ナゴルノカラバフ(読み)なごるのからばふ(その他表記)Нагорно-Карабах/Nagorno-Karabah

デジタル大辞泉 「ナゴルノカラバフ」の意味・読み・例文・類語

ナゴルノ‐カラバフ(Nagorno-Karabah)

アゼルバイジャン共和国に属する自治州。中心都市ステパナケルトアルメニア人が多く居住しており、ソ連時代から民族紛争がたびたび起こっている。
[補説]1992年、共和国として独立自治を宣言するも、アゼルバイジャン・アルメニアは認めず、同地の帰属をめぐって2国間の衝突が激化。1994年の停戦後も和平交渉は難航し、2020年に再び大規模な武力衝突が発生。停戦は合意されたが根本的解決には至っていない。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

共同通信ニュース用語解説 「ナゴルノカラバフ」の解説

ナゴルノカラバフ

ソ連時代にアゼルバイジャン領内でアルメニア系住民が多数を占める自治州だったナゴルノカラバフは、ソ連が崩壊した1991年に「ナゴルノカラバフ共和国」樹立を宣言しアゼルバイジャン側と交戦。94年の停戦後も衝突が繰り返された。2020年の大規模衝突では、トルコの支援を受けたアゼルバイジャンがアルメニア側実効支配地の多くを支配下に置いた。アゼルバイジャンは今月19日「対テロ作戦」の名目で攻撃を開始。ナゴルノカラバフ側が武装解除に応じ、翌20日に停戦した。(共同)

更新日:

出典 共同通信社 共同通信ニュース用語解説共同通信ニュース用語解説について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ナゴルノカラバフ」の意味・わかりやすい解説

ナゴルノ・カラバフ
なごるのからばふ
Нагорно-Карабах/Nagorno-Karabah

アゼルバイジャンがかつてソビエト連邦(ソ連)の一部であった時期のうち、1923年から1991年までの間に同国西部のアルメニア人居住地域に置かれていた自治州の名称。面積4400平方キロメートル、人口18万9085(1989)。1991年以降、事実上、その地域の大部分は未承認国家であるナゴルノ・カラバフ共和国(2017年2月、国名を「アルツァフ共和国Republic of Artsakh」に変更)の統治下にあったが、2023年9月のアゼルバイジャン軍の攻撃によりアルツァフ共和国は消滅し、アゼルバイジャンが同地域の統治権を回復した。なお、ナゴルノ・カラバフ自治州は、アゼルバイジャンの行政区画としては1991年に廃止されており、その領域はアゼルバイジャンの複数の州にまたがっている。

[上野俊彦 2025年4月15日]

沿革

ナゴルノ・カラバフは、1923年アゼルバイジャンに属するナゴルノ・カラバフ自治州Нагорно-Карабахская Автономная Область/Nagorno-Karabahskaya Avtonomnaya Oblast'として設立され、その地位のまま社会主義時代を過ごしてきたが、1988年以降アルメニアとアゼルバイジャンの間でその帰属が争われていた。

 ソ連時代の1980年代後半、住民の大半を占めるアルメニア人がこの自治州のアルメニアへの帰属替えを主張し、1988年にアゼルバイジャン国内でアゼルバイジャン人とアルメニア人の民族紛争が勃発(ぼっぱつ)。これにアゼルバイジャン軍が介入し、さらにアルメニア、アゼルバイジャン両国の武力衝突に発展した(ナゴルノ・カラバフ戦争)。1991年9月2日、ナゴルノ・カラバフ自治州と同州の北側に隣接するシャウミャノフスク地区との合同の人民代議員会議(議会)が「ナゴルノ・カラバフ共和国」創設を宣言、同年12月10日に住民投票を行い、1992年1月6日独立を宣言した。アゼルバイジャンはこれを認めず、アルメニアとの紛争はさらに先鋭化。1994年に停戦協定が発効したものの、その後も紛争は断続的に続いた。2020年の大規模な衝突ではアルツァフ共和国の実効支配地域の多くが失われ、さらに2023年9月、アゼルバイジャン軍による攻撃を受けたことにより、アルツァフ共和国大統領は2024年1月1日までにアルツァフ共和国の存在を終了するとの大統領令に署名した。戦闘終了後、残るアルツァフ共和国支配地域から10万人以上のアルメニア系住民が難民としてアルメニアに脱出し、アゼルバイジャンが同地域の統治権を回復した。

[上野俊彦 2025年4月15日]

