ラテンアメリカのダンス音楽の一種。「タンゴ」の語源およびそのことばがさす対象については諸説があるが、アルゼンチンで生まれた今日もっとも有名なダンス音楽であるタンゴは、単に国際的に愛好されているのみならず、19世紀後半以降のアルゼンチンの社会史・文化史を語るうえで重要な役割を果たすものである。
[由比邦子]
タンゴは、ブエノス・アイレス近郊の場末町(アラバル)に集まってきた数多くのヨーロッパ移民たちの希望や成功、または失敗や挫折(ざせつ)を象徴するもので、19世紀なかばに船乗りによってブエノス・アイレスにもたらされたキューバのハバネラやタンゴ(ハバネラとともに1850年ごろまでにラテンアメリカ全土に広まる)を原形としている。音楽的には、ガウチョ(カウボーイ)の伝統である即興的な歌詞をもつパヨダと、4分の2拍子でシンコペーションのリズムを特徴とするミロンガが、タンゴの発達に貢献している。またダンスについては、スペインのアンダルシア地方のタンゴ(いわゆるジプシーとよばれていたロマの人々によるタンゴでタンゴ・フラメンコともいう)や、キューバのダンソンとハバネラ、さらにはヨーロッパのポルカやショティッシュがわずかながら影響を与えている。このダンス音楽に「タンゴ」という名称が初めて用いられたのは、1875年ごろと推定される。
なおタンゴは、ごく初期には男性のソロ・ダンスであったものが2人のダンスとなり、のちには男女のカップルが抱き合って踊るようになった。非常に行動的な男性の動きと一見受け身な女性の動きが対照的であり、明らかに男性が女性を支配していることが、タンゴの踊り方の特徴である。
タンゴはハバネラやミロンガのリズムに従って、1915年ごろまでは4分の2拍子であったが、その後8分の4拍子が優勢になり、50年代なかば以降はさまざまの複雑なリズムが使われるようになった。また楽曲の形式は、初期には三部分形式が主であったが、エンリケ・デルフィーノEnrique Delfino(1895―1967)が二部分形式の曲をつくり始めてから、二部分形式が多くなった。この形式においては、主調に対する属調あるいは平行調という関係が多くみられる。
[由比邦子]
タンゴは次の3種に分類することができる。
(1)タンゴ・ミロンガtango milonga 器楽曲で、強烈なリズムを特徴とする。
(2)タンゴ・ロマンサtango romanza 器楽のみのもの、歌を伴うものの両方があり、タンゴ・ミロンガよりも叙情的・旋律的で、歌は非常にロマンチックな内容をもつ。
(3)タンゴ・カンシオンtango canción 器楽伴奏つきの声楽曲で、非常に感傷的な性質をもつ。
タンゴ・カンシオンは、とくに1930年代にタンゴがアラバルの下層社会と縁を切ってより都会的なポピュラー音楽に成り変わったとき、その代表的なものとなった。しかしタンゴの歌詞はアラバルの歌の性質を受け継いで悲観的・運命論的であり、きわめてドラマチックなことばで愛と人生を表現し、あるいは社会に対する反発・抗議を表し続けたのである。
初期の楽器編成はテルセトス(トリオ)とよばれ、バイオリン、ギター、フルートの組合せが一般的であった。そしてタンゴが中流階級の家庭や舞踏会で踊られるようになると、ピアノ独奏曲やピアノ伴奏による歌曲も数多く作曲されるようになった。しかしタンゴの楽器編成、ひいては演奏スタイルに大きな変革をもたらしたのは、19世紀の終わりに取り入れられたドイツの楽器バンドネオン(ボタン式アコーディオンの一種)である。歯切れのよいリズムを奏することのできるバンドネオンは一躍タンゴ演奏の花形楽器となり、タンゴにおける器楽曲全盛期をつくりだすことになる。この時期に活躍したのは、アンヘル・ビジョルドAngel Villoldo(1864―1919)、フランシスコ・カナロFrancisco Canaro(1888―1964)、ロベルト・フィルポRoberto Firpo(1884―1969)、フリオ・デ・カロJulio De Caro(1899―1980)などである。ビセンテ・グレコVicente Greco(1888―1924)は自分のバンドをオルケスタ・ティピカ・クリオーラと称したが、この後オルケスタ・ティピカOrquesta Típicaは、同数のバイオリンとバンドネオン、コントラバス1台、ピアノ1台を中核とする楽器編成をさし、タンゴの標準的な演奏形態を示すようになった。
