フランスの化学者。
高等法院の検事の息子として、パリに生まれる。マザラン・カレッジで学んだのち、パリ大学法学部に入り、法学士の資格をとった(1764)。しかし、家業は継がず、自然科学の知識の吸収に熱中した。とくに、以前から家と親交のあった地質学者ゲッタールの影響は大きく、鉱物の標本を集めたりしていたし、化学への関心も彼によってかき立てられたようである。
最初の化学研究は石膏(せっこう)の分析で(1764~1765)、早くも定量的方法が使われている点で注目に値する。また、パリ市の照明に最適な街灯を求むというコンクールに応募して、メダルを獲得した(1766)。1767年には、ゲッタールとともに、鉱物地質地図作成のための旅行をし、その後も10年間ほどこの地図の完成のために努力した。この旅行で集めた飲料水の分析結果を発表し、パリ科学アカデミー会員に選ばれた(1768)。同年末、水が土に変換しうるという説の真偽を確かめるため、水を密閉容器内で101日間沸騰し続けた。そして精確な秤量(ひょうりょう)を行い、生成した白い沈殿物は容器の内壁が溶け出したものであることを示し、先の説の誤りを立証した。また同年、徴税請負人組合の一員となって経済的にも自立し、1771年には同業者の娘を妻に迎えた。1775年には火薬硝石公社の管理人となり、翌1776年兵器廠(しょう)に移り住んだ。そこにりっぱな実験室をつくり、実験の大部分はそこで行われることになる。
[吉田 晃]
当時化学者の興味をひいた現象に燃焼があり、ダイヤモンドの燃焼や、凸レンズを使った太陽光線による燃焼実験が繰り返された。燃焼の理論としては、シュタールによるフロギストン説が知られていた。すなわち、燃焼とは一種の分解現象で、燃焼物中に含まれていたフロギストン(燃素)が飛び出てきて、熱や炎となるというのである。一方、金属が加熱によって金属灰となる煆焼(かしょう)も、燃焼と同じ現象とみなされた。ところが、一般には燃焼後に残る灰は軽くなるのに、金属灰ではすべて重量が増加することが明らかになってきた。そこで、この矛盾をいかにして説明するかが問題となった。
ラボアジエは、1772年にリンの燃焼実験を行い、重量が増加することを確認し、続いて、硫黄(いおう)についても同様であることをみいだした。その際、空気が吸収されることから、燃焼や煆焼における重量増加の原因は、空気の吸収にあると考えた。そこで1773年の初めから、燃焼と重量増加の問題を徹底的に調べることを決心した。彼はまだフロギストンの否定はせず、燃焼の際、フロギストンと空気が入れ替わるとした。しかしこの吸収される空気は、ブラックが1755年ころ発見した「固定空気」(二酸化炭素)ではないかと考えていたため、解決の糸口をつかめずにいた。1774年10月にプリーストリーがパリを訪れ、数か月前に行った酸化水銀の実験およびその際得られた燃焼を助ける気体(酸素)について語ったが、ラボアジエの関心をひかなかったようである。翌1775年になって、ラボアジエは酸化水銀を強熱して酸素を得る実験を繰り返し、二酸化炭素との区別をはっきりさせることができた。酸素という名称は1779年になって提唱されるが、その動機は、一般に酸素と結合すると酸が生成すると考えたからである。燃焼の際の重量増加は結合する酸素の量に一致するので、燃素を仮定する必要はないとしてフロギストン説を批判した。
[吉田 晃]
一方でラボアジエはラプラスと協力して熱量計による実験を行った。これはラプラスの考案によるもので、氷が熱により融(と)けて水となった量を量るという簡単な装置で、比熱、反応熱、呼吸による熱などが測定された(1782~1783)。
ラボアジエは、水素も酸素と結合すると酸になると考えていたため、水の生成(キャベンディッシュが発見)を見過ごしたが、水の分解を最初に行ったのは彼である。1784年に鉄管を灼熱(しゃくねつ)し、中に水滴を垂らすことにより、水素を得た。これは、1783年に始まった軽気球飛行に必要な大量の水素を得るために考えられたものである。水は正確に酸素と水素とからだけ成り立っていることが定量的に確かめられて以後(1785)、酸素による燃焼理論を支持する化学者が少しずつ増えてきた。
