改訂新版 世界大百科事典 「教皇権」の意味・わかりやすい解説
教皇権 (きょうこうけん)
使徒ペテロの後継者・ローマ司教としての教皇がもつ,ローマ・カトリック教会内の最高司牧権。カトリックの教理によれば,ペテロがキリストから,使徒団の中で特別の使命と権限を受けたことは,3テキスト(《マタイによる福音書》16:13~19,《ルカによる福音書》22:31~32,《ヨハネによる福音書》21:15~17)の総合的理解から証明される。また,キリストは使徒らに裁治,教導する権能(《マタイによる福音書》18:18,28:18~20)を与えたが,〈世の終りまで,すべての国民に宣教せよ〉との派遣の言葉(《マタイによる福音書》28:19~20)に従い,この使徒らの権能は後継者に継承され,ペテロの受けた司教の権能と全教会に対する首位権も,ローマ司教に受け継がれたとされる。1世紀後半,クレメンス1世(在位88-97)がコリント教会内の紛争解決のため送った書簡は,2世紀の全教会で高く評価されており,アンティオキアのイグナティオスは,ペテロとパウロのいたローマ教会が他の諸教会を教えるように,と宣言している。リヨンのエイレナイオスも,ローマ教会を全教会の(《異端反駁書》Ⅲ,3:3),3世紀のテルトゥリアヌス,ヒッポリュトス,キプリアヌスも,同様に語っている。一方,ウィクトル1世(在位189-199)は,これらの見解に支えられて復活祭祝日の統一を図り,小アジアの従わない教会を全教会の交わりから破門した。ステファヌス1世(在位254-257)も,異端者洗礼を認める自分の見解に従わない者を,同様破門の罰で脅かした。教皇は,2世紀以来たびたび諸教会の紛争解決を依頼されているが,4世紀以降は司教権の正統性保証のためにも依頼され,ローマ教会の受洗者信仰宣言文は,他の諸教会でも参照されるようになった。コンスタンティヌス大帝からラテラノ宮殿と世俗の裁判権まで与えられると,教皇は一般人民の世話にも関与し,西ローマ帝国滅亡(476)後は大地主としての政治経済力を増強,8世紀に教皇領をもつに至った。その政治権力は内外の情勢に左右されがちで,1870年,教皇領がイタリア王国に併合されるまで浮沈の連続であった。
910年クリュニー修道会の後ろだてに依頼されて,教皇は中世修道院改革の強力な支点となり,13世紀には新修道会をめぐる論議から,修道会承認権を行使するようになった。外部干渉からの教皇権独立の動きは,レオ9世(在位1049-54)に始まり,グレゴリウス7世(在位1073-85)の宣言《ディクタトゥス・パパエ》(1075)を経て,第3ラテラノ公会議(1179)の教皇選挙新令により制度的に確立された。14世紀のアビニョン捕囚と対立教皇間の大分裂(1378-1417)は,教皇権への信用を失墜させたが,その解消に一役を買った公会議至上主義は,フェラーラ・フィレンツェ公会議(1438-45)により破棄された。教皇権はその後,宗教改革者や啓蒙主義者からの攻撃もあって,トリエント公会議(1545-63)と第1バチカン公会議(1869-70)により組織的に明確にされ,その司教団との関係も,第2バチカン公会議(1962-65)により,教皇はキリストの代理者として全教会の上に最高完全の権能を有し,それを単独で自由に行使することも,司教団の頭として司教団とともに行使することもできる(教会憲章22)という形で,補足説明された。
→教皇
執筆者:青山 玄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報