ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
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1807年、ナポレオン1世とプロイセン王フリードリヒ・ウィルヘルム3世との間に結ばれた条約。ティルジットTilsitはニーメン(メーメル)川左岸の都市(現ロシア共和国カリーニングラード州ソビエツク市)。前年にプロイセンはナポレオンに宣戦を布告したが、イエナの戦いで敗れ、来援したロシア軍も同様の運命にあった。1807年2月、ロシア皇帝アレクサンドル1世とナポレオンは、ニーメン川上の筏(いかだ)で会見した。続いてプロイセン王と7月に和約が成立。条約では、エルベ川左岸の全域がウェストファリア王国とされ、ナポレオンの弟ジェロームが元首に就任。ダンツィヒは自由市とされる。また旧ポーランド領にワルシャワ公国が建設され、ザクセン王が支配者を兼ねるほか、莫大(ばくだい)な償金と軍備の制限がプロイセンに課せられた。
[金澤 誠]
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…第3次は,1805年にイギリス,オーストリア,ロシア,スウェーデンなどの間で結ばれたが,オーストリアとのプレスブルク条約(1805)によって解消した。第4次は,06年にイギリス,プロイセン,ロシアなどの間で結ばれたが,プロイセン,ロシアとのティルジット条約(1807)によって解消した。第5次は,09年にイギリス,オーストリアの間で結ばれたが,オーストリアとのシェーンブルン条約(1809)によって解消した。…
…1807年から22年にかけてプロイセン王国で行われた農制,営業・租税制度,行政,軍制,教育制度などの諸分野にわたる一連の近代的改革。指導した2人の宰相の名をとってシュタイン=ハルデンベルクの改革Stein‐Hardenbergsche Reformenとも呼ぶ。
[概要]
1806年にイェーナの戦でナポレオン軍に完敗したプロイセンは,翌年のティルジットの和約で,領土の半ばを失い,多額の貢納金の支払,大陸封鎖令による対英貿易の禁止,フランス軍の駐留などの経済的圧迫を被り,国家存亡の危機にした。…
※「ティルジット条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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