[由比邦子]
1920年代には録音技術の発達やラジオの普及に伴って、タンゴはアルゼンチンを代表する音楽となった。またこの時期に歌手カルロス・ガルデル(1887―1935)が現れ、彼を中心にタンゴは歌曲全盛期を迎えた。ガルデルは本来ダンス中心であったタンゴを社会文化的意義をもつ歌曲(タンゴ・カンシオン)に変えたという点で、タンゴ史上注目に値する人物である。
1940年代になると、打楽器を加えたより大規模なオーケストラ編成が優勢になるが、40年代後半から50年代にかけてタンゴ界はしばし不振の時期となる。しかし第二次世界大戦が終わるとタンゴは徐々に息を吹き返し始め、単に音楽的興味のみならず、タンゴのもつ意義が知識人や若者層の注意をひくことになった。50年代以降に活躍した楽団指揮者では、カルロス・ディ・サルリCarlos Di Sarli(1900―60)、アニバル・トロイロAnibal Troilo(1914―75)、フアン・ダリエンソJuan D'Arienzo(1900―76)、オスバルド・プグリエーセOsvaldo Pugliese(1905―95)らが有名である。
一方、バンドネオン奏者のアストル・ピアソラ(1912―92)は、1955年に結成したブエノスアイレス八重奏団によって伝統的なタンゴの世界に新風を吹き込んだ。ピアソラはクラシックや現代音楽、さらにはジャズの影響を受けてタンゴに即興演奏を導入、八重奏団にも電気楽器(エレキ・ギター)を取り入れるなどして、古典タンゴを土台に実験的なサウンドを追求した。そして、従来は踊るための音楽であったタンゴを鑑賞用音楽に変えたのである。映画音楽も多数作曲したピアソラの音楽は、90年代に入ってから、ギドン・クレメル、ヨーヨー・マ、クロノス・カルテット、エマニュエル・アックス、アル・ディ・メオラなどさまざまなジャンルの音楽家に取り上げられている。
[由比邦子]
タンゴは1900年代の初めにヨーロッパに紹介され、07年にカミーユ・ド・リーナルCamille de Rhynalがタンゴ本来の荒々しい踊り方を舞踏会向きの洗練された形に変えてから、パリの社交界を中心に大流行の兆しをみせ始めた。さらに12年には舞踏家カッスル夫妻Vernon & Irene Castleによって新しい社交ダンスとして人気を集める。タンゴの名曲『ラ・クンパルシータ』La cumparsita(レコード発売1917)がウルグアイのヘラルド・エルナン・マトス・ロドリゲスGerardo Hernán Matos Rodríguez(1897―1948)によって作曲されたのはちょうどこの時期である。そして第一次世界大戦後にはタンゴはもっともポピュラーな社交ダンスとなった。多くの演奏家がアルゼンチンからヨーロッパに流出したが、とくにガルデルはヨーロッパにおけるタンゴの大流行に非常な影響を及ぼした。
1920年代から30年代にかけてはヨーロッパでもタンゴが盛んに作曲・演奏され、『奥様お手をどうぞ』や『ジェラシー』などの名曲も生まれた。このように社交ダンスやサロン・ミュージックに適したヨーロッパ生まれの優雅で旋律的なタンゴはコンチネンタル・タンゴとよばれ、それに対して本来のタンゴはアルゼンチン・タンゴとよばれて区別されるようになったのである。アルゼンチン・タンゴがおもにオルケスタ・ティピカによって演奏されるのに対して、コンチネンタル・タンゴは楽器編成にこだわらず、大編成のオーケストラで演奏されることも多く、ときにはジャズ・バンドによる場合もある。往年の演奏家としてはマレク・ウェーバーMarek Weber(1888―1964)やバルナバス・フォン・ゲッツィBarnabás von Géczy(1897―1971)の楽団が有名であるが、その後もアルフレッド・ハウゼAlfred Hause(1921―2005)やマランドMalando(1908―80)の楽団が活躍した。
