)の侍医を務め、余暇に化学を研究した。当時のフランスではせっけんやガラスなどの原料となるソーダの不足が深刻であり、科学アカデミーは1775年に人工ソーダの発明に賞金をかけ、多くの人々がこれに取り組んだ。ルブランはディゼMichel Jean Jérôme Dizé(1764―1852)とともに研究を始め、これに成功した。この方法はルブラン法とよばれる。1790年にオルレアン公らとともに会社を設立、1791年に特許を取得して工場を建設した。しかしフランス革命の渦中で生産は軌道にのらず、1793年のオルレアン公の処刑ののちには工場が没収され、ルブラン法の詳細が公開された。ルブランはこれによる損失の補償を要求し、またソーダ不足がますます深刻となったため、工場は1800年にルブランに暫定的に返還され、その再開が命じられた。しかし、資本をもたないルブラン個人では工場を再建することは不可能であり、彼は資本の交付を求めたが、1805年11月の決定はあまりに少額であり、絶望したルブランは1806年に自殺してしまった。

[加藤邦興]


ルブラン(Charles Le Brun)
るぶらん
Charles Le Brun
(1619―1690)

フランスの画家、室内装飾家。2月24日パリに生まれる。初めフランソア・ペリエ、のちシモン・ブーエの門に入り、早くから頭角を現す。1642年から4年間ローマで学ぶ。当地で活躍していたプサンのもとで働き、強い影響を受けた。帰国後、ランベール館、ボー・ル・ビコント城の室内装飾などを手がけたのち、ルイ14世に取り立てられる。62年、王立ゴブラン制作所の監督となり、以後ベルサイユ宮殿の鏡の間をはじめとして、国王の宮殿の室内装飾の多くを取り仕切る。また一方で64年には首席宮廷画家となり、アカデミーでも大きな発言力をもった。このころの代表作に『宰相セギエの肖像』(1661、ルーブル美術館)、『昇天したキリストをたたえるルイ14世』(1674、リヨン美術館)などがある。しかし83年、庇護(ひご)を受けていた財政総監コルベールの死とともに失脚し、その地位をミニャールにとってかわられた。晩年の作に『生誕』(1689ころ、ルーブル)などがある。90年2月12日パリで没。

 ルブランはアカデミー草創期の中心人物として、理性、秩序を重んじるアカデミズムの基礎を築いた。また絵画、室内装飾の分野において、華麗、壮大、優美なルイ14世様式を確立。その様式は以後ヨーロッパ各地の宮廷で模倣された。

[宮崎克己]


ルブラン(Albert Lebrun)
るぶらん
Albert Lebrun
(1871―1950)

フランスの政治家。ロレーヌ生まれ。鉱山技師を経て政界に入り、1900~1920年下院議員、1911~1914年植民地相を務め、第一次世界大戦末に対ドイツ封鎖相、休戦直後には解放地域相となる。1920~1932年上院議員、1931年以来上院議長であったが、1932年5月ドゥメル大統領暗殺後に社会党候補者を破って第三共和政最後の大統領に当選、1939年4月にも再選された。1934年初頭の国内のファッショ攻勢に際し、元大統領ドゥメルグに右翼的挙国一致内閣を組織させ、また第二次世界大戦下の1940年6月、ペタン元帥に対ドイツ降伏内閣をつくらせた。同年7月ペタンは新憲法を公布、大統領制を廃止、ルブランを解職した。彼は一時ドイツ軍に捕らえられたが、おもにグルノーブルに閑居。終戦直後、1945年7月戦時の対敵協力などを処断するいわゆるペタン公判に証人として出廷した。

[西海太郎]

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