1787年、ギトン・ドゥ・モルボを中心として、ラボアジエ以下反フロギストン派により『化学命名法』が出版され、元素の定義とともに水素、窒素などの名称が採用された。しかし、その元素のなかには光やカロリック(熱素)が含まれており、ラボアジエによれば、酸素ガスとは酸素元素とカロリックとが結合したものであった。1789年に、この新命名法および新しい気体化学に基づいて、入門書として『化学綱要』を執筆した。そのなかで、彼がこれまで意識的に使ってきた質量保存の原理が明確に述べられている。同年、反フロギストン派により『化学年報』が創刊され、彼の説を広める役を担った。しかし、少なくともフランスにおいては、ラボアジエの支持者たちは酸素による燃焼の理論だけでなく、酸素を酸の原因とする理論およびカロリック説も受け入れたことにより、19世紀に問題を残した。
ラボアジエは農業にも関心を示し、ブロアの近くの土地を入手したのを機会に、作物の収穫を増やすための実験を始め、王立農業学会や、政府の農業委員会に加わった。思想的には、ケネーらの重農主義者に近い考えをとっている。
[吉田 晃]
フランス革命は、他の科学者同様、ラボアジエに対しても政治的参加の場を提供した。すでに革命前の1787年には所有地のオルレアン地方議会で第三階級代議員として活動していた。1789年にはパリ自治市の代議員となった。1791年に徴税請負制度が廃止されたが、ラボアジエの財政上の手腕が買われて、国庫財務委員に任命された。国民議会により度量衡の統一が決定されると、新しい単位決定のため、科学アカデミー内に委員会が設けられた(1791)。ラボアジエは、質量の単位を決定するため、各温度のもとで一定体積の蒸留水の質量を精密に測定した。忙しい公務の合間にも自分の研究を続け、その対象は気体化学そのものから、呼吸と燃焼の関係といった生理学的なものに移っていった(1790~1791)。おそらく革命の行きすぎを懸念したためであろうが、科学アカデミーの活動に専念するために、結局政府のポストをすべて辞任し、兵器廠の住居も引っ越した(1792)。しかし、恐怖政治の始まった1793年の夏には、他のすべての学会とともに科学アカデミーも閉鎖された。同年秋には元徴税請負人は全員逮捕され、1794年5月、ラボアジエも含めて、断頭台に送られた。彼の化学における仕事はすでに終了していたといえるが、呼吸の生理学的研究は始まったばかりで中断されてしまった。
[吉田 晃]
『E・グリモー著、江上不二夫訳『ラヴォアジェ伝』(1941・白水社)』▽『M・ドーマ著、島尾永康・天羽均訳『ラヴォワジエ』(1978・東京図書)』▽『中川鶴太郎著『ラヴォアジエ』(1991・清水書院)』▽『エドアール・グリモー著、田中豊助・原田紀子・牧野文子訳『ラボアジエ 1743―1794』(1995・内田老鶴圃)』
フランスの化学者。パリ生れ。マザラン・カレッジ在学時に数学,天文学などをも学んだが,1761年にパリ大学法学部に移り,3年後に父と同じく高等法院弁護士の資格を得る。しかし,法学部在学中に化学の講義を聴講したり,地質学者ゲッタールJ.E.Guettardの地質調査の手助けをし,フランス鉱物地図作製に協力を始めた。64年に最初の化学研究としてセッコウの研究を行い,またパリ市街照明改良のコンクールに応募し,金メダルを得た(1766)。アカデミー・デ・シアンス化学会員に24歳の若さで選ばれ(1768),その直前に徴税請負事務所(政府のために間接税取立てを行う私的機関)にポストを得,3年後同僚の娘と結婚した。75年火薬・硝石公社の理事に任命されたため,翌年兵器厰に住居を移し,そこにりっぱな実験室を作った。78年ブロア(ロアール地方)の近くに広い土地を買い,農民の生活向上を目的とした農産物増産のための実験を始めた。これにより,83年にパリ農業学会員に選ばれ,2年後農業委員会のメンバーとなる。87年政府により地方三部会の設置が決定されると,第三身分の代表の一人としてオルレアン地方三部会に選出された。89年には財務の手腕が買われて割引銀行の理事に抜擢(ばつてき)され,その2年後,徴税請負が廃止されると国家財政委員に任命されたが,短期で辞職した。90年新しい度量衡法設置について国民議会からの諮問に対し,アカデミー・デ・シアンスはメートル法を提案し,ラボアジエは翌年,度量衡委員会の会計・書記を任ぜられた。また体積の標準を決定するため,アユイR.J.Haüyとともに0℃の純水の密度を真空中で測定した。しかし,93年には恐怖政治が始まり,国民公会はすべてのアカデミーの閉鎖を決定した。同年11月にはラボアジエ以下多くの元徴税請負人が逮捕され,94年5月,革命裁判後ギロチンで処刑された。