[由比邦子]
日本には、1930年(昭和5)ごろコンチネンタル・タンゴのレコードという形で紹介されたが、その後ダンスホールで社交ダンスとして普及するようになった。しばらくは輸入レコードやジャズ・バンドの演奏に頼っていたが、アコーディオンが輸入されて初めて本格的なタンゴ・オーケストラが桜井潔(きよし)によって結成された。それから1940年ごろにダンスホールが閉鎖されるまで、バンドネオンの輸入や海外からのオーケストラの来日に刺激され、タンゴの全盛期となる。
第二次世界大戦後はダンスホールの復活とともに多くのオルケスタが生まれたが、なかでも早川真平(しんぺい)とオルケスタ・ティピカ東京は生粋(きっすい)のアルゼンチン・タンゴを、また原孝太郎の東京六重奏団や北村維章(これあき)の東京シンフォニック・タンゴ・オーケストラはコンチネンタル・タンゴをそれぞれ追求する楽団として、ともに傑出している。さらに1950年代には坂本政一(まさいち)とオルケスタ・ティピカ・ポルテニアが結成され、放送の波にのった。またオルケスタ・ティピカ東京は歌手の藤沢嵐子(らんこ)とともにラテンアメリカ諸国へ公演旅行し、好評を博した。
[由比邦子]
『永田文夫著『世界の名曲とレコード ラテン・フォルクローレ・タンゴ』(1977・誠文堂新光社)』▽『舳松伸男著『タンゴ――歴史とバンドネオン』(1991・東方出版)』▽『斎藤充正著『アストル・ピアソラ――闘うタンゴ』(1998・青土社)』▽『岩岡吾郎編『タンゴ――世紀を超えて』(1999・音楽之友社)』▽『石川浩司著『タンゴの歴史』(2001・青土社)』▽『レミ・エス著、尾河直哉訳『タンゴへの招待』(白水社・文庫クセジュ)』
ポピュラー音楽の一種で,ダンス用,鑑賞用音楽として親しまれている。タンゴと呼ばれる舞曲はスペイン,ラテン・アメリカのいろいろな地方にある。語源は不明だが,アフリカ系黒人の太鼓を伴う踊りのリズムに関連していることは疑いない。ほとんどの場合,独特のアクセントを伴う歯切れのよい2拍子系のリズムを持つ。タンゴのうちとくに名高く重要なのはアルゼンチン・タンゴ,すなわちブエノス・アイレスに起こり,ここを本場として発達したタンゴである。
アルゼンチン・タンゴの発生については諸説あるが,その源にはキューバから伝来したハバネラ,それがブエノス・アイレス周辺で変化した形と思われるミロンガ,ヨーロッパから移入されたポルカ,ブエノス・アイレスにも昔は多かった黒人系住民の行列の音楽であるカンドンベcandonbeなどが混在し,それぞれが影響しあったものと思われる。また,ブエノス・アイレスに19世紀半ば以来急増したイタリア系移民の,スペイン系とはひと味異なった音楽性が影響を与えたことも無視できない。初期の歴史については不明の点も多いが,ほぼ1860-70年ころから基本的なリズムと曲の形式が定まり,1900年ころにはたとえば《エル・チョクロ》(ビジョルドAngel Villoldo作曲)のような古典的名曲が生まれるとともに,やがて不可欠のものとなる楽器バンドネオン(一種のアコーディオン)が演奏に採用されるなどして,しだいに民衆音楽の形式として確立してきた。
タンゴはブエノス・アイレス南東部,ラ・プラタ川沿いの風紀の悪い場末町に生まれ,当時は下層社会の音楽として上中流社会から蔑視されたが,それ自体の音楽的向上に加え,1910-20年代にパリでおおいに認められ流行したことなどから,全市民的な音楽としての地歩を築くようになった。1917年に《わが悲しみの夜》を歌って以来アルゼンチンのアイドル歌手となったカルロス・ガルデールにより,水準の高い歌謡としてのタンゴが普及したことも見落とせない。