日本大百科全書(ニッポニカ) 「蓮實重彦」の意味・わかりやすい解説
蓮實重彦
はすみしげひこ
(1936― )
文芸・映画評論家、フランス文学者。専攻は表象文化論。東京生まれ。父は美術史学者・蓮實重康(1904―79)。学習院高等科から一浪ののち、東京大学教養学部文科二類に入学。仏語担当だった助教授山田(じゃっく)がコンパの席で放った、「てめえら、フローベールの感情教育を知らねえだろう。感情教育ってのは終わらねえんだ」との啖呵(たんか)に「将来を決定」(『表層批評宣言』自筆年譜)づけられ、「ギュスタアヴ・フロオベエル、初期作品の研究」をもって文学部仏語仏文科を卒業した。
大学院仏語仏文学専攻科に進学後の1962年(昭和37)、フランス政府給費留学生として渡仏。のちに妻となるマリー・シャンタル・バン・メルケベークと出会う。65年、パリ大学に博士論文「ボヴァリー夫人によるフローベールの心理的方法」を提出後、帰国。東京大学文学部助手、教養学部講師、同助教授などを経て、88年に東京大学教養学部教授。仏文学における業績には、『フローベール全集』8~10「書簡」(訳編、1967~70)、サルトル『家の馬鹿息子――ギュスターヴ・フローベール論』(共訳、1982~89)などがあり、『凡庸な芸術家の肖像――マクシム・デュ・カン論』(1988)で芸術選奨文部大臣賞を受けた。
蓮實の特色は何よりもまず、ロブ・グリエ、バルト、リシャールらを中心に「ヌーボー・ロマン」「ヌーベル・クリティック」を論じた『批評あるいは仮死の祭典』(1974)や、当時いまだ知的流行でしかなかった『言葉と物』(1966)、『差異と反復』(1969)、『根源の彼方に――グラマトロジーについて』(1967)というおのおのの代表的著作を「作品」として戦略的に読み解いた『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(1978)に見られる、パセティックかつ高密度な文体にある。模倣者を続出させたこの文体の効力は、「安岡章太郎論」(1971)を嚆矢(こうし)とする文学批評の領野でも最大限に発揮され、いち早く後藤明生の『挟み撃ち』を評価した論稿を収録する『小説論=批評論』(1982)をはじめ、『夏目漱石論』(1978)、『表層批評宣言』(1979)、『物語批判序説』(1985)、『小説から遠く離れて』(1989)などを次々に刊行。対話『闘争のエチカ』(1988)を共著した柄谷行人とともに、80年代以降の日本における知のシーンをリードした。
また、映画評論家としても活躍。『監督小津安二郎』(1983)、『映画はいかにして死ぬか』(1985)などを発表する一方、編集長の立場で季刊映画誌『リュミエール』の創刊に立ち会い(1985~88)、2001年(平成13)8月には第58回ベネチア国際映画祭・現代映画部門の審査委員長に選出されている。
他方、東京大学副学長、大学院総合文化研究科教授を歴任後、97年4月、第26代東京大学総長に就任。98年3月27日の卒業式では、東大卒の官僚たちが検挙された金融不祥事に言及、「知識や情報に恵まれていたはずの当事者たちが、まさに知性だけを欠落させているとしか思えない」「東大卒という資格は、知性を今後も無条件で保証し続けるものではない」との異例の指弾を行った。98年12月からは国立大学協会会長も務め、2001年3月に東京大学を退官。
他の重要な仕事に、唯一の長編小説『陥没地帯』(1986)、『反=日本語論』(1977。読売文学賞評論・伝記賞)がある。
[水谷真人]
『『批評あるいは仮死の祭典』(1974・せりか書房)』▽『『フーコーそして/あるいはドゥルーズ』(1975・小沢書店)』▽『『小説論=批評論』(1982・青土社)』▽『『映画はいかにして死ぬか』(1985・フィルムアート社)』▽『『凡庸な芸術家の肖像――マクシム・デュ・カン論』(1988・青土社)』▽『『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』『小説から遠く離れて』『陥没地帯』(河出文庫)』▽『『夏目漱石論』(福武文庫)』▽『『物語批判序説』(中公文庫)』▽『『表層批評宣言』『反=日本語論』(ちくま文庫)』▽『『監督小津安二郎』(ちくま学芸文庫)』▽『蓮實重彦・柄谷行人著『闘争のエチカ』(河出文庫)』▽『ギュスターヴ・フローベール著、蓮實重彦ほか訳編『フローベール全集』8~10「書簡」(1967~70・筑摩書房)』▽『ジャン・ポール・サルトル著、平井啓之・鈴木道彦・海老坂武・蓮實重彦訳『家の馬鹿息子――ギュスターヴ・フローベール論』(1982~89・人文書院)』