アカデミー・デ・シアンス会員となった直後に行ったのは,水が〈土〉に変換しうるとする説に対する反証実験である。彼は反復蒸留装置で水の蒸留を101日間続け,内に生じた不溶性の物質は,ガラスの内壁が溶け出したものであることを,てんびんを使った定量実験で示した。1772年夏,アカデミー・デ・シアンスの他の会員と共同で,凸レンズを使って太陽光線による燃焼の実験を行ったが,このころから燃焼現象や気体に関心をもち始めたようである。秋には,リンが燃焼すると〈空気〉を吸収して重量が増加することを確認し,次いで硫黄でも同じ現象を見いだした。このことから,当時一般に受け入れられていたフロギストン説(物質中に含まれているフロギストンが空気中に遊離していく分解現象が燃焼であるとする理論)に疑問を抱くにいたったようであり,燃焼に関する種々の実験を繰り返し,結果を《物理学・化学小論》(1774)にまとめた。74年10月たまたまJ.プリーストリーがラボアジエを訪問した際,酸化水銀を強熱して得られた新しい気体(酸素)について語った。しかし,酸化水銀が強熱しただけで還元されることは,他のフランス人化学者によりすでに同年春に発表されていたし,ラボアジエがこの気体に注目して酸化水銀還元の実験を行うのは翌年2月であった。よって,ラボアジエがそのままプリーストリーのまねをしたとはいえない。こうして得られた酸素を使って呼吸や燃焼の実験を繰り返し,窒素や二酸化炭素との違いをはっきりさせて酸素の役割を明らかにし,77年からは公然とフロギストン仮説を批判し始めた。79年になって,この気体を〈酸素〉と命名したが,これは当時酸素と化合しているとわかった化合物が,金属酸化物を除いて,酸の性質を示したからである。また気体酸素は,酸素元素と質量ゼロの〈カロリック(熱素)〉とが結合したものと考え,燃焼熱はこの〈カロリック〉の遊離によるとした(熱素説)。82年からP.S.ラプラスとともに熱量計を使って比熱,反応熱,動物の発生する熱量などの測定を始めた。ラプラスの考案したこの熱量計は,発生した熱によって器の中の氷が溶け,流れ出た水の量で熱量を比較するというしくみであった。83年に行った水素と酸素の化合の実験で,生成するものが酸ではなくて水であることがわかり,水は単体ではなく化合物であると主張した。しかし,水の合成実験は,H.キャベンディシュがすでに行っていた。次に,当時始まった気球飛行に必要な大量の水素を得るため,84年にムーニエJ.B.M.Meusnierと共同で,赤熱した鉄管中に水滴をたらして水の分解を試み,翌年にはさらに大がかりな分解実験を行った。
この実験以後,彼の酸素による燃焼理論に同調する化学者が出現し,ギートン・ド・モルボーL.B.Guyton de Morveau,フルクロアA.F.Fourcroyおよびラボアジエの共同著作《化学命名法》(1787)が出版されるにいたった。発案者はギートン・ド・モルボーで,錬金術時代からの俗名を廃止して,化合物を構成元素名に基づいて合理的に命名しようというものであり,現在の命名法の基となっている。89年ラボアジエは酸素による燃焼理論および新しい化学命名法に基づいた《化学要論》を出版し,元素の定義や質量保存則を明確に述べた。また同年この新化学体系に基づいた研究発表の場として,他の同調者とともに化学雑誌《Annales de Chimie》を創刊した。次のテーマであった生理化学(呼吸)の研究は,彼の処刑により永遠に中断されてしまった。
執筆者:吉田 晃
