ディシプリン(discipline)はラテン語のdiscere(学ぶ)から派生した語で,「学問分野,専門分野,研究領域,学科」を意味し,いわば知識の部分や分枝を指す。学習には一定の規範が必要であるため,disciplineには「規律,訓練」「生活規範,規則」の意味もあり,さらには「規律を逸脱した際の懲罰」の含意もある。
ディシプリンは知識の秩序を整理する枠組みであり,一定の対象や主題,一連の方法論や組織的な探求様式,合理的な認識や論証,妥当な価値関与などによって各ディシプリンは区別される。教育面では,ディシプリンを秩序立てて分割することで,整合的で有機的なカリキュラムを組み,学習者の効果的な理解を促進することができる。研究面では,各ディシプリンが研究者の専門的な共同体を形成し,学会や学術雑誌を通じてその成果が厳密に評価され公表される。ディシプリンは学問の全体像と学習の道筋を示す上で有効であり,大学の教育と研究を制度的に規定する重要な要素である。
ディシプリンの特性はしばしば包括的な対立主題によって説明される。理論的学問と実践的学問という対立によって,外在的な目的に従属しない理論構築を目指すのか,世界のなかで実現可能な目的に向けた実践的応用を目指すのかが問われる。自然科学と人文科学は,自然の諸事象の因果関係や数学的法則にもとづく学問か,精神活動が創造する意味法則にもとづく学問かによって区別される。法則科学と歴史学ならば,時間的事象を貫く普遍的な法則か,あるいは,その都度1回的な個別的出来事の連鎖かに力点が置かれる。もっとも,ディシプリンが対立主題にしたがって区別されるとしても,大局的に見れば両極は深く連関しており,相対立する一方が他方から純然と分離しているわけではない。ディシプリンとは人間による世界認識の体系的方法であり,その全体性は人間精神の働きを反映した学問の構造に等しいのである。
ディシプリンは大学の学問的宇宙や組織編成と表裏一体である。中世ヨーロッパの大学は古代の知的体系にならって,13世紀頃から科目を編成し始めた。科目は予備課程「人文学部(リベラルアーツ)」と職業教育的な高等課程(神学,法学,医学)に分けられた。人文学部は,言葉や記号を扱う「三学(トリウィウム)」(文法学,修辞学,弁証法)と事象や数を扱う「四科(クワドリウィウム)」(算術,音楽,天文学,幾何学)からなる。高等課程の神学では,聖書の注釈学から真正なるキリスト教哲学が講じられた。法学では民法学と教会法学が教えられ,実定法的秩序に奉仕する法律家が養成された。医学では単なる経験医術ではなく,人間の生理に関する合理的な学問として確立されていく。18世紀に近代自然科学が勃興し,近代国家が誕生する中で職業教育的分野の必要性が高まり,19~20世紀を通じて農学や工学,教育学,薬学といったディシプリンが大学の学部として制度化されていく。
20世紀には真理の専門的探究に応じて,多様化する社会的要請にしたがって,ディシプリンはますます専門化,多様化,細分化した。従来のディシプリンが自然に発展するなかで,分裂して新たな分野が内在的に増設される。また,大学の外部から新しい素材や能力,要素が付加されることで,新たなディシプリンが生み出される。ただし,大学が学問的宇宙を体現する限りにおいて,大学は多様なディシプリンの単なる学問的百貨店に陥らないことが重要である。あらゆるディシプリンはある程度まで統合的な性質をもつため,学び手が異なるディシプリン間を架橋し,相互の関係を把握する柔軟な力を得られるカリキュラム構成や教授の技法が必要となる。
一定の概念や方法,価値,規範に立脚した伝統的なディシプリンに対して,1960年代後半から,共通の課題や問題の解決に向けた複数のディシプリンの共同,つまり「学際性interdisciplinary」が重要視されるようになる。異なるディシプリンの研究者が異なる理論と方法で共同する「多学問領域性multi-disciplinary」,理論や方法を統合して共通の理解や言語を生み出す「超学問領域性trans-disciplinary」など,ディシプリン間の共同はさまざまな形をとる。たとえば,環境問題のような複雑な課題については,自然現象の解明だけで済まされず,人間の経済活動や社会構造の解明,文明観の再考,人間と自然の共生に向けた倫理観の創出などが必要となり,自然・社会・人文科学の学際的研究が要請される。1960年代に,全米科学財団(NSF)やカーネギー財団などで研究基金が創設され,経済協力開発機構(OECD)や国際連合教育科学文化機関(UNESCO)も学際研究の積極的な支援を開始した。