楽団演奏はバイオリン,バンドネオン(それぞれ2~6),ピアノ,コントラバスの編成(これを標準楽団の意味で〈オルケスタ・ティピカorquesta típica〉という)が定型化し,20年代までに《ラ・クンパルシータ》(マトス・ロドリゲスGerardo Hernán Matos Rodríguez作曲。1917年レコード化)など古典的名曲の数々が作られるとともに,演奏スタイルの型も完成された。その踊りは,はじめ男1人のソロ・ダンスであったが,のちに男2人で組んで踊るようになり,さらに男女で組む踊りとなった。初期タンゴの器楽的な発想に対し歌謡風な旋律が目立った30年代を経て,40年代には旋律,和声,編曲法などにヨーロッパやアメリカの新しい音楽的要素が導入され,いわゆるモダン・タンゴの道が開かれていく。50年代以降も古典派とモダン派,また両派の中間をいくさまざまな演奏スタイルの楽団が,多くのタンゴ専門歌手たちとともに活動をつづけた。70-80年代に至りその人気は下火ともいわれるが,ブエノス・アイレス市民の心を伝えるアルゼンチンの〈国民音楽〉としてのタンゴは世界中で認められている。
アルゼンチン・タンゴの史上に現れた代表的音楽家としては,歌手ガルデールのほか,作曲家で〈バンドネオンの虎〉といわれたアローラスEduardo Arolas(1892-1924),《ジーラ・ジーラ》などを作曲したディスセポロEnrique Santos Discépolo(1901-51),楽団指揮者フランシスコ・カナーロ,ロベルト・フィルポRoberto Firpo,フリオ・デ・カロJulio de Caro,フアン・ダリエンソ,カルロス・ディ・サルリCarlos di Sarli,アニバル・トロイロAníbal Troilo,オスバルド・プグリエセOsvaldo Pugliese,アストル・ピアソジャAstor Piazzollaなどが挙げられる。
アルゼンチン・タンゴの日本への紹介は1920年代の末ころから始まったが,当初は欧米の演奏家のレコードによるものであった。ダンスホールを中心に,社交ダンスとして流行し,40年までに日本のオルケスタも組織された。第2次大戦後も人気は根強く,〈早川真平とオルケスタ・ティピカ・東京〉などのすぐれたオルケスタが生まれた。また歌手藤沢嵐子はアルゼンチンでも高い評価を受けた。
日本でコンティネンタル・タンゴと呼ばれているものは,1910-20年代,パリを中心にアルゼンチン・タンゴがヨーロッパへ紹介されてのち,同地の音楽家たちがそのリズムと形式をまねて作り出したタンゴで,リズム自体には気迫や微妙な味わいが欠けるものの,甘美で感傷的な旋律の親しみやすさにより,ダンス音楽,サロン音楽として世界各地に流行した。一方,南スペインのジプシーたちが発達させたタンゴ・フラメンコは,踊りを伴う歌とギターの音楽で独特な魅力をそなえている。
執筆者:浜田 滋郎
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…アメリカの黒人の音楽と踊りからは〈チャールストン〉が生まれ,ニューヨークを中心に社交ダンスは大きく変化しつつ流行した。アルゼンチンで生まれた〈タンゴ〉はブエノス・アイレスで19世紀末ころ起こった舞曲による踊りだが,20世紀初めヨーロッパに渡り,フランスでは〈フレンチ・タンゴ〉として改良され,さらにイギリスに渡った。ヨーロッパで流行したタンゴは〈コンティネンタル・タンゴ〉と呼ばれる。…
…ラ・プラタ川の支流リアチュエロ川の河口に近い左岸に位置し,かつては移民船の船着場でもあった。19世紀初め以来,イタリア系移民(とくにジェノバ人)が多数住みつき,彼らがタンゴを愛好したことがタンゴ隆盛の一因となったといわれる。今日でもタンゴを演奏する庶民的なレストランが並び,町の一角にはフィリベルトの名曲《カミニート(小径)》を記念した通りがある。…
※「タンゴ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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