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フランスの化学者.法律家の息子で,当初,法律家としての教育を受けたが,科学研究を志し,地質学や化学を学んだ.1768年パリ科学アカデミーの副会員に選出され,以後順調に準会員(1772年),正会員(1778年)と昇進し,1785年には幹事長も務めた.同時に1768年徴税請負人になり,その公務にも励んだ.1771年徴税請負の同僚の娘だった当時13歳のMarie Paulzeと結婚.翌年秋から燃焼についての研究をはじめ,当時,フランスで受け入れられていたG.E. Stahl(シュタール)のフロギストン(燃素)説(燃焼をフロギストンの放出として説明)を批判して,金属の燃焼による金属灰生成での重量増加から,なにか空気(気体)が結合していると考えた.当時,すでに空気にさまざまな種類のあることがわかっていた.J. Priestley(プリーストリー)が赤色水銀灰(酸化水銀)から得た新気体(1774年)を,かれは,普通空気のより純粋な部分と考え,燃焼をこの気体との結合ととらえた.多くの酸にこの気体が含まれていることから,かれはこの気体を酸のもと“酸素”(oxygéne)と命名した.1775年王立火薬監督官に任命され,兵器工廠内に居住して,そこに実験室も設けた.1778年にはブロワ(パリの南西約150 km の都市)近郊に領地を購入して,農業実験をはじめた.1783年水の分解・合成実験から古代以来の水の元素性を否定し,それ以上は分けられない分析の到達点を元素とよび,この操作主義的な元素定義に従って,33というそれまで類のないような多数の元素を提案した(1789年,“化学要論”Traité élémentaire de chimie).同年,フランス革命がはじまるとパリ市会の議員に選出され,銀行経営,農業統計,メートル法制定などの事業に参与した.しかし,革命の急進化のなかで,1793年徴税請負人の一人として逮捕され,革命裁判所で裁かれ,1794年,即日,ほかの徴税請負人とともにギロチンで処刑された.なお,Lavoisier夫人は英語と絵画を習い,さらに夫のサークルの学者から最新の化学を学び,イギリスの学者の著作を翻訳したり,Lavoisierの著作の挿絵の制作や,さらには実験助手を務めるなど,研究を含めたLavoisierのよきパートナーであった.
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…しかし,発見者たちは各気体をフロギストン説の枠組みの中に位置づけようとした。これに対してA.L.ラボアジエは,燃焼等の化学反応に伴う重量変化を厳密に測定し,燃焼(煆焼(かしよう))によって金属の重量は増す一方,それだけの重量が空気から失われるのを発見した。この事実に基づき,ラボアジエは物質の燃焼が空気中の酸素との化合であることを示した(1784)。…
…しかし,通常の室内では人体の呼吸のみによって有害な濃度になるとは考えられず,不快の直接的原因とは考えにくい。(3)人間毒説 炭酸ガス有毒説はフランスの化学者A.L.ラボアジエが18世紀に唱えたものであったが,19世紀に入ってM.vonペッテンコーファーは,呼吸による炭酸ガスの増加は無害であり,呼気には未知で微量な有害物質があると考えた。これを人間毒と呼び,呼気の炭酸ガス量に比例して発生するという仮説を唱え,炭酸ガス濃度0.07~0.1%を許容値とした。…
… もっともこうした段階での原子論は,まだ形而上学的な意味合いにとどまっていた。18世紀末,いわゆる化学革命を実行して,近代的化学の成立に貢献したラボアジエでさえ,原子の概念をまじめに取り扱ったとはいえない。しかしラボアジエの定立した元素の背後に具体的に原子を当てはめ,それらの相対的な重量比を導入し,原子どうしの結合や分離によって,化学反応をとらえるという,ドルトンの新体系(《化学哲学の新体系》)こそ,今日の原子論を基盤にした化学の出発点だったといえる。…
…このもとの金属に戻るreduceとする考え方が還元reductionの語源となった。フランスの化学者A.L.ラボアジエは1770年代に,密閉した容器の中でスズや鉛を加熱すると金属光沢を失って灰化するが,容器全体の重さは変化せず,金属が灰化することがフロギストンを失うこととする考え方に大きな疑問を抱いた。ラボアジエはさらに,J.プリーストリーが行った酸化水銀の加熱分解についての実験にヒントを得て燃焼の研究を続けた。…