研究教育における学際化の趨勢は,科学技術や社会的・文化的な諸条件を含めて,知識生産の方法の根本的な変化をもたらしている。マイケル・ギボンズ,M.はこうした知的生産活動の変化をモード1(ディシプリン)からモード2(インターディシプリン)への推移と規定する。モード2の局面では,学際研究は大学研究者のみならず,産業界,政府の専門家,市民も参加する形で実施される。また従来の各ディシプリンの学問対象には限定されない,社会的使命を担いつつ,複雑な課題を発見し解決するという役割が期待される。
著者: 西山雄二
参考文献: マイケル・ギボンズ編著,小林信一監訳『現代社会と知の創造―モード論とは何か』丸善ライブラリー,1997.
出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報
フランスの哲学者ミシェル・フーコーが、18世紀に西欧において成立した権力のテクノロジーの本質的要素を指し示すために用いた語。「規律」「規律・訓練」などと翻訳される。
『監獄の誕生』Surveiller et punir(1975)によれば、ディシプリンとは、従順かつ有用な個人をつくり上げることを目標としつつ、一つ一つの動作や姿勢などといった個人の身体の細部にまで介入しようとする、支配の一般的方式のことである。その手段として用いられるのは、絶え間のない監視、矯正に役立つような処罰、個人に関する知の形成をもたらすものとしての試験ないし検査である。学校、工場、軍隊、病院、そして監獄など、社会のいたるところに見いだされるディシプリンのこうしたメカニズムは、イギリスの哲学者ジェレミー・ベンサムによって考案された「パノプティコン」において理想的なやり方で作動するものとされる。「パノプティコン」とは、周囲に円環状の建物、中心には塔を配して、その塔からは周囲の建物の全体をくまなく見わたせるように、そして逆に周囲からは塔の中で監視している者の姿が見えないようにつくられた建築物のことである。すなわちそこでは、「見られずに見る」という監視のシステムが、網羅的な視線を可能にするとともに、権力の機能を自動化して、労力を削減し効果を増大させることに成功しているのである。
西欧におけるディシプリンの出現を、フーコーは、18世紀ヨーロッパの歴史的状況に結びつけて説明する。人口の爆発的増加および生産機構の拡大という当時の状況のなかで、個々人をよりよく管理して生産の効率を上げることを可能にするような権力の介入の技術が必要とされるようになってくる。既存の権力、つまり封建制や王制の権力は、多くのすき間を残し、無駄を生じさせ、生産プロセスを妨害するようなものであった。そこでここに、ディシプリンが発明される。すなわち、社会をその最小の要素としての個人に至るまで網羅的に攻囲し、労力の節約をもたらし、生産のプロセスに直接織り込まれるような技術が登場する、ということである。ディシプリンは、科学技術や科学形態など、18世紀の西欧にもたらされた数々の重大な発明に匹敵するものとして描き出されているのである。
[慎改康之]
『ミシェル・フーコー著、田村俶訳『監獄の誕生』(1977・新潮社)』▽『ミシェル・フーコー著、渡辺守章訳『性の歴史Ⅰ 知への意志』(1986・新潮社)』▽『ミシェル・フーコー著、蓮實重彦・渡辺守章監修、小林康夫・石田英敬ほか訳『ミシェル・フーコー思考集成』全10巻(1998~2002・筑摩書房)』▽『ミシェル・フーコー著、慎改康之訳『異常者たち――コレージュ・ド・フランス講義1974―1975年度』(2002・筑摩書房)』
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