ザロン

改訂新版 世界大百科事典 「ザロン」の意味・わかりやすい解説

ザロン (嘉隆
)
Gia Long
生没年:1762-1820

ベトナムのグエン(阮)朝初代皇帝。姓名グエン・フォック・アインNguyen Phuoc Anh(阮福暎),グエン・フック・アインNguyen Phuc Anh(阮福映)とも表記される。クアンナム(広南)朝最後の王ディンブオン(定王)の甥として生まれた。1777年タイソン(西山)党の攻撃によりクアンナム朝が滅亡すると,一人南部に拠って抵抗を続け,80年には王位について国をダイベト大越)と称した。しかし83年グエン・バン・フエ阮文恵)に追われてシャムに逃れ,ラーマ1世やフランス人宣教師ベーヌの支援を得て,87年再びベトナム南部を奪還した。以後,ベーヌの率いるフランス人義勇軍の協力を得て毎年のようにモンスーンを利用した季節艦隊を北上させてタイソン軍を攻撃し,99年タイソンの都クイニョンを落とし,1801年フエ,02年ハノイを陥落させて全土を統一した。同年5月,天地をまつり,年号をザロン,国名をベトナム(越南)とし,04年には清から公式にベトナム王に封じられ,06年皇帝と称した。レ(黎)朝の統治機構に依拠して,中央に六部の制,地方に23鎮4営2道を設け,また北部に北城総鎮,南部に嘉定総鎮を置いて特別地域とした。また郷試法,閲選法,土地丈量,租庸税制,公田制など一連の内政改革を行った。しかし,レ朝末期以来の村落の自立性の中まで権力を浸透させることはできなかった。12年施行の皇越律例がほぼ完全に清律模倣であることはその現れである。外交面では中国に定期的朝貢を繰り返す一方,ラオス,カンボジアを朝貢国とし,しばしばシャムと対立してはインドシナにおけるベトナムの覇権を確立した。
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百科事典マイペディア 「ザロン」の意味・わかりやすい解説

ザロン

ベトナム,グエン(阮)朝の始祖,ザロン(嘉隆)帝(世祖)。姓名はグエン・フック・アイン(阮福映)。レ(黎)朝の権臣グエン氏の一族。フランスの援助を得てタイソン党革命鎮圧,ベトナムを統一し,1802年嘉隆と改元,国都をフエに置き,越南皇帝となった。
→関連項目ダイベト(大越)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ザロン」の意味・わかりやすい解説

ザロン

阮福映」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内のザロンの言及

【グエン朝】より

…南部のグエン氏の王族グエン・フック・アイン(阮福暎)は,1778年以来シャム,フランスの援助で,タイソン・グエン氏と戦って領土を広げ,1802年ついに北部を占領して全土の再支配に成功した。この年グエン・アインは帝位に昇ってザロン(嘉隆)帝と称し,04年中国の封冊を得て国号をベトナム(越南)とした。これが現在のベトナム社会主義共和国の国号の起りである。…

【皇越律例】より

…グエン(阮)朝ベトナムの中国式法典。ザロン(嘉隆)帝は1802年即位してグエン朝を開創するや,積極的に当時の清朝の行政制度の移入をはかった。法典においても旧来の唐律・明律にベトナム固有法を加味したレ(黎)朝刑律を廃棄して,12年に全390条,22巻からなる皇越律例を定めた。…

※「ザロン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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