パリ・オペラ座バレエ団(読み)ぱりおぺらざばれえだん(その他表記)Le corps de ballet de l'Opéra de Paris

日本大百科全書(ニッポニカ) 「パリ・オペラ座バレエ団」の意味・わかりやすい解説

パリ・オペラ座バレエ団
ぱりおぺらざばれえだん
Le corps de ballet de l'Opéra de Paris

フランスの国立劇場パリオペラ座専属のバレエ団。1661年にルイ14世によって設立された王立舞踊アカデミーから発展した世界最古のバレエ団で、1671年のパリ・オペラ座開場当初はP・ボーシャン、J・リュリ芸術監督を務め、1871年に現在の名称となった。世界のバレエの中心として、M・カマルゴ、M・サレ、F・エルスラー、M・タリオーニ、C・グリジといった歴史的な舞姫がこの舞台を踏み、G・ベストリス、G・ノベール、ガルデル兄弟Maximilien Gardel(1741―1787)、Pierre Gardel(1758―1840)といった名振付者が作品を発表した。19世紀末に凋落(ちょうらく)し、20世紀初頭にヨーロッパに登場したS・ディアギレフのロシア・バレエ団にその人気を奪われた。1929年から1958年までロシア人のS・リファールが芸術監督になり、再興に努力した。1983年ロゼラ・ハイタワーRosella Hightower(1920―2008)の後を継いで、R・ヌレーエフが1989年まで芸術監督を務めた。ヌレーエフは1993年に亡くなるまで、『ライモンダ』『ドン・キホーテ』など大作バレエを精力的に新制作し、そのうち8本が現在もオペラ座のレパートリーに入っている。またヌレーエフは、シルビー・ギエムSylvie Guillem(1965― )をはじめ多くの若い才能あるダンサーを積極的に抜擢(ばってき)したことでも貢献した。1990~1995年に芸術監督を務めたP・デュポンは、それまでのヌレーエフ路線に新風を吹き込むが、その後ブリジット・ルフェーブルBrigitte Lefèvre(1944― )の監督のもとでは、ふたたびヌレーエフ作品が上演されるようになった。それに加えて彼女はコンテンポラリーの振付家を招き、プレルジョカージュAngelin Preljocaj(1957― )やベラルビKader Belarbi(1962― )などが話題の新作を発表している。

 おもなダンサーには、ニコラ・ル・リッシュNicolas Le Riche(1972― )、オーレリ・デュポンAurélie Dupont(1973― )、ジョゼ・マルティネズJosé Martinez(1969― )、マニュエル・ルグリManuel Legris(1964― )、アニエス・ルテステュAgnès Letestu(1971― )らがいる。なお、パリ・オペラ座バレエ団は1963年(昭和38)以来たびたび来日している。

[市川 雅・國吉和子]

『平林正司著『十九世紀フランス・バレエの台本――パリ・オペラ座』(2000・慶応義塾大学出版会)』『市川雅著、國吉和子編『見ることの距離――ダンスの軌跡1962~1996』(2000・新書館)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「パリ・オペラ座バレエ団」の意味・わかりやすい解説

