改訂新版 世界大百科事典 「レ朝」の意味・わかりやすい解説
レ朝 (レちょう)
Le
ベトナムの王朝。レ(黎)朝と呼ばれる王朝には前レ朝(980-1009),後レ朝(1428-1789)の2王朝があるが,一般には後レ朝をさす。
15世紀初め,ベトナムは中国明朝の支配下にあったが,タインホア地方の土豪レ・ロイ(黎利)は1418年に反明ゲリラ戦を起こし,27年ハノイを占領して明軍を駆逐,翌年に国号をダイベト(大越),年号を順天とする新王朝を開いた。レ・ロイは31年に明との国交を修復し,権署安南国事に封ぜられた。またチャン(陳)朝の制度に倣って地方制度,爵秩典例を定めたほか,田籍,戸籍を整備し,均田法,税例を施行し,国礎を定めた。2代レ・タイトン(黎太宗。在位1434-42),3代レ・ニャントン(黎仁宗。在位1443-59)の間に宮廷内紛がみられたが,4代レ・タイントン(黎聖宗)にいたり,明の六部制を導入して中央集権を確立し,地方には承宣・府・州・県・社制を敷いた。この地方行政制度の根幹はグエン(阮)朝を経由して,フランス領時代を通じて踏襲される。法制は唐律に拠った洪徳条律(刑律)が施行され,田制は均田法が整備され,ベトナム村落社会の特徴である村落共有田(コンディエン(公田))制の基礎がつくられた。堤防工事を中心としたソンコイ川デルタの開拓が急速に進み,多くのソンコイ川デルタの村落の起源は,この時期に始まっている。タイントンはこの国力を背景にしばしば外征を行い,1471年にはチャンパをほぼ完全に壊滅させた。チャンパの故地は二分され,北半はクアンナム(広南)承宣,南半は三つの小藩王国に分割された。さらに79年にはラオスのチャンニンに出撃し,ラオス軍を追ってルアンプラバンを攻略した。一隊はさらにメコン川上流を進んでビルマ(現ミャンマー)領にまで至った。
タイントンの死後,皇帝権力は急速に衰え,権臣間の武力対立がしばしば起こるようになり,1527年に権臣マク・ダン・ズンMac Dang Dung(莫登庸(ばくとうよう))が帝位を奪い,レ朝はいったん滅びた。しかし,32年にグエン・キムNguyen Kim(阮淦)がチャントン(荘宗)を擁してラオスに挙兵し,次いでタインホアに拠ってマク氏に対抗した。以後約半世紀,グエン・キムの勢力を継いだチン(鄭)氏とマク氏との間に戦闘が続き,このため各地に武人軍閥勢力が生じた。チン氏は92年にハノイを奪還したが,タイントン期の中央集権体制は回復しえなかった。代わってハノイにチン氏,フエにグエン氏(クアンナム朝)がおのおの割拠し,ともに名目的な皇帝としてレ氏を仰いだ。彼らをチュアchua(主)と呼ぶ。このほか,カオバンにはマク氏の残党が拠った。1627年から72年までチンとグエンの間に戦闘が続くが,同時にこの時代はハノイ,フエとも活発化した東西交易の中で,生糸,絹織物の主産地として栄え,フォヒエン(フンイェン),フェイフォ,トゥーランが貿易港として知られた。また中央権力の衰亡に対応して,村落共同体の自律性が高まり,コンディエン(公田)は村落共有田に成長した。儒・仏・道三教の混交が進み,精霊信仰が加わってベトナム民衆信仰が形成され,またチュノムを用いた民衆文学も栄えた。
18世紀後半以降,ソンコイ川デルタの開拓が限界に達するとともに戦乱と干ばつ,洪水が流民を村落の外に押し出した。流民は山地少数民族と結合し,レ・ズイ・マト(黎維樒)の乱を起こした。またクアンナム朝では,グエン・バン・ニャク(阮文岳)らによってタイソン党革命が起きた。チン氏はこの乱を利用して1774年にフエに進攻し,グエン氏を滅ぼしたが,86年にはニャクの弟フエ(恵)にハノイを落とされた。88年にレ朝最後のマンデ(愍帝)は中国広西省に亡命し,清の援助を請うた。しかし翌年,清軍はハノイでグエン・バン・フエの軍に大敗し,清の乾隆帝はやむをえずフエを安南国王に封じた。ここにレ朝は滅び,マンデは失意のうちに93年北京で客死した。現在のベトナムの文化,社会の骨格は,多く,このレ朝期に形成されたものである。
執筆者:桜井 由躬雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報