工学は,古くは軍事技術military engineeringだけを意味した。しかし,18世紀以来,軍事以外の技術civil engineering(現在は土木工学の意味)が発展し,それ以来,工学とは,エネルギーや資源の利用を通じて便宜を得る技術一般を意味するようになった。本項では,後者の意味での近代工学の形成とその教育体制の整備に関して歴史的概観を示す。
フランスの土木工学校École des Ponts et Chausées(1747設立)やフライベルク鉱山学校Bergakademie Freiberg(1765設立)など,18世紀中葉以降,ヨーロッパ各地では各種の技術学校が設立されはじめた。近代国家を建設・整備し,産業革命を遂行するには,高度で体系的な知識をもった技術者が必要とされたからであった。このような動きを如実に反映し,また近代工学の理念を確立したことによって19世紀から現代に至る理工学教育の発展に決定的な影響を与えたのは,1794年,パリに設立されたエコール・ポリテクニク(理工科学校)であった。当時,フランスは革命のただなかにあったが,革命政府は内外の困難な状況に対処し,さらに革命の理念に基づく新しい社会を建設するという課題に直面していた。かくて軍事技術者や公共事業に携わる技術者を養成する国家的機関が,旧来の各種技術学校を統合・再編することによって設立されたのである。これがエコール・ポリテクニクにほかならない。この学校では,フランス全土から選抜された多くの有為な青年たちが,画期的なカリキュラムに沿って学習に励んだ。カリキュラムの立案には数学者のG.モンジュの貢献が大きかったとされているが,この学校では数学や画法幾何学(図学),力学を中心とする科学知識の習得に多くの時間があてられていた。このようなカリキュラムには,この学校で学んだ青年たちが,将来いかなる方面--軍事技術,土木,建築,造船,地図製作,さらに教職--に進んでも困らないためには,理論的・基礎的な知識が不可欠であるとのモンジュの考え方を反映していた。同時に,実験や実習にかなりの時間があてられていたことも忘れてはならないが,ともあれ,伝統的な技術知識とはちがって,〈基礎から応用へ〉という方向性をもつ近代工学の理念は,モンジュによって構想され,他の多くの科学者の支持も得て,エコール・ポリテクニクにおいて具体化され,実践されたのであった。その結果,この学校からは,当初の目標であった高級技術者だけでなく,フランスを代表する科学者も数多く巣立っていった。
エコール・ポリテクニクの設立とその成功は,当然のこととはいえ,他のヨーロッパ諸国,さらにはアメリカにも影響を及ぼした。たとえば,ドイツでは,18世紀初頭以来,エコール・ポリテクニクをモデルにした技術学校Technische Schuleが数多く設立された。これら技術学校の設立にあたっては,高級技術官僚たちの貢献が大きかった。彼ら実務官僚たちは,イギリスやフランスなどの先進国に比して立ち遅れているドイツの現状を憂慮し,近代化・工業化の不可欠の要素である強力な技術者集団の育成を目指して技術学校の設立に尽力したのであった。しかし,エコール・ポリテクニクが大学にとってかわる,あるいは大学以上の高等教育機関として位置づけられたのに対して,ドイツの技術学校は,伝統を誇るドイツ大学とは別個の中等教育機関として位置づけられたことは注意されねばならない。そのため,19世紀も中葉以降には,これら技術学校は,現状に不満をもつようになり,これまでの実績を踏まえて,入学年齢や入学資格を引き上げ,高等教育機関への昇格を目指すようになった。このような動きには,1856年ドイツ技師協会Verein Deutscher Ingenieureを結成するなどして,ドイツの急速な工業化の担い手としての自覚を強めつつあった技術者集団からの働きかけもあずかって力があった。かくて,70年代以降,各地の技術学校は,工科大学Technische Hochschuleへと昇格し,99年には学位授与権を獲得して実質的には大学と同等となった。このような事態の背景には,技術学校-工科大学における教育・研究がエコール・ポリテクニクの近代工学理念の浸透にともなって,高度化ないし科学化した(すなわち〈工学の科学化〉)という事情がある。その一方で,伝統的な大学における科学教育・科学研究といえども,化学者J.リービヒの場合がそうであったように,応用的な面もおろそかにしなかった(すなわち〈科学の工学化〉)から,19世紀末には大学と工科大学との間には,実際上,差異がなくなってしまったのである。
一方,産業革命のトップランナーであり,〈世界の工場〉として君臨していたイギリスは,かえって近代工学の理念の定着が遅れた。確かに,1840年にはグラスゴー大学に,また41年にはロンドン大学のユニバーシティ・カレッジに工学講座が設けられたが,それらは,質量ともに,大陸諸国における工学の研究・教育に及ぶべくもなかった。これは,イギリスにおける産業革命が,技術者や機械工の創意・工夫による自前の技術改良によって展開した事情を反映していた。しかし,フランスやドイツなど大陸諸国が近代工学の理念を体した専門教育機関を通じて,大量の専門家を養成する体制を整えたために,19世紀中葉になると,工業化の最先進国としてのイギリスの地位は危うくなってきた。このような事態の展開を憂慮した,プレーフェアL.Playfair(1819-98)ら科学者を中心とした大学人,知識人たちは,政府や世論に自国の危機的状況を訴えるとともに,企業家や土地所有者たちから拠金を募って,各地に理工カレッジを設立し,工学教育の普及に努め,技術者の養成にあたったのである。これら理工カレッジのいくつかは,19世紀末には高等教育機関としての実績を積み,体裁を整えて,大学に昇格した。