パリ・オペラ座バレエ団 (パリオペラざバレエだん)
Paris Opéra Ballet

パリのオペラ座所属のバレエ団。1661年王立舞踊アカデミーとしてルイ14世により設立され,71年王立音楽アカデミーと合体した。世界で最も古いバレエ団。その初期にボーシャンPierre Beauchamp(1636-1705)が専任の舞踊教師および振付者として活躍し,ダンス・クラシックの揺籃の場とした。その後,ペクールLouis Pécourt(1653-1729),さらにデュプレLouis Dupré(1697-1774)らが舞踊の技術と様式を発展させてきたが,1720年代にはそれまで優位を占めてきた男性舞踊家に伍して,カマルゴおよびサレMarie Sallé(1707-56)の女性舞踊手が人気を競った。バレエの改革者ノベールがオペラ座で働いた期間は短かったが,その改革はガルデル兄弟Maximilien Gardel(1741-87),Pierre G.(1758-1840)により引き継がれた。1830年オペラ座は私企業的組織に改められ,その支配人となったベロンVéron博士の積極的な行動とともに一気にバレエ・ロマンティック全盛時代をよびおこした。タリオーニエルスラーグリジらの名花が競い合い,《ラ・シルフィード》(1832)や《ジゼル》(1841)が上演された。しかし,彼女らの引退とともにバレエ・ロマンティックは衰退へ向かい,オペラ座のバレエも沈滞する。《コッペリア》(1870)の成功もその凋落を救えなかった。20世紀に入りディアギレフのバレエ・リュッスがヨーロッパを席巻するが,このころオペラ座の支配人となったジャック・ルーシエは,1929年S.リファールをメートル・ド・バレエに任命し,オペラ座の改革にあたらせた。リファールは58年までその任にあたり,フランス・バレエに再び生気を与え,水準を引き上げ,今日の基盤を築きあげた。その後は強力な専任振付師を欠いているが,そのためにレパートリーが多様化された。63年初来日。エトアール(最高位の踊り手)の一人,ノエラ・ポントアNoëlla Pontois(1943- )は日本で高い人気をもち,イベット・ショービレYvette Chauviré(1917- )は日本でも指導にあたっている。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パリ・オペラ座バレエ団」の意味・わかりやすい解説

パリ・オペラ座バレエ団
パリ・オペラざバレエだん
Paris Opéra Ballet

ルイ 14世によって 1661年「王立舞踊アカデミー」として創立された世界最古のバレエ団。当初パレ・ロワイヤルを本拠とし,初代監督に P.ボーシャンを迎えた。やがて王立音楽アカデミーと合併して王立音楽舞踊アカデミーとなり,18世紀には,専用劇場の設立とともに,G.ベストリス,J.ノベールらの芸術監督のもと,M.カマルゴ,M.サレらのバレリーナが活躍。続いて M.タリオーニ,C.グリジ,F.エルスラーら,ロマンチック・バレエ時代を代表するバレリーナを数多く輩出し,J.コラリ,A.サン=レオンらのすぐれた振付師を育てて,世界をリードするバレエ団となった。 1875年 C.ガルニエの設計により完成したオペラ座に本拠を移し,以来一時的な衰退を経て,20世紀初頭バレエ・リュスによるオペラ座公演に刺激を受けて活気を取戻し,1930年同バレエ団から S.リファールを監督に迎えた。以来再び歴史と伝統を誇るバレエ団として名声を得ている。なお,同バレエ団のダンサーは7階級に分れているが,そのトップ・クラスに位置する者はエトワールといわれ,監督推薦によりオペラ座総裁によって任命される。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル大辞泉プラス 「パリ・オペラ座バレエ団」の解説

パリ・オペラ座バレエ団

フランスのパリを拠点とするバレエ団。17世紀後半、ブルボン朝時代に設立。史上初のバレエ団であり、世界的に広く知られる。オペラ座(ガルニエ宮)とオペラ・バスティーユで公演を行う。歴代の主な芸術監督はバレエ・リュス出身のセルジュ・リファール、ルドルフ・ヌレエフなど。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内のパリ・オペラ座バレエ団の言及

【グアテマラ】より

… 1821年にメキシコが帝国として独立するとともに,グアテマラは同帝国の中米州の一部としてスペインから独立し,ついで中央アメリカ連邦(中央アメリカ)の指導的立場についたが,保守派と自由派の内部対立の激化は連邦の解体にいたり(1838),グアテマラは独立した主権国家となった。両派の対立は根深いものがあり,39年から71年まで保守派の長期政権がつづいたのち,自由派の革命によってフスト・ルフィノ・バリオスが政権につき,教会領の没収等の自由主義改革を促進した。 19世紀後半に生産量を増加させつつあったコーヒーは自由派政権下で同国の主要輸出品となった。…

※「パリ・オペラ座バレエ団」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

仕事納

〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...

仕事納の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android