ナポリ大学 (ナポリだいがく)
Università degli Studi di Napoli
1224年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世によって,教皇権と密接に関係したボローニャ大学に対抗する大学として設立された。ボローニャが学生組合主体の自生的大学であったのに対して,皇帝権という普遍的権力による最初の設立型中世大学として注目される。サレルノを除くシチリア王国唯一の大学として認められ,領民は他大学での修学を禁じられたが,大学が繁栄をみるのは13世紀中葉のシャルル・ダンジューによる改革以後である。その組織機能は国王の権限の下に置かれ,中央集権的国家体制下における中世大学として特異な地位を占めた。18世紀には全ヨーロッパ初の経済学の講座,19世紀初期に建築学,工学の教育機関や植物園の設置などの改革が行われた。近代に再生したナポリ大学は1996年現在,法学,経済学,文学,医学,第2医学,理学・自然科学,薬学,工学,建築学,農学,獣医学,政治学の12学部,学生数約10万人を擁している。
執筆者:児玉 善仁
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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大学事典
「ナポリ大学」の解説
ナポリ大学[イタリア]
ナポリだいがく
ナポリにある国立総合大学。1224年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世によって,教皇権と密接に関係したボローニャ大学に対抗する大学として設立された。ボローニャが学生による自生的かつ自治的大学であったのに対して,皇帝権という普遍権力による最初の設立型大学。サレルノ大学を除くシチリア王国唯一の大学として認められ,当時の学生団体に共通の組織形態が採られながらも,強力な国家統制の下に置かれた。大学の最高監督権も,フリードリヒによって国家のカンケラリウス(書記官長)に与えられ,司教は公的な教育から完全に排除されていた。教師の指名権,学生の規律の監督権,教育組織の統制権,進級と学位の授与権もカンケラリウスに属した。イタリアの他大学のような学生選出の学頭は,規約に最初の例がある1610年以降のことである。
18世紀にはヨーロッパ初の経済学の講座,19世紀初期に建築学,工学の教育機関や植物園の設置などの改革が行われた。現代も南イタリアの中心的大学として重要な位置を占めているが,1980年代の学生数増に対応するため,この伝統大学とは別に1991年にナポリ第二大学(イタリア)が設立された。2011年には4スクオーラ,26学科,正教授689人,准教授744人,研究員1112人,2015/16年の登録学生数約7万8000人。
著者: 児玉善仁
出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内のナポリ大学の言及
【カンパニア[州]】より
…ローマ帝国崩壊後は,ランゴバルド族が侵入,12世紀中ごろにはノルマン人の支配下に入り,[シチリア王国]の一部となった。沿岸諸都市はシチリアや東方との交易により繁栄し,サレルノの医学校の発展,ナポリ大学創立(1224)など,ノルマン諸王の政策とあいまって黄金期を築いた。1442年にフランスのアンジュー家からスペインのアラゴン王家に支配が移ると,[ナポリ王国]はヨーロッパでも最も華やかな宮廷の一つとして,南イタリアのルネサンスが開花。…
【大学】より
…一方,大学の発展に促されて(後に〈大学〉は,〈教皇権〉〈皇帝権〉と並称された),13世紀以降,とくに14~15世紀に,都市や皇帝・国王も,その威信と官僚養成をめざして,大学の創設に積極的に加担した。神聖ローマ皇帝による[ナポリ大学](1324)の創設を端緒として,スペインのサラマンカ大学(1330ころ),帝国領内の[プラハ大学](カレル大学。1347),[ウィーン大学](1365),クラクフの[ヤギエウォ大学](1364)などの大学が次々と創設された(〈創られた大学〉と呼ばれる)。…
【フェランテ】より
…国家秩序の再建に努力し,文化の振興に努めた。永らく機能していなかったナポリ大学を再建した。[ローディの和](1454)の後,ミラノ,フィレンツェ,ベネチア3国の結んだ〈イタリア同盟〉に参加し,ロレンツォ・デ・メディチとともにイタリア半島の政治的安定のシンボルとなった。…
※「ナポリ大学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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