大西洋のかなた,アメリカでは,1802年,エコール・ポリテクニクにならって,ウェスト・ポイントに国立陸軍アカデミーが設立された。さらに,61年に設立された(講義は1865年から始まった)マサチューセッツ工科大学(MIT)をはじめ,各地に理工系の高等教育機関が設立され,1862年には十数校を数えるに至った。しかし,これらの学校は広大な国土を有する新興アメリカの産業発展の担い手を養成するには十分なものとはとてもいえなかった。そこで登場したのが,62年に公布されたモリル法であった。これは,〈農業や工学mechanical artsに関連する学問分野〉のための教育機関を設立し振興するために,国有地を与えるという趣旨の法案であった。この法案のおかげで,62年には12校にすぎなかった理工カレッジが,72年には70校に増加した。かくて,アメリカの理工学教育は多様化し,高度化することができた。この意味で,モリル法は,19世紀末から20世紀にかけてのアメリカの工業化と科学技術の発展の起爆剤としての役割を果たしたといえよう。
目を日本に転ずると,近代工学の理念の移植と定着は意外と早かった事実に驚かされる。すなわち,明治政府は産業育成に力を入れ,工部省をおいたが,工部省は早くも1871年(明治4)に,高級技術者の養成機関として工部大学校(当初は工学寮)を設立した。この学校はイギリス人ダイヤーH.Dyer(1848-1918)の指導のもと,土木,機械,造家(建築)ほか,工学の諸分野が用意され,厳しい教育が行われた。工部大学校の運営を一任されたダイヤーは,元来,イギリスの科学技術教育の立遅れを嘆き,ヨーロッパ大陸の工科大学(とくにスイスの連邦工科大学)における体系的・組織的な工学教育に関心をもっていたので,その夢を工部大学校で実現しようと努めた。しかし一方ではイギリス流の経験主義的実地教育もなおざりにせず,すぐれた設備をもつ実習工場もつくらせた。かくて,工部大学校は,多くの人材を各方面に送り出し,86年の帝国大学の発足に際し,工科大学としてその一翼を担うに至ったのである。ダイヤーは工部大学校在職中から,この学校の先進的な試みと,その成功を母国に伝えた。そして,彼の報告は,イギリスにおける理工学教育の改革論議のなかで一定の役割を果たしたのであった。西洋諸国に比してはるかに遅れて近代化に乗り出した東洋の国日本が,最先進国イギリスの〈モデル〉となるという皮肉な結果となったわけである。
→技術
執筆者:成定 薫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
語源の「エンジン」はラテン語の「考案」に由来し、「エンジニアengineer」とは、軍事用具・施設、たとえば弩砲(どほう)、浮き橋、攻撃塔などを設計・使用する職業人のことであった。その職業人仲間から尊敬されたイギリス人スミートンは、市民工学civil engineeringを提唱し、1771年、これまでの軍事工学でなく、街路・給水・運河など一般市民に役だつ職業人を結集した。1818年世界最初の市民工学会Institution of Civil Engineeringがイギリスで結成され、工学を「自然にある大きな動力源を人間に役だつように支配する術」と定義した。したがって、この学会は全工学を代表していたが、運河・橋・道路を建設したテルフォードが初代会長に就任したように土木工学が主流を占めていた。日本では土木学会とよばれる。
その後、蒸気機関車が発達し、この学会からG・スティーブンソンを初代会長とする機械工学会が1847年に分化、独立した。さらに電信機器の発達からW・シーメンズを初代会長とする電信工学会が1871年に創立したが、電力機器の急速な発達により1881年に電気工学会と改称した。日本では明治の初め工部省内の工学寮が発展改組した工部大学校が工学教育の起源となり、土木・機械・電気・建築・鉱山・化学・冶金(やきん)・造船などの学科が今日まで基本的に受け継がれ、その卒業生が日本工学会を結成した。
工学の専門分化は20世紀にさらに進み、化学工学、材料工学、原子力工学などが生まれ、機械・装置・施設などの労働手段体系以外の、人間・社会部門にも工学の方法を適用する人間工学・経営工学・社会工学・教育工学・都市工学・環境工学・情報工学など、人文・社会科学との新しい境界領域を設定している。
工学の方法は自然科学部門にも適用され、生物工学・宇宙工学・海洋工学などの境界領域に次々と進出し、理学・農学・医学の工学化、工学の理学化を招いている。しかし、あまりにも細分化、専門化された工学を教育的立場から統一し、自然科学の基礎理論から再編成しようとする基礎工学、技術史によって工学に人文・社会科学的視点を導入する工学概論の試みがなされている。また工学の隣接概念である技術学(テクノロジー)との区別が論じられ、工学とは工業技術学であるという定義もみられるが、語源と源流をたどれば、工学は職業専門的、技術学は一般教養的な歴史的性格の差異をもつことがわかる。
[山崎俊雄]
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…さらに確率過程論の飛躍的な進歩から時系列解析,統計力学との交流など自然科学の各分野にわたり,さらには社会科学や心理学などにいたるまで深い交流を保っている。(3)工学 電気工学は古くからフーリエ解析や微分方程式論などを通じて数学と深い交流を保ってきた。ところが工業界におけるオートメーション化と技術革新は自動制御の理論を求め,とくに最適制御の理論は変分法や微分方程式論に新たな分野を確立させるにいたった。…
…その一つは,科学と技術とのかかわり合いの変化を歴史的にふりかえることが不可能になる,ということである。科学技術はすぐれて20世紀の産物であり,近代的な工学の成立以前は,科学と技術との関係は疎遠であった。両者を一つのプロジェクトのなかで同時並行的に進める,というスタイルが興隆するのは,さらにのちの第2次大戦期からである。…
※「工学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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