…これが現在の酸素であり,プリーストリーとシェーレが酸素の発見者であるとされている。74年,プリーストリーから脱フロギストン空気について説明を受けたA.L.ラボアジエは,この気体を〈きわめて呼吸に適した空気〉と呼んで,さらに研究を進め,木炭,リン,硫黄などの燃焼現象が,これら可燃性物質と酸素とが結合する現象であることを明らかにし,フロギストン説を否定した。そして81年,ラボアジエは酸素中での燃焼生成物が酸の性質をもっていると主張し,この元素をギリシア語のoxys(酸)とgennaō(生ずる)からoxygèneと命名した。…
…化学反応の際には反応する物質の全質量と生成する物質の全質量はまったく等しく,反応の前後において物質の全質量は変わらないという法則である。1774年A.L.ラボアジエにより発見され,〈定比例の法則〉や〈倍数比例の法則〉とともに,原子の存在を仮定する実験的基礎になった。1908年ランドルトHans Heinrich Landolt(1831‐1910),09年R.vonエトベシュらにより精密な実験で検討され,化学反応に関するかぎりつねに成り立つことが証明された。…
…彼は鉄,亜鉛,スズなどに希硫酸や希塩酸を加えて水素を発生させ,可燃性の軽い気体が発生することを認めた。その後,フランスのA.L.ラボアジエは水を強熱して分解すると同じ気体が得られることを認め(1783),水のもととなる元素という意味でギリシア語のhydōr(水)とgennaō(生む)からhydrogèneと命名した。重水素を発見したのはアメリカのH.C.ユーリーである(1931)。…
…生化学の一般的方法は,ある一つの生体現象系からそれに関与すると思われる成分を抜き出して,その現象を試験管内で再現し,さらにこの現象に本質的に関与すると思われる生体分子を純化し同定し,その生体分子の果たす機能を分子的レベルで理解しようとするものである。 歴史的には,18世紀末にA.L.ラボアジエが,糖のアルコール発酵現象において,糖からアルコールと炭酸ガスが生成することを示したことに生化学の始まりがある。発酵が生命現象であることを示したのは,L.パスツールである。…
…これは生命現象は究極において,物理学的および化学的現象あるいは法則に帰着ないし還元されるという観念であり,したがって特殊な生命力は認めない。A.L.ラボアジエが,呼吸の本質を燃焼に帰せしめたことは,その道を準備するものであった。19世紀前半にF.ウェーラーは尿素を(1828),A.W.H.コルベは酢酸を(1845)無機化合物から合成し,生体を構成する有機物質の合成に生命力は必要でないとする見解に論拠を与えた。…
…製鉄の各分野がここで模範的にまとめられた。そしてついにA.L.ラボアジエの新元素観と酸化と還元の理論,G.モンジュがC.L.ベルトレらと共同してこの新理論を冶金に適用し,高炉における還元と吸炭の過程,精錬炉における合金元素,同伴元素,有害元素の酸化除去のプロセスをみごとに解明した。今や炭素,ケイ素,マンガン,リン,硫黄など,鉄中の諸元素の挙動が追究され,技術の向上に決定的に寄与するに至った。…
…物質によって同じ量を同じ温度上げるのに必要な熱量が異なることを示したのである。ブラックの研究に刺激されたA.L.ラボアジエは,P.S.ラプラスと協力して比熱の精密な測定を行った。ブラックらの研究によって初めて熱の量が測定される量として把握されたのである。…
…このとき,熱の移動に伴って,その量が保存されると考えられたことから,ブラックは,熱を一種の物質とみなした。この点を明確にしたのはフロギストン説を批判したA.L.ラボアジエであった。 ラボアジエは1789年の《化学要綱》で〈熱素calorique(フランス語)〉を一つの元素とみなし,それが一定の熱量を担い,物質と結合し(潜熱),あるいは独自には熱として現れると考えた。…
※「ラボアジェ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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