日本大百科全書(ニッポニカ) 「チェコ事件」の意味・わかりやすい解説
チェコ事件
ちぇこじけん
Soviet Intervention in Czechoslovakia
1968年にチェコスロバキアで「人間の顔をした社会主義」を求める動きが官民一体となって盛り上がったのに対して、ソ連や東欧の社会主義国が軍事介入し抑圧した事件。
1960年代後半、ノボトニー共産党第一書記兼大統領の指導下にあるチェコスロバキアでは、非スターリン化が遅れ、ことに粛清裁判の責任が不問に付されていることへの作家、知識人の不満が高まった。60年代の経済停滞のため、民衆の不満も強まっていた。自治権を制限されたスロバキアでの民族的不満も、体制の閉鎖性を告発する契機となった。67年6月の作家同盟大会、10月の学生デモと警官隊との衝突などを背景に、12月の党中央委総会でノボトニーに対する批判が噴出、68年1月の総会でノボトニーは党第一書記の地位をスロバキアのドプチェクに譲った。
ドプチェク政権の成立は「プラハの春」の開幕を告げた。まず出版物に対する検閲が解除され、多彩な発言が街にあふれた。3月にノボトニーが大統領をも辞任し、スボボダが後を継ぎ、4月にはチェルニーク首相、ハーエク外相、スムルコフスキー国会議長、クリーゲル国民戦線議長などの改革派が政権の中枢を占めた。各種政党や団体が復活し、国会が活気を帯び始めた。4月には「社会制度および政治制度全般の民主化」を約束した党の「行動綱領」が発表され、6月には改革の徹底を要求する「二千語宣言」が公表された。
こうした気運に対して、ソ連圏諸国はしだいに警戒を強めていった。3月にソ連・東欧6か国がドレスデンに集まり、「帝国主義の破壊活動に対する警戒」を求めたコミュニケを発表、ソ連や東ドイツの各紙はチェコスロバキアの改革派を攻撃する論説を次々に掲載し、ワルシャワ条約機構軍が軍事演習後もチェコスロバキアに居座る事態さえ生まれた。7月、ソ連圏5か国はワルシャワで会議を開き、チェコスロバキアで「反革命の危険が切迫」しているとする書簡を採択した。8月3日にはブラチスラバの六か国会議で妥協が図られたかにみえた。ところが8月20日夜、ソ連、東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ブルガリアの5か国軍20万は一気にチェコスロバキアに侵入、ドプチェクら改革派指導者をソ連に連行した。
チェコスロバキアのあらゆる機関や団体が一斉に抗議の声をあげた。西側の政府や諸団体、西側の共産党、ユーゴスラビア、ルーマニア、アルバニアなども軍事介入を強く非難した。ソ連は当初、親ソ政権の成立、それとの交渉という手順を期待したが、国民の声に押されて「介入要請」勢力が名のり出なかったこと、スボボダ大統領がドプチェクらといっしょでなければ交渉しないと強硬に主張したことなどのため、ついに拉致(らち)してきたドプチェクらを主権者に見立てて交渉せざるをえなくなった。他方、ドプチェクらも駐留軍の撤退を実現させるためには、ソ連の要求する「正常化」(事態を改革前に戻すこと)を認めざるをえない立場にたたされた。帰国した指導者たちは国民に自制を訴えた。1968年秋には改革派指導者が次々に辞めさせられ、69年4月にはドプチェクがフサークに党第一書記の地位を交代し、「正常化」がほぼ実現した。
[木戸 蓊]
『みすず書房編集部編『戦車と自由――チェコスロバキア事件資料集』全二巻(1968・みすず書房)』▽『Z・ムリナーシ著、三浦健次訳『夜寒――プラハの春の悲劇』(1980・新地書房)』