地理

カフカス山脈東側斜面に位置し、標高2500メートル級のカラバフ山脈から標高200~300メートルの山麓(さんろく)にかけて広がり、クラ川に注ぐ多くの支流の谷がおもな生活舞台となっている。平均気温は1月零下13℃~1℃、7月14℃~26℃。年降水量は400~900ミリメートル。低地は半砂漠で、山地は広葉樹林に覆われている。

[上野俊彦 2025年4月15日]

住民・産業

1989年国勢調査によるナゴルノ・カラバフ自治州の主要民族構成は、アルメニア人(14万5500、76.9%)、アゼルバイジャン人(4万0700、21.5%)であったが、2015年のナゴルノ・カラバフ共和国の調査ではアルメニア人(13万7380人、99.7%)が圧倒的多数を占めていた。2019年時点でのアルツァフ共和国の人口は14万8800人、同共和国首都のステパナケルトСтепанакерт/Stepanakert(アルメニア語)の人口は5万8300人であったが、2020年以降、10万人以上のアルメニア人が難民としてアルメニアに脱出し、報道によると2023年10月の時点で、旧ステパナケルト(アゼルバイジャン語ハンケンディXankəndi/Khankendi)の人口は数百人にまで減少したという。アゼルバイジャン政府は、2027年までに旧ナゴルノ・カラバフ地域に15万人を移住させることを目標としている。

 おもな工業は、食品加工、軽工業、木材加工、建築資材生産、鉱業(銅・金)などであり、農業は、ブドウ、果樹、野菜、穀物、タバコ、飼料作物の栽培、ウシヒツジの牧畜、養豚、生糸生産など。また、中心都市の旧ステパナケルト(現、ハンケンディ)には、軽工業(絹織物、製靴、じゅうたん製造)、食品加工(乳製品、食肉)、電気機器、農機具、家具、建築資材などの工場があったが、2020年以降、紛争による破壊とアルメニア人の流出により、産業は衰退し、現在は復興途上であると考えられる。

[上野俊彦 2025年4月15日]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ナゴルノカラバフ」の意味・わかりやすい解説

ナゴルノカラバフ
Nagorno-Karabakh; Nagorno-Karabach

アゼルバイジャン南西部にある地域。アゼルバイジャン語で Dağlıq Qarabağ。アルメニア語で Artsakh。アルメニア人が多数派住民であったことから,旧アゼルバイジャン=ソビエト社会主義共和国の時代には民族自治州を形成していた。アゼルバイジャンが旧ソ連から独立したあとの 1992~2023年には「ナゴルノカラバフ共和国(アルツァフ共和国)」を自称し,アゼルバイジャンとアルメニア両国家間の緊張の源となった。1988~94年と 2020年に大規模な紛争が起こり,2023年にアゼルバイジャンがこの地を完全に制圧し,ナゴルノカラバフ共和国は解体に追い込まれた。
小カフカス山脈南東端のカラバフ山脈の北東斜面からクラ川流域の低地にかけて広がる。最高点はギャムイシ山(3724m)。低地は乾燥したステップで,標高が高くなるにつれ,カシやクマシデの密林,カバノキの林,高山草原と植生が変化する。ワイン用のぶどう園や果樹園,蚕を飼育するための桑園が集中的に開発されているほか,穀物の栽培やウシ,ヒツジ,ブタの飼育も行なわれる。工業は食品加工が中心。中心都市はハンケンディ(旧ステパナケルト)。
1813年に帝政ロシアにより占領され,1923年にアゼルバイジャン=ソビエト社会主義共和国(1920年成立)内の自治州となり,カラバフ山脈を挟んでアルメニア人が主体のアルメニア=ソビエト社会主義共和国と切り離された。ソ連の統治のもと静かに発展してきたが,民族運動の高まりをうけて 1988年にナゴルノカラバフのアルメニア系住民がアルメニアに統治権を移すよう求めた。ソ連解体後,それぞれ独立を果たしたアゼルバイジャンとアルメニアがナゴルノカラバフの帰属をめぐって激しく対立。1990年代初頭にはアルメニアの支援を得たナゴルノカラバフのアルメニア人軍事勢力が激しい戦闘の末,アゼルバイジャンの国域南西部の大半とアルメニアにつながる幹線道路周辺を支配下におき,1992年初めにはナゴルノカラバフ共和国と名のって一方的に独立を宣言した。ロシアとヨーロッパ安全保障協力機構 OSCEのミンスク・グループ(ベラルーシのミンスクで開催予定だった和平会議が実現しなかったためこの名がある)の主導で和平交渉が進められ,1994年に一応の停戦合意をみた。
独立宣言後,ナゴルノカラバフ共和国は別途選挙を行ない,2006年には住民投票により新憲法が承認されたが,独立そのものがアゼルバイジャンや国際社会から認められることはなかった。2008年11月,アルメニア大統領でナゴルノカラバフ出身のセルジ・サルキシャンとアゼルバイジャンのイルハム・アリエフ大統領が,紛争の平和的解決への決意を確認する画期的な合意に達した。にもかかわらず,双方は 2010年代を通じて散発的に衝突を繰り返した。
アルメニア国内における政治的混乱の末,2019年初にニコル・パシニャン政権が誕生し,新たな交渉開始が期待されたが決裂し,2020年7月に短期間の衝突が起こった。9月27日には 1990年代初頭以来最悪となる大規模な戦闘に発展,クラスター弾や弾道ミサイルが飛び交う過酷な地上戦となり,多くの犠牲を伴った。11月9日にアルメニアを支援するロシアの仲介で停戦合意にいたり,アルメニアはナゴルノカラバフにおける軍事的支配から手を引き,ロシアの平和維持軍が向こう 5年間,この地域を警備することになった。また,ナゴルノカラバフとアルメニア本土を結ぶラチン回廊の使用は保証された。ところが 2022年2月のウクライナ侵攻により,ロシアのこの地への監視が手薄になったことから,12月にはアゼルバイジャンによってラチン回廊が封鎖された。2023年9月,アゼルバイジャンはナゴルノカラバフで軍事行動を開始し,9月末までにこの地の 12万人のアルメニア系住民のうち 10万人以上がアルメニアに逃れた。ナゴルノカラバフ共和国は事実上の終焉を迎え,みずから解散を宣言した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「ナゴルノカラバフ」の意味・わかりやすい解説

