日本大百科全書(ニッポニカ) 「イー・ゲー・ファルベン」の意味・わかりやすい解説
イー・ゲー・ファルベン
いーげーふぁるべん
I. G. Farben
Interessengemeinschaft Farbenindustrie Aktiengesellschaft(利益共同染料株式会社)の略。第二次世界大戦前、ドイツ国内の企業ランキング第1位であった総合化学会社。1925年、バイエル社のC・デュースベルク、BASF社のC・ボッシュが中心となって、ドイツの主要な染料、肥料、医薬品会社である、バイエル、BASF、ヘキスト、アグフアなど6社の大合同を図り成立し、監査役にデュースベルク、社長にボッシュがそれぞれ就任した。第一次世界大戦後の相対的安定期のドイツにおいて、化学工業は基幹産業として目覚ましい発展をみせ、輸出産業の代表的存在となった。同社のドイツ化学工業全体のなかに占める比重は大きく、総生産額の30~35%、総従業員数の30%弱を占めるに及んだ。会社組織の面では本社に技術、販売部門を集中し、製造部門では工場に比較的独自の判断をゆだねる分権制を採用した。製品は染料を中心として、窒素、無機化学品、写真製品、合成皮革など広範囲にわたった。1920年代末からスタンダード石油(ニュー・ジャージー)と人造石油の開発技術について提携関係を結ぶ一方、国際染料カルテルを主導し、ドイツ化学工業を一躍世界第1位に押し上げた。1929年大恐慌の到来とともに世界市場は収縮し、輸出比率の高かった同社の経営は大打撃を被った。1933年1月に成立したナチス政権下では、軍事経済体制に積極的に協力し、人造石油、合成ゴム、合成樹脂、人絹、ステープルファイバー(スフ)、医薬、農薬などの生産を強化した。1939年から1942年の間に売上げは1.5倍の伸びを示した。第二次世界大戦終了時の企業規模は、資本金14億ライヒスマルク、傘下会社は国内約200社、海外約500社、株主は15万人を数えた。
敗戦後、連合国の支配下で同社の管理グループが設けられ、また同社の関係者23人が戦犯として起訴され、うち8人が8年以下の禁錮刑(きんこけい)に処せられた。1951年同社の解体案が決定され、バイエル、BASF、ヘキスト、カッセラ、ヒュルスとして再編成された。このうちカッセラはヘキストの傘下に、ヒュルスはバイエルとBASFの共同支配下に置かれたので、ヘキスト、バイエル、BASFの実質3社の分割といえる。その後、ヘキストは二度の合併を経たのちに、本社をフランスに置くサノフィ・アベンティスとなったが、3社は世界有数の化学・製薬会社としてそれぞれ発展している。
[湯沢 威]