日本大百科全書(ニッポニカ) 「ナゴルノ・カラバフ戦争」の意味・わかりやすい解説
ナゴルノ・カラバフ戦争
なごるのからばふせんそう
1991年にアゼルバイジャンからの分離独立を図ったナゴルノ・カラバフ共和国をめぐって、同共和国およびそれを支援するアルメニアと、アゼルバイジャンとの間で始まった戦争。ナゴルノ・カラバフ紛争ともいう。
ナゴルノ・カラバフは、アゼルバイジャン西部に位置し、ソビエト連邦(ソ連)時代はアゼルバイジャンの自治州であったが、住民の8割を占めるアルメニア人が以前からアルメニアへの帰属替えを要求していた。そうしたなか1988年2月、アゼルバイジャンのスムガイトで、アルメニア人による帰属替え要求に反発するアゼルバイジャン人群集がアルメニア人を襲撃する事件が起こり、これをきっかけに二国間紛争に発展した。1991年9月2日、ナゴルノ・カラバフ自治州と同州の北側に隣接するシャウミャノフスク地区との合同の人民代議員会議(議会)が「ナゴルノ・カラバフ共和国」(アルメニア語では「アルツァフ共和国」)創設を宣言したが、これを認めないアゼルバイジャンは同自治州を廃止して直接統治を企てた。これに対してナゴルノ・カラバフは同年12月10日に住民投票を行い、1992年1月6日独立を宣言した。
その結果、アゼルバイジャンとアルメニアの紛争はさらに先鋭化して局地戦争の様相を呈し始めたが、アゼルバイジャンで1993年10月ヘイダル・アリエフHeydar Aliyev(1923―2003)が大統領に就任し、親ロシア路線に転ずると、ロシアがアルメニアを抑え始め、1994年初夏に停戦協定が発効し、紛争はいったん鎮静化した。しかし、アルメニア軍がアゼルバイジャン領土の20%を占領し、ナゴルノ・カラバフ共和国は未承認国家として存続、アゼルバイジャン人避難民も帰還の展望を絶たれたままで、根本的解決には至らなかった。
その後、緊張状態は継続するも目だった武力衝突は起きなかったが、2016年4月1日、アゼルバイジャン軍とアルメニア軍の支援を受けたナゴルノ・カラバフ共和国軍による武力衝突が発生し、双方とも少なくとも数十名の死者が出る事態となった。
2020年9月27日、再び軍事衝突が勃発(ぼっぱつ)した。この衝突では、11月10日の4回目の停戦合意まで、停戦と停戦違反による軍事衝突が繰り返され、双方ともに軍民合わせて数百名に及ぶ死者が出る大規模な衝突となった。11月10日の停戦合意では、アルメニア軍が占領していたアルツァフ共和国(2017年2月20日採択の改正憲法によりナゴルノ・カラバフ共和国からアルツァフ共和国へと正式名称が変更された)の周辺地域が、アルメニアとの回廊部分(ラチン回廊)を除いてアゼルバイジャン側に返還されるとともに、ロシア軍のアルツァフ共和国への駐留、ロシアとトルコによる5年間の平和維持が定められた。しかしながら、その後も依然として紛争は鎮静化しておらず、アゼルバイジャンとアルメニアの国境地帯では、軍事衝突が断続的に続き、アゼルバイジャン軍によるアルメニア領の占領も起きている。
アルメニアは、2021年5月以降、ロシア、アルメニア、ベラルーシ、カザフスタン、キルギス、タジキスタンの6か国が加盟する集団安全保障条約機構(CSTO)およびロシア軍に介入を求めたが拒否され、さらに、2022年のロシアによるウクライナ侵攻により、この地域へのロシアの影響力が弱まった。それに対してヨーロッパ連合(EU)は、2023年1月から監視団をアルメニアに派遣、同年3月15日には、アゼルバイジャンに対し、軍事衝突時のアルメニア国民に対する人権侵害行為があり、憲法により保障されている集会、報道、表現の自由が制限されているとする非難決議を採択した。
アゼルバイジャン大統領のイルハム・アリエフIlham Aliyev(1961― )は、これに反発し、同年3月18日、EU監視団の活動を批判、「無意味な調停の努力を拒否する」と述べた。しかし、アゼルバイジャンはパイプライン経由でEUに天然ガスを輸出しており、天然ガス調達先のロシア依存を脱して多角化を進めたいEUにとっても、重要な輸出先を失いたくないアゼルバイジャンにとっても、関係悪化は避けたいところであり、複雑な状況下での外交的駆け引きも続いている。
[上野俊彦 2023年8月18日]