ナゴルノ・カラバフ

アゼルバイジャンに属する自治州。面積4400km2,人口約14万人(2008)。州都ステパナケルト。1923年以来の自治州。1988年,住民の76%を占めるアルメニア人がアルメニアへの帰属変更を求める運動を起こしてアゼルバイジャン人と対立。首都バクーに近いスムガイトでは,アゼルバイジャン人によるアルメニア人襲撃事件が同年2月に起きた。1990年にはバクーでの衝突にソ連が武力弾圧を加え,1991年のソ連崩壊に至る過程で紛争は激化した。ナゴルノ・カラバフは同年独立を宣言,アゼルバイジャンとアルメニアの戦争に発展した。1994年ロシアの仲介で停戦合意が成立したが,アゼルバイジャンは帰属変更を認めておらず,展望は開けていない。
→関連項目カフカスナヒチェバン

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

改訂新版 世界大百科事典 「ナゴルノカラバフ」の意味・わかりやすい解説

ナゴルノ・カラバフ
Nagorno-Karabakh

アゼルバイジャン共和国内の自治州。面積4400km2,人口14万6000(2003)。州都ハンケンディ(1991年ステパナケルトを改称)。〈ナゴルノ〉は山地の意。住民の76%(1979年センサス)を占めるアルメニア人が,自治州のアルメニア共和国への帰属替えを求めていた。ソ連邦解体後,ナゴルノ・カラバフも共和国独立を宣言し,アルメニア,アゼルバイジャン両共和国間の激しい紛争が続いた。94年5月ロシアの仲介により停戦合意がなされた。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のナゴルノカラバフの言及

【アゼルバイジャン】より

…北は大カフカス山脈の天険とダゲスタン地方,西はグルジアとアルメニアの両共和国,東はカスピ海に接し,南のアラス(アラクス)川とタリシ山脈を挟んでイラン領アゼルバイジャンと対している。国内にはナヒチェバン自治共和国(1924形成)とナゴルノ・カラバフ自治州(1923設置)があり,国内は行政上59地区,11都市に分けられている。民族構成はアゼルバイジャン人90%,ダゲスタン諸族3.2%,ロシア人2.5%,アルメニア人2.3%,その他2%である(1995推定)。…

※「ナゴルノカラバフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

[名](スル)二つ以上のものが並び立つこと。「立候補者が―する」「―政権」[類語]両立・併存・同居・共存・並立・鼎立ていりつ...

連立の用語解説を読む