改訂新版 世界大百科事典 「タイソン党革命」の意味・わかりやすい解説
タイソン党革命 (タイソンとうかくめい)
18世紀末,ベトナムに起こった巨大な反政府農民運動。クアンナム(広南)朝とレ(黎)朝ダイベト(大越)を倒してベトナムの統一を果たした。日本ではタイソン党の乱と呼ばれた。1771年,ビンディンのタイソン(西山)村のグエン・バン・ニャク(阮文岳),フエ(恵),ルー(侶)の3兄弟は,フエ(順化)のクアンナム朝に反乱を起こし,たちまちビンディン,クアンナム地方を席巻した。クアンナム・グエン(阮)氏の旧敵でハノイのチン(鄭)氏は,これに呼応してフエを陥落させ,78年,クアンナムのディンブオン(定王)は南部に亡命,客死した。グエン・フエはさらに83年,南部に拠るグエン・フォック・アイン(阮福暎。後のザロン帝)軍を駆逐し,86年には北進してハノイのチン氏を滅ぼし,ベトナムの統一支配に成功した。フエはレ朝のティエウトン(昭統)帝の在位を認めたうえで,いったん兵を南部に下げた。
87年,ニャクはクイニョン(ビンディン)で皇帝に即位し,フエはフエで北平王,ルーはサイゴンで東定王をそれぞれ称した。同年,ハノイのティエウトン帝とフエとの間に対立が生じ,ティエウトン帝は敗れて清に亡命した。清の乾隆帝はこれをベトナム奪還の好機として,両広総督孫士毅に命じてハノイに進攻させた。フエはこれを聞くや,ただちにフエで即位し,クアンチュン(光中)帝と称した(これより彼はグエン・クアン・チュン(阮光中)として知られる)。89年,フエはハノイ近郊ドンダで清軍を完敗させ,乾隆帝はやむなくフエをアンナン(安南)国王に封じた。ここにレ朝は名実ともに滅びた。92年,フエが死に,その子グエン・クアン・トアン(阮光纘)がついだが,しだいに南部のグエン・フォック・アインの勢力に圧倒され,1801年にフエ,02年にハノイが陥落し,トアンは捕らえられて刑死し,タイソン党の13年間の全国支配が終わった。
タイソン党は18世紀末の戦乱,飢饉によって窮迫した農民層や流民群の幅広い支持を得て,急速に勢力を拡大したもので,現在ベトナムでは,タイソン党,なかでもフエを農民戦争の卓越した指導者,中国侵略軍に完全勝利した軍事的天才として高く評価している。
執筆者:桜井 由躬雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報