アメリカの総合化学会社。正式名称はイー・アイ・デュポン・ド・ヌムール・アンド・カンパニー。総合化学メーカーとしては世界最大規模。主力製品は、特殊化学製品、ナイロンやポリエステルなどの合成繊維、農業化学製品、薬剤などであるが、バイオテクノロジーを駆使したライフサイエンス(生命科学)事業にもとくに力を入れている。同社は、135に上る製造工場・設備を世界70か国以上で稼動させており(2001)、北アメリカ、ヨーロッパをおもな拠点として、南アメリカ、アジア・太平洋地域などの成長市場にも活動の幅を広げている。
[佐藤定幸・萩原伸次郎]
デュポンは、1915年デラウェア州法人É・I・デュポン・ド・ヌムール火薬会社として設立された。前身は1802年初代社長エルテール・イレネー・デュポンがフランスから亡命してきて設立した火薬工場である。19世紀末までにアメリカ最大の火薬メーカーに成長したあと、20世紀初めから1920年代末まで、同社は買収・合併を重ねながら総合的な化学会社へと転換していった。この間1912年反トラスト法であるシャーマン法違反判決を受け、ハーキュリーズ火薬およびアトラス火薬の両社を分離。また、1920年には財務危機に陥っていたゼネラル・モーターズ(GM)へ出資したことが、その後の急発展を支える重要な要素となった。デュポン財閥のGM持株比率は1922年末37%にも上ったが、反トラスト訴訟の結果、1962年以降、デュポンによるGM持株はすべてデュポンの株主に割り当てられ、デュポンとGMとの間の直接的関係は断ち切られた。
同社の技術開発は1930年代以降目覚ましい発展を遂げ、1931年にはネオプレン、1935年にはナイロンなどの新製品が続々生み出された。第二次世界大戦後、しばらくは世界最大の化学会社として化学産業界に覇をとなえたが、その後ドイツの旧イー・ゲー・ファルベン系3社の復活、ヨーロッパや日本の化学メーカーの追い上げにあって、その地位は大いに揺らぐに至った。1964年に発表した合成皮革コルファムの失敗など、当時の同社の活動はかならずしも順調とはいいがたかった。1970年代に入り、石油化学産業の急発展にかんがみ、石油資源の保有量に不安を抱いたデュポンは、1981年にカナダのシーグラムと争って大手石油会社のコノコConoco Inc.(現、コノコフィリップス)の買収に成功した。しかし、買収に際し、一部をデュポン株との交換という方式をとったため、シーグラムがコノコ合併後のデュポンの株式所有比率(20.1%)において、デュポン一族の合計(19.8%)を上回るという奇妙な事態が生じた。一方、買収のための巨額な銀行借入れは、同社の財務内容を悪化させるという結果をも生んだ。
[佐藤定幸・萩原伸次郎]
1981年のコノコ買収以来、同社は石油エネルギー部門のコノコと、化学製品部門のデュポンという二つの体制で経営を行ってきた。しかし、原油価格の低迷による収益の悪化から、1998年9月に石油部門の分離を発表。デュポンは合成繊維と基礎化学品に経営を一本化し、とりわけ先端技術を利用したバイオテクノロジーなどのライフサイエンス・ビジネス(生命科学事業)に精力を注ぐ。1997年8月の植物種子の最大手パイオニア・ハイブレッド・インターナショナルとの提携、同年12月の大豆タンパク製品メーカーのプロテイン・テクノロジーズ・インターナショナルの買収などは、いずれも将来のバイオテクノロジー事業での主導権を握るための布石であった。2008年の売上高は305億ドル、純益20億ドル。
[佐藤定幸・萩原伸次郎]
日本では、1961年(昭和36)に発足したデュポン・ファーイースト日本支社などを統合して、1993年(平成5)デュポン株式会社を設立。2008年の同社の売上高は1291億円である。そのほか、1964年(昭和39)に東洋レーヨン(現、東レ)との合弁で東洋プロダクツ(現、東レ・デュポン)を設立し、また、三井・デュポンフロロケミカル(三井化学との折半出資)などに出資するほか、旭化成とナイロン原料の供給契約で提携関係を結んでいる。
[佐藤定幸・萩原伸次郎]
『小沢勝之著『デュポン経営史』(1986・日本評論社)』▽『大森実著『戦争コングロマリット――デュポン帝国』(1986・講談社)』▽『デビッド・タナー著、岡本三宜・梶原莞爾訳『デュポンの創造性開発』(1998・日刊工業新聞社)』▽『ロザベス・モス・カンター他編、堀出一郎訳『イノベーション経営――3M、デュポン、GE、ファイザー、ラバーメイドに見る成功の条件』(1998・日経BP社)』▽『田口定雄著「21世紀成長戦略構築へ挑む欧米企業(1)――米国総合化学大手/デュポン」(月刊『化学経済』2001年4月号所収・化学工業日報社)』▽『上野明著『アメリカの大企業――代表12社の経営戦略』(中公新書)』▽『Adrian KinnaneDuPont ; From the Banks of the Brandywine to Miracles of Science(2002, Johns Hopkins University Press)』
アメリカの実業家。アメリカ最大の化学会社デュポンの創立者。パリの生まれ。父Pierre Samuel du Pont de Nemours(1739―1817)は経済学者、外交官、行政官、雑誌の編集発行人と多才の人。彼は若いころから火薬工場、印刷工場などの仕事を経験し、フランス革命の際に反革命のパンフレットの印刷などをした。
ジャコバン党によって工場が没収され、1799年アメリカに亡命し、1802年、経験を生かしてデラウェア州ウィルミントンに火薬工場を建設した。南北戦争、西部開拓など、19世紀を通じて増大する需要に支えられて、火薬事業は順調に伸びた。彼は63歳で死去したが、会社は20世紀初めには火薬工業界を支配するまでに成長し、工場数は100を超す経営規模となった。
1912年に、反トラスト法によって企業分割を余儀なくされたが、2回の世界大戦を通してふたたび巨大企業へと成長した。火薬以外にも数多くの化学製品を生産し、自動車、原子力にも手を広げた。
[川又淳司]
フランスの舞踊家、振付師。パリ生まれ。パリ・オペラ座バレエ学校でボゾーニMax Bozzoni(1917―2003)に師事、1974年パリ・オペラ座バレエ団入団。1976年、バルナ国際バレエ・コンクール、ジュニア部門で金賞受賞。1980年エトワール(第1舞踊手principal)昇格、以後他バレエ団にゲスト出演多数。1988年国立ナンシー・バレエ団芸術監督、1990年からはR・ヌレーエフの後任として1995年2月までパリ・オペラ座バレエ団芸術監督を務める。舞踊家としては、スピーディーで跳躍力のあるエネルギッシュな演技で、とくに『海賊』『ドン・キホーテ』などに個性を発揮、「アンファン・テリブル」(恐るべき子供)とよばれ強い個性をもつ。芸術監督としては古典ばかりではなく、新作品にも積極的で、J・ノイマイヤーの『バスラフ』、R・プチの『オペラ座の怪人』、M・ベジャールの『サロメ』など多数を踊る。
[國吉和子]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…アメリカ最大の総合化学・繊維メーカー。略称,デュポン社。本社デラウェア州ウィルミントン。…
…そのため,ヨーロッパの装身具メーカーのブランド商品に人気があるが,一般品では世界シェアの80%を日本製品が占め,年間1億個以上輸出されている。有名メーカーとしては,アメリカのロンソンRonson(1917年より生産),イギリスのダンヒルDunhill(1924),フランスのデュポンDupont(1942)などがある。【小川 伸】。…
※「デュポン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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